家庭教師と生徒な僕 ---9.



室井家で過ごす最後の夜。
先程迄は青島も室井の家族と団欒を楽しんでいたのだが、青島と共に室井も明日の朝に東京に戻ってしまう為、久し振りの家族会議を開く事となり、他人である青島は居ても良いぞと皆に言われたのだが慎んで辞退させて頂き、今は自分に与えられた客間に敷かれた布団の上に寝転がっているのだった。

……寝られない。

暗がりの中、青島の目はぱっちりと開いていて、じっと天井を睨み付ける様に眺めていた。室井達が居る部屋は遠く離れているので、今青島の耳に聞こえるのは虫の声だけである。時々、開け放した戸の向こうから涼やかな風が舞い込んで来て、青島の少々癖のある髪を撫ぜていく。ふう、と軽い溜め息を吐いた彼は、ゴロリと横に転がって目を閉じた。
普通の家庭だ、と室井は言っていたが、仲良くなった家政婦の吉田との会話によると、室井家は代々続く教職家系で、跡継ぎたる者は必ず秋田で教師をするのがしきたりなのだそうだ。そのしきたりに従うとなると、敏郎か室井かのどちらかが教師になって秋田に戻らなければならないと言う事になる。どう考えてもあの破天荒の敏郎が芸能人を辞めて秋田に戻って大人しく教師になる等とは青島には思えなかったので、そうなるとやはり室井が家を継ぐ事になるのだろうかとぼんやり考えた。

先生が教師ってのはもの凄く似合うと思うけど、……そうだよね、秋田に帰っちゃうんだよなぁ。

ごろんと転がった青島は、ふっと思い付いた自分の考えに更に表情を暗くする。
そもそも己の受験が終わったら、お互いの繋がりは無くなってしまう。それでも同じ東京に居るのであれば偶然再会する機会もあるだろう、若しくは何か理由をつけて会うチャンスを作れるかもしれない等と自分を慰める事すら出来ない。お互いの繋がりは所詮『家庭教師と生徒』でしかないのだ。どんなに自分が会いたいと思ったとしても、彼は自分の存在すら忘れ去ってしまうかもしれない。

それって何か少し……否、凄く寂しいって言うか…痛い気がすんだけど。

何故こんなに室井の存在を失うと思うだけで辛いと感じるのか。青島は自分の感情を探ろうと、きつく目を閉じた。

カタン

風とは違う、戸に何かが当たる小さな音がして、青島は閉じていた目を開けて音のした方向をそっと見上げた。その視線の先には、月明かりによって浮かび上がる室井の姿が其処にあった。何時から其処に立っていたのか、戸脇に佇んで小さく溜め息を吐く様は、青島を幾分落ち着かせなくなった。声をかけて良いものか考えあぐねていると、室井の方が青島の気配に気付いて視線を移した。

「……済まない、起こしてしまったか?」

酷く優しい声でそう言われ、青島は自分の鼓動が速まるのを自覚して内心焦っていた。

「いっ…いえ。寝て…いた訳じゃ無いッスから、気にしないで下さい」
「そうか…?」

慌てて起き上がって否定する青島に微笑し、そしてゆっくりと視線を外の月へと向けた。
身動きをしなくなった室井を暫し見詰め、青島は身体を四つん這い状態にしてそろそろと近付く。室井が足元迄辿り着いた青島に気付いて見下ろすと、目が合った青島はちょっと照れ臭そうに笑いながらその横に座る。一瞬キョトンと眺めていた室井だったが、ふっと笑うと自分もその場に座り、青島と肩を並べた。

「話はもう…終わったんですか?」

なるべくさり気ない口調で、だが一番気になっている事を訊ねた青島だったが、室井は「ああ」と簡潔に返事を返しただけであった。
それ以上深く訊ねたくても、やはり何とは無しに聞き難い。何度か口を開きかけ、深い溜め息を吐いて大人しくぼんやりと外を眺める。風がそよそよと吹いて、草木の擦れ合う音がする。暫し沈黙が流れた後、チカリと光る灯りを見付けて青島は顔を上げた。

「…え?」

ふわふわと小さな光が宙を動くのをじっと凝視していると、あちらこちらから同じ様な光が現れて、気が付くと沢山の光が目の前に集まっていた。

「ええ! 何スか、これっ?!」

後ずさりする青島を、室井は不思議そうに見詰めた。

「? 螢がどうかしたか?」
「へ? 螢?」

ふよふよ〜と飛んで来た光が、室井の肩に静かに止まった。

「何だ、知らないのか?」
「いえ、螢は知ってますけど……本物見るのは初めてッス」

「へえ、これが…」と感心しながら見ている青島につられ、室井も己の肩に止まった螢をじっと見詰める。

「綺麗ですね」
「………えっ」

螢を見ていた筈の青島の視線が何時の間にか己を見詰めている事に気付いて、室井は妙に焦って極まり悪気に目を反らした。何も言わない室井を気にした風も無く、再び漂う螢達を青島は視線で追い掛け始めた。熱心に螢を眺めている青島の姿に視線を戻した室井は、小さな溜め息を吐いてから控え目に声を掛けた。

