オケラのくりごと  不用品

 朝、母が木のまな板の上で菜きり包丁でねぎを切り、味噌汁を作る。 飯は大谷石の竈に釜を掛け薪で炊く。 “なっとなっとーぉなっと”と通る少年から、薄板で三角に包まれた温かい国産大豆の納豆を買う。 50匁位入って五円。少年はかじかんだ手で薄板の端を少し開き、壺に入れたからしをたっぷり付けてくれる。 これはオケラの記憶だが、考えてみると種々なものが無くなった。歴史的に言えば縄文式土器や、青銅の銅鐸等も無くなってしまった物なのだろうが、そんな古いことではなく、オケラの記憶にある高々五十年程度を見ても、数々の物や事が姿を消した。 人間が同時に関わることができる事や物に物理的な限界がある以上、進歩と称する変化によって関わる物が置き代わって行くのは仕方が無い。 洗濯機が出来たことによって、結局たらいと洗濯板、固形の洗濯石鹸が無くなり、傷まない合成繊維と良く落ちる合成洗剤ができたのは一例だか、五つ玉の算盤が四つ玉になり、開平ができるタイガー計算機のケースがプラスチックになったのも束の間、電卓が現れてみんな駆逐されてしまったし、ラジオも三球がマジックアイの付いた五球スーパーになり、あっという間にトランジスターになって、FMになり、録音機とドッキングしたと思ったらCDラジカセで、今度はAMステレオとのこと。 レコードだって78回転がドーナツ盤になったと思ったら、たちまちLP。 一枚づつ買い集めて大事にしていたら、針屋がつぶれて、突然全部纏めて不用品になり、CDを買い直す破目。 この傾向は段々ひどくなるようで、最新型の心算で買ったパソコンは、数日で時代遅れになり、ソフトの供給も断たれて、偉く元手の掛かった邪魔な箱になりつつあるし、テレビだってハイビジョンになることはもう時間の問題で、デジタル化に反発した業界も、まだ普及していないアナログハイビジョンを普及後に不用品にすべく、陰では必死になってデジタルハイビジョンを開発しているに違いない。 そうなればファミコンのソフトだって追随するだろうから、今オケラの家にある二台の普通のカラーテレビは、ゲーム機にすらならなくなってしまう。 こうして振り向いてみたら少しづつ違っていてまだ充分使える、しかし実際には使えない不用品が山になっている。 オケラはケチで貧乏性だから、不要になったものでも捨て切れない。 結局、ものが無くなることは物が増えることで、オケラの狭い家はこの手の不用品で一杯になってしまった。 その内に幕張メッセでも借りてフェアをやることになるかもしれない。 えぇ判ってますとも、その時オケラも一緒に並べりゃいいんでしょ。
−−−−−−−−−−1994.09記

次へ

はじめに戻る