オケラのくりごと  はじめに

 オケラが呆けてきてから久しい。 ひょっとしたら生まれた時から呆けていたのかも知れないが、若い時には少なくともその自覚は無かった。 人の名前が思い出せなかったことも、宿題を忘れた(ふりをした)ことも、そりゃァ数多くあるけれど、それは単に忘れただけであり、呆けたとは思わなかった。 忘れていたことに気付いた瞬間、逆に総べてを思い出すことが出来た。 仮に三日前の晩飯の中身を問われたとしても一寸考えれば、お菜が何であったかは言うに及ばず、ご飯何杯、味噌汁何杯、人の席順や話の内容、それが外食であるならその支払いは誰が如何したか、など総べてを思い出した。 自分が忘れていたことも、他人に言われればアァそうだったと思い出した。 そして思い出したことに確信があった。 それが今、昨日の夜、何を食べたか、ビールを何本飲んだか、テレビは何をやっていたか、どんな話をしたか、など、自慢じゃないけど殆ど思い出せない。 やっと思い出しても、他人から違うと言われると、エ、そうだったっけ?、と確信が持てない。 更には直前にやっていたこと、言っていたことも忘れる。 アルバイトの採用面接で決めたばかりの時給を忘れ、相手にも聞けず悩んだりしている。 老人性痴呆症というのはご飯を食べたことそのものを忘れてしまうのだそうだから、まだそれほどではないにしても、かなり進行しているし、その速度も上昇している。 五十才を過ぎてからは、自分の年すらさだかではなくなった。年齢 才とある欄を埋める度にエートと考えなくてはならない。 自分がこうなる前には、老人でも年を忘れるなんて信じられず、しっかりしなさいよ、と肩の一つもどやしつけてやりたかったけれど、自分がこうなってみると、それが決して演技などではなく、本人は充分しっかりしている心算であることがよく判る。 最新の洗濯機や冷蔵庫にはあいまいさやいい加減さを売りものにしているのが多いが、オケラはその意味で、苦労せずにファジーな頭脳になった。
 オケラが呆けたのは別に記憶力の面だけではない。 これに端を発して、思考力、判断力が無くなっている。 何しろ、思考や判断の材料が欠落して行くのだから、本人が考えても無理はない。 漢字が感字になるのは若者並だが、英語が嬰語では洒落にもならない。 よく言う5つのWと1つのH(何時、何処で、誰が、何を、何故、如何して)の総べてがあやふやなのだから、とてものことに正確は期し難く、しかも独断と偏見は十二分に持ち合わせているから、とても公平無私とは行き難く、その上、ワープロの変換ミスを見逃す注意力不足ときている。 こんなオケラが文章を書こうというのだからそもそも無茶な話だけれど、呆けに乗じてズルを決め込むことにし、当然起きるであろうお叱りや抗議に対して幾重にも予防線を張るべく、ここに勝手に無責任宣言をする次第。 当たり障りはそちらでよけて、ブッシュ・フランス大統領や川口松太郎原作・坂東妻三郎主演の鞍馬天狗が出て来ても深く考えず、オケラ同様知らん顔をして戴きたい。
 “ゆうべみみずの泣く声聞いた、あれはケラだよオケラだよ、オケラ何故泣くあんよが寒い、足袋が無いから泣くんだよ、オケラにあげよか福助足袋を、こはぜが光るよちょいとごらん”(サトウハチロー作詞・三木鶏郎作曲、どなたになにを 一番)。 これは民放が出来て間も無くの昭和27年頃にCMソング・ヒット第一号になった(福助株式会社 宣伝部)通称“オケラのうた”である。 このうたが流行っていたころ、オケラはまだ充分新品で、宇都宮の外れに住んでいた。 夏の夜、電灯をつけて窓を開けておくと色々な虫が飛び込んできた。 大体は蛾の類であったが、中には蝉や甲虫等もおり、オケラ達も蛾よりは喜んだが、昼間せっせと蝉捕りに精を出す割には興味を示さず、入ってきた窓から追い出していた。 そんな中にオケラも混じっていて、良く言えば愛敬のある、客観的にはかなり不格好な姿態で、畳の上を這っていた。 握ると何とか抜け出そうと前翅で進むのが掌に痛かった。 広辞苑によればオケラは涼しい声で鳴くことになっているが、オケラの記憶ではジーーーーーと鳴いていた。 ひょっとして、あれは別の虫の声だったのかもネ。 しかしオケラがリーンリーンとかチンチロリンとか鳴くとは聞いたことがない。 オケラはなんと鳴くのだろう。 そんなオケラが如何して無一文の意味になったのか。 つらつら考えるに虫からの連想ではなく、身ぐるみはがれたり、無一文になった人間が、身も心も寒くなって俯き加減に、腕をかまきりみたいに胸の前に合わせて帰り、自嘲と照れで、もう手も足も出ませんとばかりに肩の横で掌を(幸いまだ着ていれば着物の袖口から一寸出して)振って見せる動作が、甚だ迷惑なことにオケラに似てい、この動作に改めて“オケラになっちゃったァ”という台詞がついて完成したのではなかろうか。 もし虫の方が先だとしたら、ミミズの方が遥かに裸一貫無一文という感じだし、この対語として左団扇で一杯飲みながら“ヒヒヒヒ、俺もとうとう黄金虫になれたァ”という表現が残っていても良いと思うのだが、‥‥。

−−−−−−−−−−1991.09記


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