オケラのくりごと  テレビ

 オケラの所にテレビが来てから、かれこれ30年余りになる。 カラーが出始めた頃だったが主流はまだ白黒で、画面は球面、角は漸く角張ってきてその分だけ対角線のインチ数は増えたが、それでも14型から精々18型位までだったと思う。 何れも家具調の木製のキャビネットで値段は高く、薄給取りのオケラにとっては高嶺の花だった。 オケラの周りにはテレビの所有者は余り居らず、特にオケラと同クラスの飲み仲間は誰も持っていなかったので、テレビ抜きの話題でピッタリ合い、劣等感にさいなまれることはなかった。 然し一方、巷にテレビが猛烈な勢いで普及していることは判っていて、諦めつつも出来ることなら欲しいものだ、位の気持ちはあった。 新聞のテレビ番組欄はまだラジオ欄の下で半分ぐらいしかなかったが、このスペースが逆転することは時間の問題と思われた。 理由が何だったか覚えはないが、会社からなにがしかの金が突然支給されることになり、同僚の友人がコロンビアに勤めているとかで、白黒16型を割安で買うことになった。 当時のコロンビアは名にし負う音響機器のトップメーカーで音の良さには定評があり、ステレオの真ん中に画面のあるようなウォールナットの家具調の、さぞや立派なテレビが来るものと思われ、思い掛けないチャンスに喜びながら期待して待った。 数日して届いた大きな箱から出てきたのはスチール製の事務用品のようなテレビ。 些かがっかりしたが、考えてみればオケラの支払い額と期待とのバランスが取れておらず、まあ仕方がないと納得した。 そして真室川音頭の‘山から蹴っ転がしたる松の木丸太でも妻と名が付きゃ満更憎くない’のと同じで、‘俺の’となった事務用品に三日で愛着を覚えた。 所で音響機器メーカーとしてのコロンビアはその後名前を聞かないが如何してしまったんだろう。 一方のビクターは今なお隆盛なのに。 下宿の六畳には適当な場所がなく、押し入れの上段に置いて、必然的に万年床になった寝床の中から見ることにした。 これは意外に良い考えだったが、飲みながら見るのには具合が悪かった。 スピーカー一つが画面の横に付いているので、横から音が聞こえてくるのではないかと心配したが、画面の口許から声が聞こえてくるので、如何に目の影響力が強いかが判った。出勤日の夜には、残業や飲む誘いなどが無ければ、家で飲みながらテレビを観るようになった。 そして日曜日、洗濯を済ませてから、食事をしに街に出る。定期券も暇も有ることだし、新宿でのパチンコと映画がその後に続くのがそれまでの習慣だったが、テレビが来てからは藤田まことと白木みのるの‘てなもんや三度笠’と中田ダイマル・ラケットの‘スチャラカ社員’を観てから近くで飯を食い、あとは部屋で横になって風呂の時間以外はチャンネルのつまみをガチャガチャさせることが多くなった。 こうしてオケラもテレビ中毒の仲間入りをして行く訳だが、当時のオケラにとっては飲み仲間の方がまだ影響力が大きかったから、結構飲み屋にも、そしてパチンコ屋にも依然として乏しい給料を分けてあげていた。 帰宅は遅く、テストパターンが空しく映っているだけと言うことが多かったが、それでも観ることは観たらしく、幾つかの番組を覚えている。 ‘ルート66’はアメリカを横断する66号線沿いに旅をする若者二人が出会う事件。‘ローハイド’はご存じロバートフラーのカウボーイもの。‘ルーシーショウ’は特にオケラの好きなコメディーで、映画なのに観客の笑い声が入っており、妙なものでそれを聞くと一緒に可笑しくなる。‘ベンケーシー’は脳外科医とその患者にまつわる話で、今でも名前の判らない脳外科医にはミスターケーシーと呼び掛けるそうである。‘大草原の小さな家’は西部に移住した一家の開拓と少女ローラの成長の物語で、最近も何度目かの再放送をしていた。‘逃亡者’は妻殺しの罪で無実のデビッドジャンセンが犯人を捜しながら逃げ回る話。‘コンバット’はビックモロウのサンダース軍曹が中心の戦争もの。 何故かその当時余り観なかったが‘エドサリバンショウ’や‘ペリーコモショウ’は、その都度多彩なゲストで目を見張らせた。 これらは皆アメリカ製だと思うが、今考えても良くできていた。 これに対する国産ものは、チャンバラやホームドラマが主流だったのではないかと思うのだが、殆ど覚えがない。 然し‘夢で会いましょう’は充分楽しませて貰った。 出演者は豪華だったが今となって思い出すのは、番組の最後に首を横に曲げてご機嫌ようと挨拶する中島弘子と、坂本九や梓みちよ等を使って数々の名曲、ヒット曲を作り出した、永六輔と中村八大のコンビぐらい。‘シャボン玉ホリデー’はピーナッツとクレイジーキャッツで、それなりに面白かったのだが、終わりの頃にはお呼びでないとかガチョーンとか毎度お馴染みのギャグが鼻についてきた。 でもピーナッツは当時のこまどり姉妹や後のピンクレディーと比べると一格上だった、と思うのはオケラのひいきだろうか。 聴取者が視聴者になり、カラーになり、音声多重になり、UHFのアンテナを付け、ベータのビデオが付き、VHSに変わり、BSのパラボラアンテナがNHKの集金人を呼び、BS内蔵のSVHSのビデオになり、大型の、一人では到底持ち上がらないステレオテレビになりと、器具は次から次へと変化し、数も量も増えた。 然し中身がそれ程変わったとは思われない。 上記の幾つかの番組を超える番組は、この30数年間に殆ど無かったと言っても良い。 局数が増えただけ選択の幅が広がった筈なのだが、こうも同工異曲の下らない番組が並ぶと、どれも選ぶ気がせず、結局はニュースしか観なくなる。 そしてこのニュースがまた代わり映えがせず、同じような事の繰り返しと来ている。 シマッタ。 最初にニュースをビデオに撮って毎日観てれば、その後視聴料を払わずに済んだんだ。
−−−−−−−−−−1996.09記

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