オケラのくりごと  東北の旅

  一人なら松尾芭蕉、コンビならヤジキタ、三人組なら水戸黄門一行と、古来名のある旅人は多いが、オケラだって一端旅人だったことがある。 当時のオケラの旅は、山を除いては大抵仕事絡みだったから、行先もある程度限定され、同じ所を何度か訪ねることが多かった。 特に国内ではその傾向が強く、北は稚内、南は屋久島まで行ったが、回数をこなしている割には、そして行き帰りに一所懸命寄り道しようとしている割には、足を踏み入れていない県が間にぽつりぽつりと残ってしまった。 また行ったことがあっても、時間の関係で有名観光地や必須訪問地をはずしている所も多い。 例えば大雪山、広島の原爆ドーム、阿蘇山、等々。 沖縄はそもそも行った事がないから、宮崎同様100%未知の国である。 岡山、香川、佐賀の各県は通り過ぎることはかなりあったのだが、足を踏み入れたとは一寸言い難い。 これに対し度々通ったのは釧路、八戸、大船渡、名古屋、大阪、和歌山、大三島、酒田、境港、高知、北九州、長崎、等だが、飽くまでも仕事中心の出張だったから、他人を案内出来るほどに馴染んだ街は少ない。 だからこうして何かを書こうとすると、ある一瞬間、一風景は覚えていても、昔のことでもあるしその前後がゴチャゴチャで、とても系統だてての説明は出来ない。 然しうどん屋をやっている最中にフッと思い出すことがあって、例えばきつねうどんを作りながらズーッと前の岩手県一関での地震を思い出したりしている。 こういった想い出の蓄積が、旅のもう一つの楽しみである。 あの時は輸入貨物を受け取りに行って、貨物は大船渡と釧路の二港揚げ、その両方にオケラが立ち会う。 大船渡は三陸海岸で、釧路までは海路なら直ぐだが、陸を回ると、今でもそうだが当時は更にとんでもなく時間が掛った。 そこで荷役途中で現地の人たちに後事を頼み、釧路へ向け出発した。 途中一関で列車待ちの時間を利用して、久々に駅横の五階建の細長いビルの天辺にある風呂に入っていたら突然の大地震。 震度5だとかで、湯船の湯はジャバジャバこぼれるし、素っ裸のオケラは揺れている以外に成す術もなかった。 あの時あのビルが倒れてオケラが死体になったとしたら、オケラがあの風呂に入っている事を知る人は居らず、身元確認も出来ぬまま埋葬され、独身だったオケラは、もてないのを苦に蒸発したとでも思われる位が関の山だっただろう。 大船渡は有数の秋刀魚の水揚げ港である。 それなのに、そのシーズン中に宿で冷凍秋刀魚の焼き冷ましを食べさせられた。 故にオケラにとって‘大船渡の秋刀魚’は‘目黒のサンマ’の逆の意味を持つ。 青森は海猫で有名な八戸の蕪島と、青森駅のホームしか知らなかった。 山形県は酒田に行くことがあって鶴岡辺りの村の共同浴場を教えられて入れて貰ったりしたが、ここも知っているとはいえない。 秋田は酒田からの帰り、飛行機待ちで一泊して高清水を呑んだだけ。 と言う訳で、その他もそうだが東北地方も随分行っている割には知らない所が多すぎた。 そこで1990年9月、うどん屋になってから、お盆休みを取らなかった代わりに店を5連休して、東北地方の一人旅に五泊五日で出掛けた。 夜行寝台で盛岡に行き、三陸海岸、下北半島、奥入瀬から十和田湖、八甲田、田沢湖と、曾ての仕事の出張では行けなかった所を、そして一度は行ってみたいと思っていた所を中心にスケジュウルを組んだ。 この事を知ったお客様からも、例によって色々な助言を戴いた。 日曜の閉店後、後片付けをメケラ達に任せて上野に行き、弁当ビールつまみを買って寝台車へ。 ロシア語の表現に‘心は鞄の上に座っている’というのがあったが、もう既に鞄を持ってスタートしたのだから、気分はその上を行っている。仕事抜きだと楽しいねぇ。 一人旅だから予定変更は自由。 にも拘らず、列車の到着時刻との関係で乗り遅れるかもしれない三陸海岸巡りの船の出航時刻を、オケラの為に5分限度だが遅らせる交渉もしてある。 大まかな予定に沿っての行き当たりばったりの旅は、相手が待つ出張との根本的な違いであり、金が出るか入るかの違いでもある。 リアス式海岸を堪能して八戸に行ったら、お祭りをやっていた。 翌朝、下北へ。 恐山はまだしも、目茶苦茶不便な交通機関を、何とか有効に利用しようと頭を使いながら、その不便さを楽しむ。途中で村人以外は 200円という硫黄泉にゆっくり浸かり、民宿で泊まり合わせた客と楽しく食事。 三日目は船で青森へ。 それからバスで八甲田を経由して十和田へ。 奥入瀬の渓流は途中までは清流だったが、上流に行ったら台風の影響で山に雨が降り、赤土が流れ込み始めていて、濁流が湖から来る清流とナイルも斯くやとばかりに流れを奇麗に二分していた。 十和田湖を渡って宿へ。 次の日、田沢湖温泉に行こうと観光をしながらバスを乗り次いでいたら、何番目かのバスの運転手さんから声を掛けられた。 秋北バスの十和田湖の営業所から、田沢湖へ抜ける道路が土砂崩れで通れなくなっている事を、オケラに伝えよとの連絡が入っているとのこと。 これには驚いた。 夏から秋への端境期で観光客が少なかったとはいえ、乗るバスを確かめただけの名も知れぬたった一人の客を追いかけて道路情報を伝えてくるなんざぁ、親切心がなければ出来ることではない。 急遽、後生掛(ゴショガケ) 温泉に泊まることになったが、このルート変更についても現地の運転手さん達に色々と便宜を計らって戴いた。東北人は親切だとは聞いているが、こんなことにぶっつかると痛切に感じる。これって、凄っごくチョベリグ。 これが今のところ列車による最後の一人旅。その他の所にも、腰痛とは言え鞄を持つ体力のあるうちに、仕事抜きでゆっくり行ってみたいのだが、体力のある内はうどん屋をやらねばならない破目になっており、長くは休めない。 あァア、これってマジにチョウチョベリバ。
−−−−−−−−−−1996.12記
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