オケラのくりごと  遊び

 戦後間もないオケラの子供の頃は、物資も食料も不足しており、周りに空地が多かった。 特にオケラが育った所は軍需工場の跡地に近かった為か田圃や林ばかり、文化と言えばラジオだけで映画館もなく、たまに松林を切り開いた空地に竿を二本立て、間に白い布を張ったスクリーンに巡回映画が上映された程度。 映写機は一台しかないからフイルムを掛け替える度に休憩になったが、スクリーンが透けるので両側から見られる利点があった。 蚊やぶよに刺されながら古いニュースや映画を見るわけだが、痒さも然る事ながら栄養失調による体力低下のためか、刺された跡が腫れ上がりやがて化膿して治らないので困った。 当時は人間よりも虫の方が元気で、人間にとっては何等かの意味で皆害虫だったが、人間の方も諦め半分で、良く言えば大らかに虫と共存していたから、例えば蚊帳の中に逃げ込んだり、蛙や虫の鳴き声がうるさくても文句一つ言わず、素直に寝ついたものであった。 夜は、冬はこたつに入って、ラジオを聞いたり貸本屋で借りてきた様々な本を読んで過ごすことが多かったが、昼間は子供たちは皆暗くなるまで外で遊んでいた。 田圃ではザリガニを初めとしてドジョウや蛙がとれた。 メダカはまだしも鯉や鮒はオケラ達には無理で、大人が夜中にど(竹冠に奴と書く)を仕掛けて鰻を取ってきたりすると、只々尊敬した。 セミは手拭いを縫って作った口径精々10cm位の網を3〜4mの竿の先に付けて取るのだが、年季が要ってイナゴと同じく逃げようとする方向から一気に被せるようにしないと取れない。 竹馬は近くの農家で自分で選んで切って貰った竹と二つに割った薪で作るのだが、五段ぐらいになると誰にでも乗れるとは行かなくなる。 もう十年以上前になるか、箱根の十国峠のケーブルカーの小さな駅の屋上に竹馬があり、外人連れで行って五段に乗って見せた。 拍手喝采は良かったが、柵を越えて落ちそうな錯覚があり本人は結構恐かった。 凧は父親の手作りで田圃の上空に良く上がった。 オケラの父親は割に器用で、竹とんぼ作りも上手かったが、自分で投網を編み、オケラを連れて一里ほど離れた川に打ちに行った。 獲物は大抵はガンガラと呼ぶオイカワだったが、ある時何の間違いか、目の下二尺ぐらいの鯉がかかり、知人を呼んだりして家中で大騒ぎをした。 押しくらまんじゅうは余りやらなかったが、馬跳びは良くやった。 壁を背に一人が立ち、その股ぐらに次が首を突っ込んで腰を立てる。 これを次々四〜五人つなげると馬ができる。 この馬に残りの六〜七人が跳び箱の要領で次々に跳び乗る。 馬が潰れたら乗り手の勝ちで、乗り手が落ちたら馬の勝ち。 馬は乗せまいと急に腰を高くしたり低くしたりする。 ともに無事だったらジャンケンで、部分的に交替して行く。 単純だが結構汗をかく。 野球は道具がなかったのでやらなかったが、学校に行くとボールがあったのでドッチボールをよくやった。 本当はドッヂボールと濁るのだと思うが、あのボール、本来何のボールだったのだろう。 ドッヂボール専用のボールがあったとは思えないのだが、バレーボールにしては重かったし、バスケットやサッカーにしては軽かった。 兎に角雨上がりなどは泥んこのボールを投げ合うわけだから内にいるほうは逃げ回ることに専念しても、外のほうはどうしても受け取ってぶっつけなければならず、結局全員泥んこになるのだった。 洗濯機も水道もない時代に、良く洗ったものだね、たらいと洗濯板で。 バレーボールと言えば先日オケラの店の前の交差点でボールがダンプカーにひかれたが、バ ー ン と物凄い音がした。 嘘だと思ったらやってご覧、知っててもきっとビックリするから。 巣作りは立ち木に板を渡したり、何処かの隅っこを囲うのが一般的だと思うが、学校が軍需産業の男子寮を改造したもので、押し入れに当たる部分や天井裏があり、オケラ達はこれ幸いと押し入れの天井から入って教室の天井裏に巣を作った。 或る年には、校舎の入口の観音開きの扉の把手にぶら下がってギーコンギーコンと行ったり来たりし、女の子にホームルームで糾弾されて、もう一人と共に学級委員を首になった。 昼休みや放課後に駆逐水雷が流行ったことがある。 二〜三十人が二つに分かれ夫々陣地と大将一人を決める。 陣地は大抵松の巨木であり、これに触れている限り捕まることはない。 大将以外は夫々適当に駆逐と水雷に別れる。 大将は帽子のつばを正面に被り、駆逐を捕まえ水雷に捕まる。 駆逐は帽子の庇を横にして、水雷を捕まえ大将に捕まる。 水雷は帽子を後ろ向きに被り、大将を捕まえ駆逐に捕まる。 捕まると敵陣から手を繋いで助けを待ち、どちらかの大将が捕まるまで続ける。 一人一人が作戦を立て、結構興奮して昼休みの短時間では勝負が着かないのが普通だった。 投げゴマは得意とはいえなかったが、ビー玉、パー(めんこ)、ベーゴマ、等は人並み以上の腕前だった。 最近の子供達には夏休みに勉強ではなく、一日一時間以上お友だちと外で遊ぶこと、という宿題が出るそうだが、テレビもファミコンもポテトチップスもない時代に育ったオケラ達にとっては、夏休みの友という宿題集は苦痛の種で、仲間と外で遊んでばかりいた。 金持ちの中に混じった中流のものは不幸だが、発展途上国の例を引くまでもなく、全員がわけへだてなく貧困である場合、仲良しの明るい社会が出来る。 ノイローゼや登校拒否児などは見本にしたくても居らず、夫々に悩みがあった筈なのに、みんな元気だった‥‥。 あァそうか、判った。 オケラのブロックのFC達が仲良しなのは、全員揃って貧しいからなんだ。

−−−−−−−−−−1994.06記

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