オケラのくりごと  北海道−2

 北海道は四角である。 その地理的な中心は、後にへそ祭りで有名になった富良野と言うことになろうが、政治、経済、文化の中心はやはり札幌であろう。オケラの手元に6年前の時刻表がある。 オケラが東北に遊びに行った時に使ったもので、その後は時刻表を購入していないから、オケラにとっては最新版である。 記憶を新たにするための唯一の頼りであるこの最新版では、既に青函トンネルが出来て‘北斗星’が走っており、狩勝峠を越える代わりに石勝線が開通して、千歳と帯広はほぼ直線で結ばれている。 航空機利用も一般的になって、交通の中心は今や千歳に移ってしまった感があるが、当時は交通の中心もやはり札幌だった。 札幌の位置は左に片寄っているようだが、左下に曲がっている渡島半島の線路を左に真っ直ぐ伸ばしてみると、札幌がほぼ中央に来る。だから、と言う訳でもあるまいが、殆ど全ての列車が札幌を起点若しくは終点とし、僅かの残りは、現在でもそうしているようだが、何としてでも札幌に立ち寄った。 もう一つの交通の要衝は滝川。 札幌を出て東か北へ向かおうとすれば、この分岐点を如何しても通らねばならない。 釧路から稚内にまわる場合には、釧路から札幌行の列車で滝川に行き、札幌発の稚内行を待つことになるのだが、当時のダイヤはそんな乗客を想定していなかったようで、大抵は何時間か待つことになった。 滝川駅前には待ち合わせの時間潰しの設備がなく、結局は一杯飲み屋で酔い過ぎないように気をつけながら頑張っているしかなかった。 シバレル冬の夜、頭の片隅で飯の心配をしながら、ゴテゴテ着込んでボストンバッグを傍らに、つまみは何だったか、チビチビ飲んでいるのは何ともわびしい限りだった。 それに比べると、釧路は冬の夜でも温かかった。釧路には何度となく通っていて、訪問先の人々が居り、ある程度の土地鑑も出来て、僅か乍らも馴染みの店があり、多少は一人歩きが出来た。 釧路と言えば炉端焼。 その後東京のあちこちにも出来たが、店の中心は1m×2m位の大きな炭火の炉で、カウンター風のテーブルがコの字型に囲んでいる。 炉の回りには料理人が動けるだけの隙間があり、更にカウンターとの間には材料を並べる台がある。 材料は様々で、イカ、鰊、ホッケ、キンキ、椎茸、ジャガイモ、等々。 客はテーブルにつくと目の前の材料を選んで、炉の網の上の焼け具合を見ながら、つばと一緒に酒を飲んで待つ。 北海道の酒はみんなムラサメだ、と言うから酒の有名な銘柄かと思ったら、村を出るまでに醒めてしまうから、なんて悪口を聞かされるのもこんな時である。 オケラが最初に行った頃には炉端の数も少なく、今から思えばこじんまりとしていて、材料もそこの女将が朝仕入れて自分で一夜、と言うか半日干しにし、適当に水分をとばして技と味を競い、そんな苦労の自慢話が、魚と一緒に肴になった。 所が、東京に炉端が目立ち、八代亜紀の舟唄が流行るようになる頃には、釧路の街は、福島県は喜多方のラーメン屋ほどじゃないにしても、炉端だらけになり、料理方の若い衆の威勢は良くなったけれども、例えばカレイを焼いてもらうと解凍し立てを焼いたような、かまの部分がグチャグチャしているのを出す店が現れるようになって、食べる楽しみが消え、足が遠のくようになった。 或る時、大通りのデパートの前の路上で、戸板の上に茹でた毛ガニを並べて売っているのを見かけたことがある。 大きくて安くて美味そうだったが、旅先のこととて食べる場所がなく、泣く泣く諦めた。 思い出す度に残念だが、今でもやっているのだろうか。 釧路駅前からの定期観光バスに鶴公園、阿寒湖、摩周湖を回るコースがある。 これを利用して凡その土地鑑を養っておき、改めて定期バスで自分の好きな所に行く。 阿寒湖の毬藻は天然の湖畔のさざなみの動きに連れて、自然に転がっているのかと思っていたら、遊覧船で遠出をして、反対側の岸近くの湖底の枠の中に、薄く泥を被って集団で鎮座ましましていた。 これを見た瞬間、遊覧船で鳴り続けていたロマンチックな毬藻の歌が空しく聞こえた。尤もその当時、毬藻保護設備を建設中と言っていたから、今はそんな事は無いのかも知れない。 初めて摩周湖を見たとき、湖面は晴れていて向うの雌阿寒岳も雄阿寒岳も、どちらがどちらだか覚えはないが、良く見渡せた。 それがアッという間、精々5分位の間に霧に覆われ何もかも霧中になってしまったのには、如何にも宣伝通り、余りの出来過ぎに自然相手ながら苦笑せざるを得なかった。 糠平温泉は物凄く辺鄙で何もなかったのに、ご多分に漏れず今や物凄く立派なホテルが建っているらしい。 流氷は観光の対象になっておらず、見た記憶もないのだが、宗谷の岬に行った時にはその向うにあった筈である。天候が荒れていて遠くは何も見えず、近くの茶屋でイカ焼きを食らうのが精一杯だったが、仮に見えていたとしても、冬のレニングラードでヘルシンキまで続いているという氷面を見せられた後のオケラには、興味の対象にならなかった事だろう。 稚内の手前の、水芭蕉咲く豊富温泉は、確か石油を含んだ塩泉で、澄まし汁にするには一寸塩が勝っているかなという程度。 宿の女中総揚げで騒いだが、観光客はオケラだけ、女中は三人しか居なかった。 今はどうなっていることか。 何時の話やら判らぬことを書き連ねてきたが、或る時急ぎで札幌の丘珠空港から稚内に飛ぼうとしたら、稚内が吹雪で欠航だという。交渉しても埒が開かず、結局寝台急行‘利尻’で行くことになり、札幌駅に戻る途中のタクシーの中で、三島由紀夫の自衛隊乱入のニュースを聞いた。 これが数多いオケラの北海道訪問の中で、今となっては唯一日にちを特定出来る瞬間である。 とは言うものの、アレ、何時のことだったかねぇ。 たった一つのアリバイなのだが、ぼけちゃったねぇ、史実もオケラも、この間に。
−−−−−−−−−−1996.05記

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