オケラのくりごと  モスクワ−3

  オケラはロシア語ができなかった。 モスクワに赴任するに当りほんの数ヵ月学校に行ったが、到底読み書き会話の段階に至らず、アルファベットもあやふやで、やっと1から10までの数字とダァとかニェットとかの簡単な五つの単語を覚えたに過ぎなかった。 仕事やそれに類することは片言の英語で何とか用が足りるから、自分の意志を通したいなどと高望みさえしなければ何とか生きて行ける。 例えば外から見ただけでそこが食堂か床屋かぐらいは判るし、食堂に入れば向こうは何か食べさせようとするし、こちらは何か食べようとする。 だから基本的にここには言葉は要らない。 安くて美味いものを食べようとするのは贅沢である。 床屋に行って何か食べようとしたら、それは達者な言葉が必要だろうが、初心者はそんなことを望んではならない。 散髪が終った後に“アデカラン?”と聞かれて訳の判らぬまま“ダァ”と答えたばっかりに顔に真っ正面から突然オーデコロンを吹きつけられても、驚かずに我慢して素直に代金を払わなければならない。 初心者にそれなりの忍耐と謙虚さが求められるのは、そう、これに限らず当然のことである。 一年半位たった時には、何とか飯ぐらいは自分で食えるかなと言う程度まで行ったのだけれど、その後全部忘れて今、オケラはやっぱりロシア語ができない。 或る時、都心のバーで腕時計をなくした。 これを捜しに行ったらテープレコーダーをなくした。 そしてこれを捜しに行ったら大枚入りの財布をなくした。 この次は命をなくすかもしれないと冷静に判断して、全部諦めた。 地下鉄のエスカレーターは長くて早い。 幅は二人分あり、人々は左側に立って右側を空けておく。 急ぐ人は右側を上り下りする。 日本では不断せかせか歩くくせに、エスカレーターでは全員が一杯に乗って頑として動かず、降りると走り出す。 ソ連の習慣の方が遥かに合理的だと思うが、見習えないものか。 地下鉄では5カペック貨を改札口の穴に入れると腰の辺にあるバーが回転可能になり一人通れる仕掛けになっている。 然し路面電車(3カペック)、バスやトロリーバス(4カペック)は大抵ワンマンで車掌はいず、乗車券は乗車口に長いテープになっているのがぶら下げてあるだけである。 乗客は料金箱に硬貨を入れ自分で一枚分ちぎる。 混んでいて自分で出来ないときは隣の人に金を渡す。 手渡しで乗車口に行った硬貨は皆でやり繰りしてやがて乗車券とお釣りになって帰ってくる。 ある日、衣服や日用品の外貨ショップに行くことにしたが、どうしたら行けるのか判らず、取敢えずバスが沢山通っている赤の広場の近くに行って地図を見せ口の中でモゴモゴ言った。 何とか通じたらしくそれからオケラの手渡しが始まった。 まず正しいバスの乗り場に連れて行き、そこで待っている人に趣旨を告げてオケラを引き渡す。 それから二台のバスを乗り継いで無事に目的地に着くまで5〜6人を煩わしただろうか。 仕事に就いているのは全員国家公務員である、というのは頭の中で判っていてもなかなか実感として判らないところがある。 ホテルの宿泊クーポンを買うと自動車の利用券がついてきて、この券で市内観光をするわけだが、飛行場に行ったりも出来る。 前日に予約をし、さて乗ろうとすると車が来ない。 こんな時係員に言いに行くと大抵は“ヤー ニェ ズナーユ(私は知らない)”と言う返事が返ってくる。 私はちゃんと手配したとか、昨日の担当者は休みだとか、手配した先の担当者が捕まらないとか、理由は様々だが答えは一つ、“ヤー ニェ ズナーユ”。 トラブルが起きる度に聞かされると、他に何も知らないのにこの言葉だけ“ヤー ズナーユ”になる。 そして相手が国家公務員であることを実感する。 個人的には皆親切で良い連中ばかりなのに。 冬のレニングラードの戸外でビールを売っていて、頼むと売り子が一人だけ入れる電話ボックス位の小屋の小さな窓から温かいジョッキを出してくれる。凍えた口から思わずこぼすと外套に瞬時に白く凍りついて叩くと奇麗に落ちる。 ビールと言えば彼等が好むつまみの一つにボブラがある。 子持ちの干した魚で、生のものは見たことがないが鰊ぐらいの大きさだと思う。 身は白身でむしって食べると結構行けるが、大きな卵はイガラっぽくてオケラ好みではなかった。 この干魚は缶詰で売っている。 理由は乾燥しすぎるから。 干海苔なども缶から出しておくとカラカラになって粉々になってしまう。 こんな気候に慣れているロシア人は春になって空気が湿ってくると風邪を引く。 日本と逆である。 オケラも乾燥が原因なのか、それとも栄養失調か、兎に角体中が痒くなって困った覚えがある。 背中を掻いてくれる人もいなかったから、自分で苦労して掻かなければならなかったお蔭で三十肩にならずに済んだ。 そんなこんなでようやく年季が明け、交代要員がやってきた。 待ちに待った帰国だったが、いざその時になると元々少ない後ろ髪をほんの数本だが引かれる思いがした。 海外から帰った連中が、何かと言うと“あちらでは”を連発するのに辟易していたオケラも、自分がそうなってやっとそうなる訳が判った。 彼等は日本における過去を失っており、自分が生きてきたその期間を語ろうとすればどうしてもあちらの話しかない、可哀相な人種なのである。 そしてオケラの場合はこんな風に、あちらでは“曾てこうだった”と過去完了形でしか話せない更に可哀相な人間なのである。 ハイ、判ってます。 オケラの髪が曾てはふさふさしてた、なんて類の話、今更何の意味もないことは。

−−−−−−−−−−1992.08記


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