オケラのくりごと  今年前半多忙

  この半年、妙に忙しい。 うどん屋の方は御多分に漏れず、悪かった前年対比更なる大幅ダウンが続いているから、特に忙しい訳ではない。 と言って金策に走り廻るほど悪い訳でもないから、その為でもない。 夫婦二人が何とか、下の上程度のその日暮しをする位の稼ぎはあるから、見方に依っては平穏無事とも言える。 では、世間の所為かと言うと、別にオウム真理教の縁者でもなく、阪神に親戚がいる訳でもないから、そうとも言えない。 メケラが家出したとか、オケラが交通事故を起こしたとか、そんな個人的な事でもない。 メケラは順調に花粉症になった後は、いやだ嫌だと言いながらも割に落ち着いてうどん屋をやっているし、オケラもプールと風呂で大人しく水遊びをしている。一つ一つは何でもないのだが、その相乗効果なのか忙しない日々が続いている。鉄道で言う競合脱線である。 正月早々、別件で少しごたごたした後、十七日朝ラジオの、ホテルの一階が潰れている話で兵庫県南部地震の発生を知った。イオングループが各店で募金活動をするように、とポスターを届けてきたが、その時は然程乗り気ではなかった。 募金箱をレジの前に置いたとて、うどん屋で如何程の金が集まろうか。 夜明け前、突然閃いた。 そうだ、ここでボランティアをやろう。 休みを自由に取れないオケラ達には、神戸に行って何かする事など思いも寄らない。 往復の旅費は掛かるし、特技もない。 然しオケラには店があるし、お客様もいてくれる。 定休日を返上して店を開け、売上げの半額を寄付する事にすれば、オケラだってお役に立てる。 情は他人の為ならず。 ここでやっておけば南関東大震災で圧死を免れた時、関西からの炊き出しのおにぎりを大口開けて食べられるという打算もある。 こんな事は関係者が多ければ多い程良い。 総本部にも手伝って貰えないか、と相談した処、二つ返事で生地を提供してくれる事になった。 募金目標額を20万円に設定し、定休日の予想売上高の半分で割ったら8になった。 と言うことは直ぐに始めても、月に一回の割だとすれば八月まで掛かる事になる。 その頃まで人々が覚えていて協力して呉れるかという懸念はあったが、こんな事はやってみなければ判らないと割り切って、兎に角二月一日に第1回目を始めた。 結局その後、定休日を2回休んでは1回返上する、と言うペースで七月十二日迄、都合7回行う事になった。 交通機関は凡そ復旧したようだが、今でも相当の人々が避難所や仮設住宅で暮らしているようだから、まだ終わった訳ではない筈なのだが、話題はオウムの陰に完全に消えてしまった。 休日返上の効果は思った程上がらなかったが、募金箱への寄付が、兄弟や隣の店からの大口や別サービスへの謝礼の意味での寄付を含むとは言え、これ迄に6万円を大分超えたのには驚かされた。 五月の連休は営業上の理由で定休日を返上した。 その連休明け、中学三年生の時の恩師K先生が初期の前立腺癌のため手術をしたが、経過が思わしくない、との連絡が入った。 骨折やら失言やら、ある意味で問題児だったオケラは、就職一年目の先生に何かと面倒を掛けた。 馬鹿な子ほど可愛かったのか、先生のほうからも印象深いガキだったようである。 丁度次の日が久し振りの定休日で、アルトに乗ってお見舞に駆けつけた。 次の週は、正月以来休みらしい休みを取っていなかったので、前々からゆっくり連休しようと考えていた。 そこにオケラの地区のFC会が割り込んできた。 連休中のFC会もしんどいなと思っていた処に先生の病気である。 而もその後悪いほうに向かっているという。 迷った末FC会を欠席する事とし、先生の見舞いを兼ねて、その先の日光に行く事にした。 幸い古い国民宿舎も、新しい国民休暇村も無事に取れて、先生の面会可能時刻三時に合わせ、好天気の中、昼から出掛けていった。 残念ながら今回は先生は既に意識がなく、奥様の説明で明日をも知れぬ状況と知った。 国民宿舎の宿泊はオケラ夫婦だけ。 一頃の国民宿舎全盛時代には想像できないことだった。 ここはモリアオガエルの生息地で、今年はまだだが、今頃になると池の上の楓の枝に産卵するとの事。その夜は野鳥や蛙の子守歌でよく寝られなかった。 次の朝、出発前に池を覗きに行ったら、何と今年初めての卵をメケラが見つけた。 この日は偶然日光東照宮の千人武者行列があり、久々に水の多い華厳の滝を見て、夕刻国民休暇村に着いた。 ここは流石に賑やかだったが、それでも駐車場にはかなり空きがあった。 湯葉鍋に苦労して、硫化水素が籠るので窓は開けたまま、而も一人では入らない事と言う注意書きのある風呂に満足し、湖畔の森の中で静かな夜を過ごした。 早朝ベルが鳴った。 案の定先生の逝去を伝える友人からの電話。 別の友人が弔辞を読むという。 食事もそこそこに出発、先生のお宅で焼香の後、奥様から亡くなった模様や過去の業績などを改めて伺い、急ぎ帰宅。 弔辞の叩き台を5時間掛りで作って、コピー屋の友人宅にFAXで送り付けた。 それから日曜日の葬儀まで電話とFAXでやり取りし、彼等が何とか間に合わせた。 次の休みはお互いの過労で見送ってその次の定休日、卒業以来四十数年、毎年正月二日のお宅訪問の他、折に触れて先生と顔を合わせて来た地元の同級生達と打合わせて焼香に伺った。 オウム。 信金。 知事選。都市博。 野茂。 ハイジャック。 天候。 突然現れる本部のお偉方の応対。銭湯。 床屋。 腰の治療。 鈴虫とうどん屋の面倒見。 年始めの三連法事。日赤からの金色有功章。 くりごと・うわごと。 等々。 とても円や株、景気、日米車・航空問題、ましてチェチェンやクロアチアまで言及する余裕はないが、兎に角せかせかしている内に、公私共、今年の重大ニュースの半分位は起きてしまったような気がする。 当たり前? ア、そりゃそうだ。
−−−−−−−−−−1995.07記

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