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講演会前のミニミニオフ会はこちら(笑) |
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![]() この講演会は昨年に続き、ホテルオークラで行われた2度目の講演会だそうで、平岩さんがおっしゃるには昨年もいらしていた方々がいらっしゃるそうで、「同じ話は出来ませんね」とおっしゃって1時間半の講演が始まりました。 ←講演会場の平安の間(まだ開演前のお茶の時間です) |
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平岩先生は最初講演会をずっと固持されていたそうですが、ある日先生である長谷川伸氏から無理矢理講演会をセットされ、行くように言われてしまった。さて何を話そうかと思案している時、平岩先生の兄弟子であり、すでに売れっ子作家になっていた山岡荘八さん達3人が妹弟子の初講演を心配していた。このままではきっと彼女はすくんで何も話さずに終わるかも知れない。後に講演する尾崎一雄さんにも迷惑をかけるかも知れない。一方長谷川伸先生は尾崎一雄氏にわざわざ電話をして、「今回は彼女にとって初の講演です。早く終わってしまうかも知れませんし、或いは何も話せずにいるかも知れません。どちらにしてもご迷惑をおかけすることになると思いますが、どうぞよろしくお願い致します」とお願いされたそう。![]() そして平岩先生が尾崎先生に御挨拶に伺うと「長谷川先生からお願いの電話を頂いた。普通なら僕は楽屋にいるが、君に何かあった時は僕がすぐ舞台に出られるように、ずっと袖にいてあげる。心配しないで講演していらっしゃい」と応援してくれた。 結局平岩先生は無事に講演を終え(何を話されたのかまったく覚えていなかったそうです)、長谷川伸先生に講演会報告に出かけたが、あとで聞いたところ、兄弟子3人は心配でこっそり講演会場に来ていて、何かあったら3人が替わりに講演を勤めようと思っていたそうです。 こんな風に平岩先生は長谷川先生始め温かな先輩諸氏に囲まれて作家活動を始められたのですね。 会場では平岩先生の著書の販売も。→ |
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平岩先生は知人友人のことを小説にしたことはないそうですが、一度だけ小説にされたことがあるそうです。 先生の友人で、香港に嫁いでいる方から、こちらで出来た友人を紹介したいので会って欲しいと頼まれた。平岩先生は了解し、ペニンシュラーホテルで待ち合せをしている時、ふと見かけた品のある女性。思わず目が引き寄せられてしまう美しさ。その女性こそ待ち合わせの相手だったのですが、品があるのも当然、世が世ならば上海の富商沈家のお嬢さんでした。彼女のお祖父様は大変な日本贔屓の方で、上海の広大な沈家の庭には何種類もの桜があったそうです。そして上海在住の商社員などを大勢招いて桜のもとでパーティを開いていたそうです。そこで彼女の御両親は恋をし結婚、彼女が生まれました。彼女の母親は、父親の母国語を話せるようにと、彼女に美しい日本語を教えた。しかし戦争が激しくなり、彼女は母親と一緒に香港へ逃れた。後始末に追われていた父親は脱出することが出来ず、結局上海で亡くなった。彼女と親しくなった平岩先生は彼女から「実は私達には国籍がありません」と打ちあけられた。平岩先生は彼女の父親が日本人なのだから日本国籍が取れるのではと思ったが、すでに何度も日本政府に申請したが駄目だったという。結婚証明書でもあればいいのだが、それも戦争のどさくさで見つからず、国籍のないままに香港で暮していた。 ある時彼女の弟さんが海外の山を登山中遭難した。同じく日本のパーティも遭難し、現地に急いだ彼女はそこで国籍のない者の哀しさを思い知らされた。日本の遭難者の家族には、現地の日本人や領事館の人達が力づけ、慰め、救助の手筈を整えているのに、傍にいる彼女には誰一人声をかけるものもいない。半分は日本人の血が流れているのに・・・辛く悲しい思いを味わったと。 日本政府に何かして欲しかった訳ではない、ただ一言慰めの言葉が欲しかった・・・ ある日彼女の家に招かれた平岩先生は彼女のお母様から沈家の美しい桜の話を聞かされた。そして母親の願いを聞かされた。 「私達は中国を捨てた人間です。上海には二度と戻れないと思います。ただ沈家がどうなっているか、あの桜がどうなっているか知りたいのです。どうか上海へ行くことがあったら見てきて下さい」 当時はまだ簡単に中国にいくことは出来なかった時代。折しも彼女のお母様が病に倒れたとの知らせに、なんとか沈家の様子を知らせたい。中国へ知って調べてきたい。そう思った平岩先生は伝手を頼ってなんとか中国へ行けることになった。決められたスケジュールの中、無理にお願いして上海で4時間の自由時間を貰い、5時までには必ずホテルに戻ってくるという約束で沈家探しに出かけた。書いて貰った地図を頼りにひたすら歩き回って沈家を探したが、言葉も通じない異国では時間が過ぎるばかり。約束の5時が迫って辺りには夕暮が・・・時間を確かめようとふと立ち止った時、目に飛び込んできた桜樹。秋で花こそ咲いていないが、病院の庭にまぎれもない桜の樹が。急いで門の前にある店に飛び込んで、店にいた女性に筆談で聞いてみた。「あそこは沈家か?」 なんという偶然か、そこはやはり沈家の跡地であった。今は病院になっているが、その庭にたった一本の桜が残っていたのだ。 そしてそのお店の女性は昔沈家で乳母をしていた女性だった。「奥様、お嬢様はお元気ですか?」涙を流しながら平岩先生を桜の樹に案内し、愛しむように桜の幹をなでた。平岩先生がホテルに滑り込んだのは、約束の5時1分前だった。 ![]() 日本に帰った平岩先生は香港に電話をし、沈家の様子を伝えた。その様子を聞いた彼女のお母様は「あの子は生きていたのですね」 平岩先生が伝えた乳母だった女性の消息に涙を流した。だが二度と上海へ帰ることなく香港で生涯を終えられた。その後彼女は中国に帰る機会を得、一訪問者として中国へ帰り懐かしい上海の沈家を訪ねた。時は春、たった一本残った桜は満開の姿で彼女を迎えた。 平岩先生が最後に彼女に会ったのはニューヨークであった。 彼女の遺言は「どうか私達のように国籍を持たない人間の哀しみを書いて下さい。それが私が生きた唯一の証ですから」というものであった。そして「色のない地図」が執筆された。 |
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1999年11月20日講演会レポートはこちら。 |