オケラのくりごと  ラジオ

 歌声喫茶の‘かあさんのうた’の二番の終りは‘故郷の冬はさみしい/せめてラジオ聞かせたい’だった。 当時は1950年代の終りから60年代初めの頃で、トランジスターラジオが出て、豊かさの象徴としての白黒テレビが全国的に漸く一般的になりつつあり、64年の東京オリンピックに向けてカラーテレビが出始めていた。 既に巷の話題はテレビに基づくものが主流で、マイカーの普及は未だまだ、結局ラジオを聞いているのは、残念ながらオケラを含めた、テレビを買えない貧乏人だけだった。 こうした状況の中で聴くと、ラジオすらも無いという、この歌詞の‘せめて’が生きてくる。 然しその昔、オケラの子供の頃は戦後間もなく、例外的な娯楽としては映画があったが、ラジオと貸し本屋が辛うじて一般の家庭を潤していた時代で、ラジオの無い家も結構あった。当時のラジオは吊り棚やタンスの上という高い所か、床の間の如き上座に居て、正に家庭内に放送していた。 ラジオの普及と進歩は速かったが、それでも放送電波は弱かったし、山間の村にはラジオどころか電気の無い所があったり、日本海側では海外電波の方が遥かに強かったりで、現在のような感度の良いICラジオで何時でも何処ででも聴けるという状況からは想像し難い状態だった。海外の日本語放送や進駐軍の米語放送を除けば、NHKの第一と第二しかなく、全国で同じ放送を聴いていた。 あるラジオ歌謡の歌手が当時を思い出して、街では隣から隣へと同じ自分の歌が流れていて、それを聴きながら歩くのは嬉しかった、と言っていたが、そうだったろうと思う。 ラジオ歌謡は全国民の歌であり、不思議に名曲が多かった。 歌手も多彩で、皆実力派揃い。 夫々名を挙げ始めたらきりがないので止めておくが、皆懐かしい。 夕方には子供向けの連続放送劇があった。 代表は何と言っても最初の‘鐘の鳴る丘’だろう。 菊田一夫作の浮浪児、即ち戦争孤児に纏わる物語で、主人公は多分、隆太。 古関裕而のハモンドオルガンによる音楽も特徴があり、‘緑の丘の赤い屋根/とんがり帽子の時計台’に始まる主題歌は今でも歌える。 この時間帯にはその後、福田蘭童の笛で‘笛吹童子’、‘紅孔雀’、‘剣をとっては日本一の’で始まる‘赤胴鈴の助’や、道志村で花荻先生が人気の‘三太物語’、吉川英治の‘あるぷす大将’を元にしたと思われるロッパの‘さくらんぼ大将’等々と続いた筈だが、順番は定かではない。 話はそれるが、オケラにとっての‘鐘の鳴る丘’に当たる原体験的番組は誰にもあるようで、四十過ぎ位のおじさん達が仲間内で飲んで、皆で‘どこの誰かは知らないけれど‥‥月光仮面のおじさんは’等と声を張り上げているのを見ると、笑っちゃうけど判るわかる。 その内酔っぱらい達が巨人の星やウルトラマンの歌を歌うようになるよ、きっと。 菊田一夫と古関裕而のコンビは、その後銭湯の女湯が空っぽになるという伝説を生んだ、すれ違い続きの‘君の名は’を暫く続けていた。 子供向けの放送劇の後は、平川唯一の‘カムカム英会話’で、猫も杓子も英会話づいた。 巌金四郎の張りのある美声が印象的だった‘向こう三軒両隣’が終るといよいよ夜。 七時のニュースの後は、曜日によって変わるが、‘三つの歌’‘とんち教室’‘二十の扉’‘話の泉’‘今週の明星’‘君の名は’‘放送劇’等々、家族全員で聴き入った。 藤倉修一の街頭録音は、画期的な番組として評判が高かったが、他に無いから聞きはしたものの、オケラが喜んで聴くものではなかった。 日曜の朝は‘音楽の泉’。 何代も替っているが、思い出すのは堀内敬三。 この番組は今も続いているから、話題にはならないけれど、‘昼の憩い’や‘のど自慢’‘日曜名作座’といい勝負の長寿番組ではなかろうか。 日曜の夜は遅くなってから待望の‘日曜娯楽版’。 三木鶏郎作・構成・演出だったのだろうと思うが、時事コントの連発。 河合坊茶など出演陣も粒が揃っていた。 ‘僕は特急の機関士’‘毒消しゃいらんかねぇ’‘田舎のバス’等の歌も懐かしい。 名物アナも多く、宮田輝、高橋圭三、青木茂、和田美恵子、等、NHKは画一的だと言われる割には個性豊かだった。 出演者達も、童謡歌手や小柳徹等の子役はいたが、今のようなアイドル歌手などは居らず、美空ひばりも余り出る機会はなかったと思う。 第一放送を左、第二放送を右として、立体放送の実験も行われた。 オケラも隣の家からラジオを借りてきて試してみたが、隣のスピーカー二つにマジックアイ付きの立派なラジオに対し、オケラの兄の手作りのラジオでは音質が違い過ぎて如何にもならなかった。 オケラもこの兄の指導とお膳立てで、三球ラジオを組んだことがある。 用意してくれた配線図と部品をにらみ合わせて、30cm×40cm位の板の上に半田ごてを振ったのだが、ようやっとの作業終了時に居合わせた兄が、微かに鳴るオケラの最初で最後の手製のラジオを、ア、ここが間違ってる、もういいだろ、と、まともな音を出させないまま忽ち分解してしまった。 後日、この兄は自分でテレビを組み、剥き出しのブラウン管の歪んだ画像を見ていて、結婚した義姉に、ちゃんとしたテレビを観たい、と嘆かせた。 大学の寮に入ってからは、イヤホンだけだが電源無しで鳴るゲルマニュウムラジオを愛用した。会社に入って間借りし、初めて自分専用の小型ラジオを買ったが、朝の七時頃は民放各局がコントだとか、歌のない歌謡曲だとか、5分か精々長くて10分程度の番組を連ねていたので、各局の番組をチェックすれば、3分以内の誤差で時刻を知る事ができ、その後のつけっ放しのテレビ時計同様、結構重宝した。ラジオはオケラにとって娯楽と教養の源であり、受験時代には課外授業の先生でもあった。 今朝だって‘ラジオ談話室’で、オケラの為にボケを治す話をしてくれた。 おや、貴方もその気で聴いた? ひょっとしたらご同病?
−−−−−−−−−−1996.07記

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