「…青島…君」
「はい?」
「その……急な話で申し訳無いのだが、この夏休みが終わった後課題を提出したら、私は元居た東北大に戻る事になる。予定ではもう少しかかる筈だったんだが、幸か不幸か良い仲間に恵まれてな。…最後迄面倒を見られず、すまない」

交換学生として東大に来ていた室井は、研究課題が終われば在学していた東北大に戻る事になっていた。その間アルバイトも兼ねて青島の家庭教師をすると言う契約だったのだから、それが少しばかり速まったからと言って室井が謝る必要は全く無かった。
頭ではそう理解していて気持ちの整理もついている筈だった。けれども、やはり青島は寂しいと思ってしまう。落胆した気持ちを隠しきれず、黙り込んで俯いてしまった。

「……そ、そう…なんスか」
「……」

暫し沈黙が漂った後、無理矢理笑顔を作って青島は殊更明るく言った。

「そうッスよね。先生も何時迄も俺の面倒ばかり見ている訳に行かないですもんね。これからは自分の就職の事でも忙しくなるんでしょうし」
「……」

軽く言ったつもりの青島の台詞に、室井は表情を固くしていた。別に責めているつもりは無かったのだが、室井にはそう聞こえてしまったのだろうか?と慌てて話の鉾先を少し変更する事に試みた。

「あの、やっぱり大学卒業後は室井先生が教員免許を取って跡を継ぐんスか」
「…え?」

吃驚した室井の様子に、訊ねた青島の方が驚いた。

「…あれ? 違うんスか?」
「ああ、それは無い」

きっぱりと断言する室井に、青島は首を捻る。

「え〜と、じゃあ意外だけど敏郎さんが継がれるんですか?」
「まさか」

思わず眉間に皺を寄せて呟く室井の台詞に益々混乱する。

「ええ? じゃあこの家は…」
「夏美が継ぐ事になった」
「はいぃ〜?」

思わぬ大穴に、青島は目を白黒させてしまった。

「正確には夏美が婿を取って継ぐと言う話だ。本人がそう計画しているんだから本気なんだろ」
「は…あ、婿ッスか」
「何でも、私に会いに東京に来た時良さそうな人材を見付けたと、先程自慢げに話していた。両親も私や兄には期待してないと言っていたからそれで決まりだな」

何処迄もパワフルでマイペースな室井家の成り行きに、青島は目眩を感じる。

「そりゃ、敏郎さんは今の仕事が気に入っているみたいですから現状維持って方が良いんでしょうけど、室井先生は大学を卒業されたらどうすんスか? 教師になるつもりって無かったんスか?」
「……言ってなかったか? 私が所属しているのは法学部だ。教師になるつもりだったらもっと別の選択をしていただろうな」

室井は自分のプライベートや将来についての話を自ら話す等と言う事をするタイプでは無いので、青島が知らなかったのも無理無い話だ。青島としては興味無かった訳では無く、単に聞く機会が無かっただけだったのだが。
初めて知る室井の進路に興味を持ち、青島は更に追求する。

「ほ、法学部ッスか…。ええ!? って事は、室井先生って弁護士とかになるんスか?」
「最初はそのつもりでいたんだが……」
「……?」
「…………警察官になろうと思っている」
「…け、警察官?!」

余りの展開に、青島は声を失った。

「……そんなに私が警察官になりたいと思うのが可笑しいか?」

思わず拗ねた表情をした室井に慌てて首を振った。

「いえっ! 可笑しい訳じゃ無いッス! えーと、でも……う〜ん、ちょっとイメージが……ねぇ?」

ねぇ、と言われても困ってしまう。

「そっか〜、警察官かぁ」

しきりに感心し頷いていた青島は、はたと動きを止めて固まった。

「…どした?」
「………警察官って……その……秋田、の?」

恐る恐る訪ねる青島をじっと見詰め、室井は思わず眉間に皺を寄せた。

「別に秋田に住む事には固執していない。それに現実問題として無理だろう。公務員は中々退職をしないものだし、特に地方は少人数しか募集されないから競争率も高すぎる。家を継がないなら秋田に居る必要も無いし、大学を卒業したら東京で働くつもりだ」
「えっ!」

