家庭教師と生徒な僕 ---8.



パシャ、と言う水音と共にキラキラと透明な飛沫が跳ね上がる。

「こら、それじゃまだ腕が広がっているだろ。こう、脇を締めて動かすんだ」
「ええ? あ〜、はい、こうッスか?」
「違う、こうだ」

指示を出しつつ、青島の腕をとって動作を身体で覚えこませようと密着して教えて来る室井に最初は困り果てていた青島だったが、時間が経つに連れて段々と落ち着きを取り戻していた。

水が冷たいって言うのもラッキーだったよな。お互い素肌同士で直接くっ付いている割りに室井先生の体温をあまり感じないし、火照りかけた俺の身体にも気持ち良い位だし…。

何で己の身体がそんな状態になったのか等とは深く考えない事にして、とにかく泳ぎに専念する事にした。一度考えてしまったら泳ぐどころでは無くなりそうな予感を無意識に感じ取っていたのかもしれない。

「じゃあ、もう一度私が泳いで見せるから、よく見ておくんだぞ」
「はい」

言い終えた室井は直ぐに息を吸って海に潜ると、そのまま音も立てずに流れる様に泳いで離れて行った。それをじっと見詰める青島は、思わず感嘆の溜め息を零した。

やっぱり先生の泳いでる姿って綺麗だよな。人魚って言うのが本当に居るなら、きっと室井先生みたいに泳ぐんだろうなぁ。

男相手にマジでこんな事をさらりと考えてしまう辺り、自覚症状は無いが青島の頭は既にイカレかかっていた。
ある程度の離れた場所で魚の様に滑らかにUターンをした室井は、泳ぎ去った時と同じ様に静かに青島の目の前まで泳いで戻り立ち上がった。

「こんな感じだ。判ったか?」

泳いだばかりの室井は、絶間無く流れ落ちる水滴に鬱陶しそうな表情になり、無造作に乱れた髪を掻き上げた。その何気無い仕種と、室井の細いけれども整った身体のラインに沿って綺麗に流れる雫の透明さに、我知らず青島の視線は釘付けになっていた。

「……青島君?」

呼び掛ける室井の声に、青島はハッと意識を戻した。そして又もや室井に見蕩れてしまっていた事に気付いて、折角落ち着いた動悸が再び復活してしまい、焦った彼は何事かを言おうとしたその瞬間。

「うわっ!」
「おっ?」

ザブーン!!!と一際大きな波が彼等を襲い、二人は思いきり頭から水を被ってしまった。再度びしょ濡れになった室井は何とか体勢を持ち直すと、側でやはり同じくびしょ濡れになった青島を見遣る。

「大丈夫か?」
「…あ、はい」

水を滴らせながら立ち上がる青島を見詰め、室井は一瞬息を止めた。
青島の、まだ完成されていないながらも均整の取れた逞しい身体や、その褐色の肌の上を幾筋もの水滴が光を放ちながら流れる様に目を奪われ、声も出ずに立ち尽くす。じっと真直ぐ己を見詰める室井の大きな黒い瞳に、青島も又声も出ずに吸い込まれそうになりながら視線を返し、無意識にそっと腕を差し出した。室井の両頬に手を軽く触れさせ、ゆっくり顔を近付ける。室井は身動きせずにその動作を大人しく眺めていたが、青島の顔が近付くとそのままそっと目を閉じた。青島も誘われるままに目を閉じて、後数センチで触れる、と言うその時。

「お〜い、慎次! 俊作!!」

自分達を呼ぶ声が砂浜から聞こえ、二人は閉じていた目をパチリと開けた。そして首をグルっと回してその声のする方を同時に見遣る。
其処には大きな風呂敷とクーラーボックスを持った敏郎と、同じく小降りの風呂敷を持った妹夏美が立っていた。

「敏郎さんと夏美ちゃん…?」

青島が思わず呟いた台詞に室井は一瞬目を見開いてまじまじと彼の横顔を見詰め、その後僅かにムッとした表情をしたが、それに気付かない青島はそれとは別にお互いの現状の危うさに気付いてパッと身を離した。

