オケラのくりごと  ひげ

 十数年前、オケラが三十台終りの頃の夏、メケラと槍ヶ岳に行った。 先ず中房温泉で2泊し、燕から西岳を経て槍に行き、上高地へ下ったのだと思う。家を出てから帰り着くまで本当に8日掛かったのか、或いは余裕を見たのか、兎に角勤めを8日間休んだ覚えがある。 その間髭を剃らなかったら、髭が思い掛けぬ長さに伸びていた。 休み明けに出社する時、ふとその気になって鼻下の髭だけを残した。 当時オケラは総務部長だったから、社員から文句の出るおそれはなかったが、それでもやはり目障りだったと見え、同僚から一万円の値がついた。 然しその時は既に社外にもデビューした後であり、そう簡単に方針変更して剃り落とす訳にも行かなかったので、未練はあったがその申し出を断った。 髭を生やしたとは言え、当初はどうしても疎らになる。 遠目には何とか髭らしく見えても、近くで見ると長いのや短いの、中には毛根だけと、成長の速度の違いは相当なものである。 遅いのを待ちつつ、伸びたのを切って揃える。 鋏はヘンケルの爪切りセットに入っていた、甘皮を切る為の曲がった小さなのが丁度良い事が判ったが、揃える道具がない。 考えた挙句、メケラの知恵で近くの百貨店の化粧品売場に行き、眉毛用の柄の先に小さな櫛とブラシが付いた道具を買ってきた。 これは想像以上に具合が良く、今でも使っている。 オケラの美的感覚によれば、切り揃えた面は、髭が短い場合には顔の輪郭に沿って、長い場合には水平でなければならない。 口髭を揃えるのにはこつがあって、上から指で押さえて切ってはいけない。 指を離すと、起き上がった髭の切断面は斜め上に反り返ることになる。 カイゼル髭や伸ばし放題のあご髭は別として、初心者としてはこの切断面と、まだ伸びてこない髭の成長が気になる。 そして暇に飽かせて、時には数時間も、眉毛揃えと鋏を両手に鏡と向かい合う事になる。 特に毛足が短いと一本一本の伸び方、角度が気になって、到底鋏を置く気になれない。 余りの煩わしさに、次の年の初夏、タダで剃り落とした。 それから数年、うどん屋になって更に数年後の1月15日に、また髭を伸ばそうと思い立ち、16日に剃らなかったら、17日に湾岸戦争が起きた。 オケラの髭を見てアラブみたいと言うのはまだしも、フセインファンみたいに思われたのには腐ったが、まぁそれを乗り越えて、これまで数年伸ばしてきた。 今回は毛足を長くしたしそんな暇もないから、鏡を見て切り揃えるのは十日に一遍、5分間位。 何となく顔の一部になり、今や話題にもならなくなった。 剃らない理由? だって剃っちゃったら、お札の肖像になれないでしょ。 しみ小皺の他は、髪もほくろもないんだから。
−−−−−−−−−−1996.11記


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