思いっきり驚いた後嬉しそうに笑う青島を見て、室井は首を捻る。

「何だ?」
「いえ、嬉しいなって」
「…何故だ?」

青島の考えている事が、室井にはいまいち判らない。

「だって、先生が秋田に戻っちゃったら、俺もう二度と会えないかもって思ってたから。東京で働くなら、時々は会っても良いッスよね?」
「…………」

黙り込んでしまった室井に、青島は膨らみかけた希望が萎んでいくのを感じた。飼い主に叱られた犬の様に、耳と尻尾が垂れ下がった様な顔をする。

「…え。もしかして駄目ッスか?」
「……違う。そうじゃなくて、私が秋田に居たらそれで終わりだと思ってたのか」

口を尖らせ不満げな態度を取る室井とは裏腹に、青島は予想を上回る程嬉しい台詞を室井の口から聞けたので、思わずこれは夢なのだろうかと思った。

「だ、だって…家庭教師で無くなったのに、室井先生が俺に会ってくれる理由なんて無いじゃないスか。ましてや遠くの秋田に行っちゃったら、……俺の事なんて直ぐ忘れちゃうでしょ」
「君は忘れるのか?」
「忘れませんよ!」

思わずムキになって言い返す青島を、室井は不思議な面持ちで見ていた。じっと見詰められて青島は少し居心地が悪くなり、視線をあちこちに彷徨わせながら言った。

「先生は? 俺の事忘れないでいてくれます?」
「……忘れる訳無いだろう」
「どうして?」
「我が儘で手の掛かる生徒をそう簡単に忘れられる訳が無い」
「ひでぇ」

拗ねた顔をした青島に室井は微笑する。一緒に青島も笑ったが、ふと真顔になって問い掛けた。

「……生徒として、だけですか?」
「………」

いきなり言われた室井は、僅かに狼狽えた。

「ねえ?」

何時の間にか互いの距離を詰められ、青島の視線を間近に受けて戸惑う室井の姿を、青島は妙に冷静に見詰めていた。

(ああ、やっぱり)

無意識に反らしていた己の感情に気付いた。気付いてしまった。

(俺は室井先生が好きなんだ)

自覚したら、もう伝えずにはいられなかった。

「好きです」
「……なっ」

突然の青島の告白に、室井は俯いていた顔を上げて青島の顔をまじまじと見詰めた。言葉の真意を確かめようとしているかの様に睨み付ける室井に、青島は精一杯己の本当の気持ちを伝えようと真剣な口調でもう一度繰り返す。

「俺、誰よりも先生の事好きです」
「そう言う冗談は敏郎兄さんに言え」

怒った様にそう言い、プイと横を向かれてしまう。
自分の本気が伝わっていない筈は無いのに、誤魔化そうとする室井の態度に腹を立て、青島は意地悪く言った。

「……言って良いんですか?」
「……っ」
「冗談じゃ無いから、先生以外にこんな事言えません」

言葉を失ってしまった室井と、それを見守る青島の周りには、静かにそよぐ風とほのかに照らす螢の灯りしか無かった。
暫くの沈黙の後、室井は詰めていた息を吐き出して肩の力を抜く。

「私は…男だぞ?」

何を好き好んで…と言いた気な室井の様子を見て取って、このままでは本気で相手をして貰えないと思った青島は正直にありのままの自分の想いを告げる事にした。

「はい。だからずっと…自分を誤魔化していたみたいです」
「何を…」
「先生に欲情している自分を」
「よっ…」

驚いて後ずさる室井に、青島は苦笑した。予想していた反応とは言え、やはり本人にやられると堪えるなと心の中で溜め息を吐く。

「気持ち悪いですか?」

なるべく明るく言ってみたのだが、傷付いた心は完全に隠しおおせる事が出来なかったのか、室井は眉間に皺を寄せた。

「そんな…そんな事は無い…と言うか」
「?」
「想像出来ない」

ガックリと頭を垂れた。らしいと言えばらし過ぎる位の室井の感想だ。その言葉に希望を見出せるのかどうか、青島は頭を悩ませる。

「何で私を見てそんな気になれるんだ。…それとも、君は元々その気があるのか?」
「あったら自覚するのにこんなに時間かかってませんよ!」

何だか微妙に話の鉾先がズレてしまっている気がする。自分に想われて室井自信がどう思うかを知りたかった筈なのに、どうやら室井は自分が想われる事を理解出来ずにいるらしい。

「俺はホモじゃ無いけど、先生の事は好きだし触りたいと思ってるよ」

率直に言った青島の言葉に、室井は真っ赤な顔をして叫ぶ。

「いっ…いい加減な事を言うなっ!」
「真面目に言ってます!」

何でそんなに自分の言葉を信じて貰えないのだろう?と室井の気持ちを計りかねていた青島は、次の室井の言葉で理解した。

「君は只流されているだけだ。…あの頃は若かったんだと言う様な、そんな簡単に割り切れる様な感情なら最初から無かった事にしておいてくれ!」

泣きそうになっていた室井の表情を見て、青島は愕然とした。
その気が無いなら拒否すれば良いだけの話だ。軽蔑されたって文句は言えない。けれど室井は青島の気持ちを否定するだけで、自分の気持ちは伝えようとしなかった。