「あっ、す、すいません!」

慌てて離れてしまった青島に、室井は更に眉間の皺を深くした。しかしそれにも気付かない程焦っていた青島は、クルリと室井に背を向けて言った。

「えっとぉ、…俺、教えて貰った通りにもうちょっと練習してみたいんで、先生は先に二人の所に戻っていて下さい」
「…え、おい」

室井が呼び止めようとする前に、青島はバシャっと音を立てて水の中へ潜り、一目散に泳いで行ってしまった。焦って泳ぎ始めた割に、微妙に水しぶきは上がっていたが最初の頃よりは幾分良くなっている泳ぎっぷりだった。
室井は既に遠離った青島を見送ると、一つ軽い溜め息を吐いて岸へと歩いて行った。

「よう」
「はい、慎次お兄ちゃん」
「…ああ、ありがとう」

夏美から差し出されたタオルを礼を言いながら受け取った室井は、水滴を拭きつつ傍らで悪戯な表情で笑いかけている敏郎を軽く睨み付けた。

「何だよ、親切に弁当を持って来てやっただけじゃんか」
「それは口実。本当は二人が気になって様子を見に来たんだよね〜」

悪気も無くハッキリと言う妹に、敏郎は苦笑して「このやろ」と言いながら夏美の頭をくしゃくしゃにかき混ぜた。

「ちょっと敏郎お兄ちゃん、やめてよ〜」
「んだよ。どうせお前も泳ぐ気なんだろ?」
「そう言う問題じゃ無いの。…ああっ、もう良いや。と言う訳で慎次お兄ちゃん、私も泳いで来て良い?」

ボサボサにされた頭を整えていた手を止め、気を取り直した夏美は室井に向き直って首を傾げながら、とびきりの笑顔で問うた。問われた方の室井は、一瞬ぱちくりと目を瞬いた後、思わず眉間の皺を寄せてしまった。

「……何で俺に聞くんだ」
「え、だって心配かな、と思って」
「……関係無いだろ」

お前もか、と言いた気に睨む室井に、ペロリと舌を出した夏美は直ぐに満面の笑顔を浮かべた。

「は〜い。じゃ、許可も出た事だし行って来るね!」

タタッと海に向かって嬉しそうに走って行く夏美を複雑そうな表情で見送る室井の様子に、敏郎は僅かに苦笑した。

「しっかし、すっかりウチのアイドルになっちまったな、彼奴」
「……」

敏郎は勿論、両親もすっかり彼を気に入っていた。昨晩は室井父に晩酌を付き合えと強く誘われてしまい、上手く断れずにいた青島に室井が慌てて「未成年にお酒を勧めないで下さい」と無理矢理家族から引き剥がさなければならなくなり(敏郎まで加わったから更に苦労した)、今朝は今朝で久し振りに集まった子供達に喜んでいた室井母に室井家の人々の話を語られ、そのまま昔話をしつつアルバム迄広げかねない彼女の状態に、うっかりそのまま聞き入りそうになっていた青島を、海に連れて行くからと強引に引っ張って来なくてはならないと言う始末だった。

「本当、良いよな」
「……」

そして海に辿り着いた夏美は早速青島にちょっかいをかけに行き、いきなり目の前に現れた夏美に青島は大いに驚いていた。青島の反応を楽しんでいるかの様な彼女の姿に、室井は僅かに眉を顰める。そんな弟の反応に敏郎は笑った。

「ば〜か、そんなにスネた顔すんなよ。誰も本気で取ったりしないって」
「……別に」

そんな心配等してない、と小さく呟くが、誰が見ても今の室井の顔はスネているとしか言い様が無い表情をしていた。こんな子供っぽい弟の表情は兄である敏郎も早々滅多に見られるモノでは無かったので、ついもっと見ていたくて更にからかってしまう。

「俺も、可愛いとは思うし、結構好みなんだけどな」
「……兄さん」
「俺としてはもうちょっとこう…手応えのある奴が良いかな。ああいう顔は滅茶好みなんだけど、性格が素直過ぎなんだよな。あれで、不器用で扱い難そうなタイプだったら本気でヤバかったかもなぁ」

