オケラのくりごと  モスクワ−2

 モスクワに入って最初の三ヵ月間位は何を食べてもおいしく、中でもシャシリクという羊肉のバーベキューと、サリャンカというキュウリのピクルスやソーセイジの入った塩味のスープが気に入って、他の名前を知らない所為もあって毎日のように食べていた。 ソ連は確か16の共和国から成っていたが、モスクワには夫々の共和国や首都の名前をつけたレストランがあり、これらのレストランではロシア料理の他にその地方の郷土料理を出す。 例えばオケラのいたホテルにはレストランウクライナがあり、バターを鳥肉で包んで揚げたキエフスキーカツレツやウクライナ風ボルシチを出すし、確かレストランアラグビではシャシリクを初め、羊の煮込み料理や種々な具が入った壺焼を出す。 これらの料理は本当にうまい。 何しろ原則としてその土地の一流のコックが自分の気に入った材料で作るのだから、その本場性は日本でフランス帰りの日本人が作るフランス料理の比ではない。 但しこれにも例外はあって、レストランペキンの中国料理は、中ソ関係が悪化したあおりで大使館員と共に中国人のコックが引き上げてしまったのだそうで、長期滞在のオケラは喜んで食べたが、来たばかりの人には何とも言い様のない味だったのではないかと思う。 最初美味かったソ連料理も時間が経つにつれ飽きて鼻に付いてくる。 オケラなどはレストランウクライナのメニューを覚えてしまって、部屋で考えただけで行きたくなくなる。 その上、昼食時に一番簡単な料理を頼んでも、着席から勘定まで一時間で仕上がればこれはもう奇蹟で、通常は二時間は覚悟しなければならない。 貿易公団との約束時刻の合間に駆け込む日本人にはこれが耐えられない。 一方レストランで食事をすると普通10ルーブル、一寸奢ると15ルーブル位かかる。 これは当時の月給 100ルーブル、共稼ぎのロシア人にとっては大変な額である。 だから彼らは滅多に来られないし、来た以上は徹底的に楽しもうとする。 楽団の演奏を聴き、ダンスを踊る。 従って日本人が望むようにスイスイと料理が出てきては却って困るわけで、ゆったりゆっくりくつろぐ時間が料理とともに期待されているのであろう。 結局彼等にとってのレストランは我々にとっての赤坂の一流料亭に当たり、ここで30分で食事をしようという方が間違っていることに気がついた。 急ぐなら一格下のカフェに、もっと急ぐならその下で大抵はセルフサービスのスタローバヤに行けば良い。 余り茹で置きをしないオケラの店ではしょっちゅう麺が切れて麺待ちになる。 こんな時まだかまだかと急かせるお客様には正直参るが、あの時のレストラン側は日本人の顔を見るとうんざりしていたに違いない。 それやこれやでやむを得ず自室や、同じホテル内の事務所で自炊が始まる。 鍋や電熱器は割に簡単に手に入ったが、冷蔵庫は順番待ちで3ヶ月位かかったと思う。 道具の次は材料だが、先ずは日本食(和食に限らない)を作る前提だから、日本から送って貰えるものは会社や留守宅に無理を言って何とかしてもらう。 これでうどん、そば、インスタントラーメン、椎茸、味噌醤油だしの素やカレーなどの調味料、時には佃煮などが手に入る。 時々入莫してくる訪問客の持ち込む食料品も貴重である。 残りは現地調達ということになるが、当時ドルショップというルーブル以外の外貨でのみ販売する店が出来て、この外貨のガストロノーム(食料品店)では、一般の店よりも良いものを安く、割合に豊富に手に入れることができた。 ここで酒や肉、魚、野菜、果物を買ってくる。 この店は運良くオケラのホテルから歩いて10分位のところにあったから、会社の自動車に乗せて貰えないときでも、歩いて買いに行くことができた。 価格は極めて安く、飲むしか芸のないオケラが買う酒は、日本で1万円したジョニ黒が千円程度で、4オンス(113g)のキャビアだって千五百円位と、金持ちの駐在員から見れば只みたいで、この点では何とも素晴らしい世界であったが、残念なことに、これらはその後大幅値上げされたと聞く。 魚はキャビアの親であるチョウザメや1mを越える活きたナマズに混じって、薄塩の鮭があった。 通常は薄切りだが誰が教えたのかケタ パ ヤポンスキーと学名みたいなことを言うと厚切にしてくれる。 カニ・鮭・イクラの缶詰は極東産。 野菜や果物は、域内分業と称して主としてブルガリア産で、工業国になりたいブルガリアの不満の固まりとの事であったが、キュウリやアペレシンという柑橘類は、大変優れたものであった。 ここで手に入らないのは蔬菜類。 ジャガイモからビタミンCを摂取するらしい彼等には余り必要ではないのか青菜がない。 菜っ葉で育って、その後6年間見るのも嫌になるほどジャガイモに飽きたオケラにはこれが辛かった。 ある日バザーで法蓮草を見つけ、大量に買い占めて自室で一人期待に震えながら茹でたところ、茶色になって何とも変な味がし食べられなかった。 後で聞いたらピクルスに入れる香草なんですと。 そういえば葉っぱが一枚ずつになっていたっけ。 別の機会に本物の法蓮草を僅かだが手に入れて、お浸しにして食べたときには本当に血がきれいになる思いがした。 赤丸の二十日大根は季節を問わずどこにでもあるが、いわゆる大根には出会わなかった。 ふんだんにある時は気がつかないが、いざ大根がなくなると、和食ができないことが判った。 当時のオケラにとっては、日本の大根足より一本の白い大根のほうが貴重で恋しかった。 今? そうねぇ、年も年だし、本人のためにもメケラのためにも、やはり一本だけのほうが‥‥、ネ。

−−−−−−−−−−1992.07記


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