『想像出来無い』のじゃない。
『想像しない様にしている』のだ。

今迄の自分と同じ様に。

「…何で初めから駄目になるって決めつけるんスか?」
「続く訳無いだろう、こんな関係が」

優しく問いかける青島の言葉に、室井は俯いて小さく呟いた。

「そんな事判らないじゃ無いッスか。だって…先生の気持ちはともかく、俺の気持ちは変わりませんよ。絶対」
「そんな訳無いだろう! 変わらないのは私の気持ちであって、君のは一時の気の迷いだ」

顔を上げてムキになってそう告げる室井に、青島は笑って指摘した。

「…変わらない先生の気持ちって何スか?」
「……う」
「ね、何?」

じっと見詰められて、室井は動けなくなってしまう。押し隠していた自分の気持ちに、室井も又気付いてしまった。
手に入る事は無いだろう、知られたら軽蔑されると恐れて封印していた想いが、今青島の手に寄って解放された。けれどそれを素直に打ち明ける事が出来無い。
一度手にした青島の気持ちを失う事に、自分は堪えられる自信が無かったから。

「じゃあ、どうしたら俺の気持ちを信じてくれますか?」

反らさずじっと見詰める青島の視線が痛くて、ぐっと奥歯を噛み締めて目を瞑る。

もう、偽る事も出来無い。
青島にも気付かれている。

自分も彼も同じ様に惹かれている事を。

隠し通せないのならば、後は開き直るしか室井には残されていなかった。
結局求めずにはいられないのだ。例え一時の気の迷いだとしても、己を想ってくれる彼の心を。

「そうだな…」

そっと目を開けて青島の顔を見詰め直すと、彼の心を繋ぎ止める計画を密かに企てる。
駆け引きは上手い方では無いが、本気でかかれば何とかなるかもしれない、と。
神妙に己の言葉を待つ青島に向かい、室井はいっそ清清しく言った。

「お前が大学を出て就職してもまだその気持ちのままだったら、信じてやる」

突然開き直った室井の態度と申し出に、青島は面喰らった。
自分を想ってくれていたと知って、受け入れてくれようとしてくれた事に飛び上がりたい程の喜びを感じてはいた。いたがしかし。

「……だ、大学出て就職してからって……あの、それってじゃあ…それまで…」
「手ぐらいは繋いでやっても良いぞ。無論、人前で無ければだが」
「せ、先生ぃ〜〜〜〜」

開き直りまくった室井の言葉に情けない顔で泣きつく青島は、更にピシリと真面目な顔で注文を付け加えられた。室井にとってはずっと気になっていて、ずっと気に入らなかった事だ。

「その『先生』ってのも止めろ。俺はもう、お前の『先生』じゃ無いんだから」
「え…はい。えっと……それじゃ……む、室井、さん?」
「ああ」

にっこりと満足げに笑顔で答えられ、青島は見蕩れながら絶句してしまった。


* * *





夏休みも終わり、課題も無事終わって東北大に戻る室井を見送った青島は、先程別れ際に室井から手渡された手紙を開いた。



  春になる頃東京に一度出向くので、教授に挨拶するついでに会えるだろう。
  追伸:就職してからと言ったが、譲歩して「お前が成人したら」に変更してやる。



「譲歩してくれるのは嬉しいんだけどさ…」

はあ、と溜め息を吐いて空を見上げる。

「それってなまじっかの箱入りお嬢様との交際より厳しく無い…?」

思わず泣き言を呟いてしまう青島は、言葉とは裏腹に幸せそうに微笑んでその手紙を丁寧に畳むと、ポケットに大切にしまいこんで歩き出す。

空いた電車の中、座席に座って外を眺めていた室井は誰にも聞こえない様に小さく呟く。

「ああ書いたは良いが……」

多分それ迄自分が待てないだろうな、等と一人苦笑していた。




開き直った室井は、実は誰より最強だった。





END
 







かなり長い間お待たせしてしまってすみませんでした。そして結果が
こんな出来…。思わず明後日の方向を見てしまいます。急展開過ぎな
気はしますが、それはまぁ気になさらず(笑)。
実は途中迄はかなり前に書いていたんですが、それを見て書き加える
今の自分は、過去の自分にずっと呪の言葉を投げかけてました。

「誰が続きを書くと思ってんのよっ!」

私しかいませんね、はい(涙)。やはり小説は一気に書き上げるのが
一番ですね〜。ええ、本当に(改めて実感・反省。阿呆です)。