人の悪い笑みでそんな事を言う兄を、室井は呆れた顔で睨み付けた。

「兄さん、本気でそう言う趣味あったんですか?」

室井の反撃に一瞬敏郎は「お?」と言う表情になったが、再びニヤリと笑みを浮かべて不敵に言った。

「だったらどうする?」
「別に人の趣味についてどうこう言うつもりはありませんが、俺の生徒に手を出すのだけは止めて下さい。俺の信用に関わりますし、第一青島教授に申し開き出来ません」
「ふうん? 俺は駄目だけど、お前本人が手を出すのは良いのか?」
「……っ! 俺が何時…」
「さっき俺と夏美が来て声をかける前、随分良い雰囲気だったじゃねぇか、お前等」
「あ…あれは、別に……」
「別に?」

ニヤニヤと笑いながら問い詰める敏郎に、室井は咄嗟に言葉が出ず、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
特にそう言った趣味について偏見は無いつもりだが、自分はその気は全く無いと思っていた。事実、今迄男相手にどうこうという感情を持った事は一度として無い。そしてこれからも無い筈だったのだが……どう言う訳か、青島だけは特別だった。青島の笑顔を見ると笑い返したくなる。スネた顔を見ると頭を撫でてやりたくなる。落ち込んでいれば元気を取り戻させたくなるし、怒っているならちゃんと理由を聞いて話し合って和解したいと思う。元々人付き合いの良く無い自分は、他人に対して特別興味を持たず、自分が相手に対してどう思われているか等と言う評価をさして気になったり等しなかったのだが、青島に対してだけは違っていた。彼に嫌われたく無かったし、自分と居る時はちゃんと自分を見て欲しいと思った。彼を弟の様に感じ、自分が弟を持ったらこんな風に思うのだろうかとも思ったが、それだけだったら今のこの複雑な感情は当て嵌まらない気がして、だったら一体これは何なのだろうとかと疑問は深まるばかりだった。現在の様に自分から離れて別の人間(しかも相手は自分の妹なのだが…)と一緒に居る姿を見ていると何故か胸が痛み、そんな自分の感情を不思議に思っていたが、今迄深く考えるのは止めていた。
先程の海での出来事も無意識に思考を停止していたのだが、よくよく考えてみれば自分達はあのまま声をかけられなければ接触していた訳で、それを嫌だと思わないと言う事は……。
眉間に皺を寄せて真剣に考え込んでしまった弟を興味深気に見詰めていた敏郎は、いきなり後ろからガシッと抱き着かれて驚いた。

「おぅ!? な、何だ?」
「なぁ〜に敏郎お兄ちゃんってば、慎次お兄ちゃんを虐めてんの!」
「別に虐めてねぇって…。うわ、お前濡れたまま抱き着きやがったな! 俺の服がびしょ濡れになったじゃねぇか」
「大丈ぉ〜夫、すぐ乾くっ!」
「あのなぁ」

じゃれあう兄妹を他所に、タオルを肩に引っ掛けた状態の青島が心配そうに室井の顔を覗き込んだ。

「室井先生? 気分でも悪いんスか?」
「……っ!」

いきなり近くに現れた青島の顔に、室井は飛び退く様にして後ずさった。

「……先生?」

訝し気に見詰める青島の視線にいたたまれない気持ちになった室井は、「何でもない」と素っ気無く言いながら思わず顔を背けてしまう。そんな様子の彼を怪訝に思い、多分元凶であると思われる敏郎に問い質そうと視線を向けた瞬間、室井は己の持っていたタオルをシートの上に置くと徐に身体をクルリと海に向けた。

「ちょっと済まないが、少し俺も泳いで来る」
「えっ……ちょ、先生!」

青島が呼び止める間もなく、室井は既に駆け出して行ってしまっていた。その立ち去る時の横顔が、何となく赤らんでいた様な気がするのは自分の気の所為だろうか?と、思わず首を捻る青島だった。


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遅くなった分少し文章を長くしてみたんですが…無駄な文章が増えただけ
な気がしてなりません(泣)。それにしても、室井さんにも段々自覚症状
が現れて来ましたね! しかし室井家はこんなんで良いのか?ってな感じ
です。あんた達、小学生じゃ無いんだからさ…(溜め息)。