オケラのくりごと  言習わし

‘情は他人の為ならず’という言習わしは、近頃の若者達の間では、情をかけると甘えるのでその人の為にならない、と言う意味だそうである。 言習わしは一般に短縮されたり、省略されたりするが、これも元は情は他人の為にあらずだったのを、情は他人の為にならずだと思った処に間違いの源があると思われる。 忠ならんと欲すれば孝ならず、の場合は孝にならずの意味だから、為にならずだったと思われても言葉の上では仕方がないかも知れない。 こんな言習わしを解釈するには、背景の思想や世相を抜きにすることは出来ない。だから為にならないと解釈されるには、それなりの現代の世情が反映しているに違いない。 ‘犬も歩けば棒に当たる’の解釈は土地によって違うそうだが、オケラの周りでは、うろうろしていて思いがけず良いことに巡り会う、の意味である。 しかしオケラには棒が良いことを象徴しているとは思われないから、歩き回ると棒で打たれるのでじっとしている方が良い、と解釈する方が素直だと思われる。 ‘雉も鳴かずば撃たれまい’や‘出る釘は打たれる’と同様である。 ‘禍福はあざなえる縄の如し’は良いことの後には悪いことが、悪いことの後には良いことがある、或いは良いことも悪いこともそればかりは続かない、の意味である。 禍の紐と福の紐を縒って作った縄を固定して或る視点から見ると、禍と福は交互に並んでいるように見える。 しかしこの縄を縦に張ってその何れかの紐に乗っていることを想像すると、逆に、一度何かの弾みで禍の紐に乗ってしまうと、それを伝って福を横目で見ながらぐるぐると何処までも堕ちて行くが、一旦福の紐に乗ると際限なく上に昇って行く、の意味になる。 消耗はショウモウではなくショウコウと読むのが正しいのだが、今日はショウコウした、といっても、誰の葬式?と聞かれるのがオチだし、義捐金と書いても何のことやら判らなくては寄付も集まらない。 浄財を箱に入れて戴こうと思えば、正しさを主張するよりも義援金と書く事が必要である。 こんなことは他にもあるが、言葉は皆で使うものだからその解釈や正しさは多数決である。 いつの間にか古手の少数グループに入ってしまったオケラは、今若いもンの言葉遣いや感字、誤字に苦々しさを感ずることが多いが、オケラが孤高を持しても、思想が伝わらなくては言葉の意味がないから、結局は不承不承ながら大方に合わせざるを得なくなる。 逆に言えば大方の支持を得れば新語を作ることも可能な訳で、その実例から‘オケラの一山’とか、‘オケラる’なんてのが無一文から一夜で大金持になる意味の慣用句にならないとも限らない。 エ? 不可能・期待外れの意味になる? アァ、無精‥‥。
−−−−−−−−−−1995.07記

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