オケラのくりごと  北海道−1

 九州の訪問先が殆ど、長崎と今は北九州市になってしまった五市に限られていたのに対し、北海道は函館、室蘭、釧路、稚内など、あちこちの港町だった関係で、浅いけれど割に広く色々な所を見物することができた。 二十年位前迄は飛行機は一般的ではなく、オケラの出張は大抵列車だった。 目的地によって異なったが、上野から昼発ならば‘はつかり’で夜、寝台の‘はくつる’や‘ゆうづる’ならば明け方に青森に着く。 トンネルは未だ無いから、青森駅の構内を荷物を抱えて我れ勝ちに走り、青函連絡船の乗り場に向かう。 当時の連絡船は小さくて、マゴマゴしていると乗ってきた列車に接続している船に、定員オーバーで乗せて貰えない。 道内の特急を予約していたりすると、次の船になれば致命傷になるから、皆必死である。 今なら、次の特急券を見せて何とかしろと交渉する知恵も湧くが、当時は智力よりも体力の方が勝っていたから、到着直前に列車の一番前に行って待機し、只管走った。 乗船名簿を書いて渡し、約四時間後、函館に着く。 また一騒ぎの後道内の列車に席を占め、一息つく暇もなくホームで温かい味噌汁と弁当を買う。 最初の駅弁が宇都宮であることは有名だが、オケラの知る限り、味噌汁の駅売りは函館が最初である。 金の余裕があれば、ここで缶ビールと帆立の乾燥貝柱を買う。 帆立の貝柱は今でこそ、その辺のスーパーでも売っているが、当時は上手く行けば連絡船の中で、大抵は函館からの列車の中で漸く手に入れる事が出来たものである。 値段も高く、当時からオケラだったオケラにとっては、覚悟の要ることだった。 さてこれから北海道の長い列車の旅が始まる。 大抵は先ず札幌に行って乗り換える。 函館発旭川や釧路行の特急‘おおとり’や‘おおぞら’が出来ても、‘はくつる’や‘ゆうづる’の一部が電車になってからも、道内ではディーゼルカーのままだったから、本州とは趣を異にし、北海道に来たんだなァと言う感を深くした。 進行方向右の窓際に座れて、貝柱を齧りつつ缶ビールを飲めれば、安心感と満足感でこれはもう天国。 行き先と便により経路と通過時刻が変わったが、上手く行けば間もなく大沼公園で今話題の駒ヶ岳が見えてくる。 未だ明け切らぬ大沼公園の静けさと、朝日に輝く駒ヶ岳の対比は如何にも鮮やかである。 函館本線は小樽を回るのに、主な列車は長万部で室蘭本線に入り、内浦湾沿いに登別の方に向かう。 お陰で小樽に寄る機会には恵まれなかった。 車内のざわめきと放送で左を見ると昭和新山。 赤い山肌と形が異様である。 その前に有珠山も見えた筈なのだが、当時は名も知らない山だった。 右手の内浦湾は帆立貝の産地だった筈なのに丸でそれらしき記憶がない。 北海道の他の海より明るいとはいえ夏でも寒々とした印象で、北海道にカナヅチが多いというのも頷ける気がした。 夏休みは蟹族の季節である。 最近では聞かないからひょっとしたら皆車になって居なくなってしまったのかも知れないが、学生達が倍も横幅のあるリュックサックを背負って群れを成して乗り込んでくる。 彼等は荷物がつかえるので通路を真っ直ぐ歩けず横になって歩く。 これが名前の由来だろうが、この荷物が網棚と言わず、通路と言わず、デッキも便所の前も、唯でさえ混み合っている夏の車内の至る所を塞ぐ。 元々時間があり、前以て計画を立てることができる上、何時からか金持ちになった連中は、指定席は勿論、グリーン車まで学割で占領する。 突然の出張が殆どだったオケラには到底太刀打ち出来ず、出会う度に自由席の通路で斜めになりながら腹を立てた。 或る夏、急な出張で鉄道では間に合わず、片道飛行機、片道鉄道という立体周遊券を利用し、釧路に行った。 帰路何とか札幌まで辿り着いたが、そこから函館行きの列車が全部満員で、指定席は愚か自由席のデッキにも如何しても乗れない。 何本か見送った後遂に諦めて飛行機で帰ることにしたが、問題は手元に残った使用中の周遊券。 残りの距離があるのでキャンセルは出来るのだが、結局非常に高いものについてしまう。次回使おうとすると有効期限の壁がある。 駅の窓口では、旅行が継続出来ないという医師の診断書があれば、有効期限を二ヵ月延長できるが、それ以外は駄目だという。 ところが生憎、オケラは疲れてはいるけれども病気ではない。それから駅長室での交渉が始まった。 立席すら提供出来ない、即ち実際には使えない乗車券を売るのは詐欺ではないか? サービスの限界を超えて混雑しているならば、利用できる環境になるまで有効期限を延長するか、利用者に迷惑が掛からないように返金すべきである。 相手数人にオケラは一人。 規則上何れも出来ないと言う。 そうこうしている内に次のL特急がやって来た。そうしたら、何と、その指定席に座れたんだよ。 彼等には彼等の解決策と責任の取り様があるもんだネ。 これで思い出したのだけれど、何時だったか東武線で踏切事故に逢った時、電車の浅草着が大幅に遅れることになり、当時オケラがいた保土ヶ谷まで、その日の内に帰れるかどうか怪しくなった事がある。足止めを食っている駅の駅員にその旨を言ったら、浅草で駅員に言って下さい、手配しておきます、と言う。 何の手配やら判らず、半信半疑で浅草で駅員に言ったら、ハイ聞いております、こちらへどうぞ、とタクシーに乗せ、保土ヶ谷まで送ってくれた。 勿論料金は東武持ち。 この時は東武を見直したね。尤もこの費用、結局は踏切事故を起こした者が払ったのかも知れないけれど。この他にも、ロサンジェルスのホテル代を日本航空に持って貰ったり、イラン航空のお世話になったりと、交通機関との話は沢山ある。 JALとのは‥‥、アレ、何の話だっけ。 北海道? ア、そうか、でも今回はもう終。 落ちがない? だって、飛行機の話になった所で落としたら事故になるでしょ。
−−−−−−−−−−1996.04記

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