オケラのくりごと  モスクワ−1

  もうかれこれ二昔半になるが、オケラは約二年程モスクワにいたことがある。 モスクワは北緯55度45分に位置し、東京から10度北の宗谷岬の更に10度北にある。 8月、ロンドンから入ったモスクワは夏だったが、何日もしないうちに木枯らしが吹き始め、たちまち秋を通り越して冬になってしまった。 北国の冬と夜は長い。 何度か雪が降ったり解けたりした後は根雪になる。 気温は常に零下で、雪は解けないし固まらない。 子供達はそりや平地でのスキー・スケートなどで遊んでいるが、雪合戦をしているのは見たことがない。 雪が降った後、3〜4台のブルドーザーが大通りに出動してくる。 先ず1台が中央車線に沿って刃を斜めにし、雪を路側の方に刃の幅だけ寄せる。 次に走るブルがこの雪と自分の前の雪を、同じようにして路側側に寄せる。 こうして道幅に合わせて数台が通りすぎると、雪は皆路側帯に集められてしまう。 ブルの速度は非常に早いのでこの間交通渋滞は起きない。 次に蟹の手のような雪集めの装置付きベルトコンベアを持った車が、路側帯を前進しながら雪を掻き集め、後続のダンプカーの頭越しに荷台に落とし、雪は何処へか運び去られる。 この雪の行方については、凍っているモスクワ川に捨てるのだとか、郊外の丘陵地帯に運ぶのだとか、種々な説があったが、謎のままである。 雪の止んだ夜、水銀灯に照らされたモスクワ川の橋の上に風に流された雪が動く縞模様を描く。 夜の気温は−20℃〜−30℃程度。 ホテルの28階の室内は川向こうのお湯の工場から来るというお湯で暖房されていて+30℃近く、差が約50℃ある上、零下何度でも景色は変わらない。 そこで温度計を二本用意し、二重窓の内と外において温度の確認をしてから外出の支度をする。 オケラが寒さの程度を感じられたのは−15℃位迄で、それ以下になったら20℃でも30℃でも同じく、ただ痛いだけ。 −40℃の魚の冷凍庫の方が余程暖かかった。 こんな中を劇場にバレーやオペラを見に行く。 日本で見ると2万円とか3万円とかする席が、当時の1ルーブル= 400円のレートで換算しても、千〜2千円だったと思うから、金の心配は要らない。 冬には、夏場国際的に巡業している各団体が皆帰国しているので、出し物も豊富だし顔ぶれも豪華である。 そして嬉しいことにロシア人は何時でも見られるのだからと、切符は外人優先で手配してくれる。 お蔭でオケラも判らないなりに相当見ることができた。 マスクビッチのもう一つの楽しみは、アイスホッケーを見に行くこと。 現場にいると興奮するのが世の常で、喚声と野次で館内が割れんばかりとなる。 地区や業種により出来るスポーツクラブのチームが、何部かに分かれてリーグ戦を行っているようで、スパルタークモスクワ、ジナモモスクワ、ジナモキエフなどに人気があったように思う。 彼らの中からナショナルチームが結成されて世界的に活躍するのだから、レベルは相当高い。 オケラなどは勝ち負けと格闘技に気を取られて、一瞬にして得点する高度な連携プレーや技術の冴えには盲同然だったが、それでもロシア人と一緒になって結構楽しんできた。 タクシーに乗ってバセイと言うと巨大な屋外円形温水プールに連れていってくれる。 その上は湯気で覆われていて、直径 100mは越すと思われるプールの全貌は見えない。 暖房の効いた屋内で着替えた後、水に潜って屋外に出ると、そこはもう−10℃以下の世界。 運動不足の体をのびのびさせるには持ってこいだったが、視界の利かない湯気の中で一人で泳いでいるとちょっと怖かった。 上がると台秤の前に並んで久しぶりに体重を量る。 オケラの番になると皆より軽いので何時も錘を一つ取られ、何となく恥ずかしかった。 空港に行く途中に白樺の林がある。 あれは何月のことだったろうか、それまで枯れ枝だったこの林は、残雪の中で毛羽立った白っぽい薄黄緑の何とも言えない良い色をしていた。 それから3〜4日後、再び通ったときにはもう紛れもない鮮やかな緑色に変わっていた。 そしてメーデー。 この日を境に劇的に冬が去り、フットボールの試合と共に夏が駆け足でやってくる。 ヴォルガに続くモスクワ運河の河港ヒムキは活況を呈し、水中翼船ラケータ号が行き交い日光浴客を運ぶ。 郊外の銀の森を初め、人々は水辺に行って裸になるが、水に入る人は少ない。 この頃になると各公団の担当者が交代で長期休暇に入るので、東京の働き蜂達は相変わらずイライラしているが、当地では殆ど開店休業になる。 劇場には国外からの芸人が来て公演をする。 この切符はソ連人のために呼んだのだからと地元優先。 キオの魔術やサーカス等は日本に行っていたりする。 ホテルの窓の正面には本を開いて立てたような形のコメコンのビルが新築され、革命五十周年を表す5と0が窓の灯で両ページに描かれていた。 オケラに比較は出来なかったが、この年の革命記念日の軍事パレードは例年にもまして大規模だった、と後日届いた日本の新聞に書いてあった。 国の内実が如何だったのか判らないが、数々の欠点を持ちながらも、ブレジネフ体制の下で内外共にそれなりに安定していて、多分今の保守派にとっては古きよき時代だったのだろう。 こう考えると海外で人気のあるゴルバチョフが、国内で冴えなかったのも頷ける気がする。 結局半年であれよあれよという間に国を失い、只の人になってしまった。 でもねゴルビーよ、余りがっかりしなさんな。 オケラだって6年前の半年で、アレヨアレヨという間にうどん屋になっちゃったんだから‥‥。 エ? 関係ない? ア、そぅ‥‥。

−−−−−−−−−−1992.06記


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