家庭教師と生徒な僕 ---4.



ガヤガヤとざわめく廊下の中、数人の学生が掲示板に紙を貼り出していた。
すみれは興味無さそうながらもぼんやり眺めていると、上位の部分に見知った名前を発見して息を飲んだ。即座にキョロキョロと辺りを見回すが、目的の人物は見付からなかった。仕方が無いので教室に戻ろうと軽く走りかけた彼女を、背後から呼び止める声が聞こえた。

「おう、すみれさん、慌ててどうした?」
「あ、和久先生!」

腰を叩きながら声を掛けてきたのは、定年退職を間近に控えている老教師の和久平八郎だった。

「幾ら慌てても、廊下は走っちゃいけねぇな、すみれさんよ」
「すみません。…あの、青島君見掛けませんでしたか?」
「青島ぁ?」
「はい。今、期末テストの結果が廊下に貼り出されてて、青島君が学年9位だったんですよ」
「ほう、彼奴がか」
「ええ、だから教えてあげようと思って…」

すみれの台詞に意外そうな顔で驚いた和久は、後ろを指差して言った。

「青島ならさっき職員室に入って来て、担任の袴田先生と何か話してたぞ」
「そうですか。有難うございます」

ペコリとお辞儀をしたすみれは職員室に向かって走りかけ、和久の「廊下は走らない」と言う台詞を思い出して、なるべく早歩きでその場を後にし、その姿を和久は苦笑しながら見送った。
職員室に着いた彼女は、ドアをノックし「入ります」と言って中に足を踏み入れた。辺りをグルリと見回したが、青島の姿は見当たらなかった。仕方が無いので、机に座ってゴルフクラブを磨いている袴田に声を掛けてみた。

「袴田先生」
「お、おお。恩田君、どうした?」

慌ててクラブを後ろに隠して取り繕うとする袴田を無視して、すみれは用件を言った。

「あの、此処に青島君が居るって聞いたんですけど…」
「あ、ああ、青島君ね。来たけど、何か具合が悪いから早退するって、さっき帰ったよ」
「…早退? 青島君がですか?」

いつも元気な青島が早退する事など珍しい、とすみれは思ったが、サボりであったなら慣れている袴田が容認する筈無いので、確かに具合が悪くなったのだろう。

「うん。何? 青島君に何か用だったの?」
「いえ、別に大した用事じゃ無いんですけど」
「そう。何だろね。今回のテスト頑張り過ぎたのか、結果聞いたら様子が変だったんだよ。大丈夫かな、彼奴」
「……結果って?」
「いや、順位の発表は掲示板に貼り出されてるけどね、何か各教科の点数が知りたいってんで一足早くテストを返してあげたんだけどさ。それ見た途端青ざめちゃって、ふらふらしながら帰っていったんだよ」
「青ざめて?」
「そう」

袴田とすみれは互いに顔を見合わせ、同時に首を傾げた。


その頃、当の青島はと言うと……。

「ハァ〜」

盛大な溜め息を吐きながら、家に帰る途中の公園のブランコにユラユラと揺られていた。
普段からそんなに成績の悪く無かった彼は、そんなに必死になって勉強をした事があまり無かった。そんな彼が、あの約束の為に一生懸命に頑張って勉強をしたのだ。少なからず、全ての教科の点数は向上しており、目出度く学年9位と言う快挙の成績を収めた。にも関わらず、青島の気分は正しく『超ブルー』なのだった。

「俺の為に一生懸命教えてくれたのに、先生失望させちゃうだろうな…」

御褒美が貰えなくなった事に落ち込むよりも、室井にあれだけ親身になって教えて貰ったのにも関わらず結果が出せなかった事に、青島は深く自己嫌悪に陥っていた。

「こんな事なら、あんな約束しなきゃ良かったかな…」

調子に乗って取り付けた約束に、今更ながら後悔してしまった。きっと結果を知った室井は、下手をすると自分の教え方が悪かったのかと思い悩んでしまうかもしれない。彼の貴重な時間を自分の我が儘の為に割いてもらってこの体たらくでは、はっきり言って顔向け出来ないと思ってしまっても仕方ないのだった。
そんな風にあれこれと思い悩んでいる内に、何時の間にか室井が家に来る予定の時間になってしまっていた。

「悩んでても仕方ない、か。……よしっ!」

意を決してブランコから飛び下り、急いで家に向かった。
しかし、予想していた男物の靴は玄関先に見当たらず、彼は首を傾げた。

「あら、俊作お帰りなさい」
「あ、母さん。室井先生は?」
「さっき電話があって、ちょっと寄る所があるから少し遅くなるって言ってたわよ」
「……あ、そう」

一気に脱力した彼は、気の抜けたまま階段を昇り、机に鞄を放り投げて、ベッドの上にダイビングした。

「はぁ〜、何て言って謝ろう…」

枕に顔を埋めて呟く青島は、「俺ってこんなにうじうじした性格だったっけ?」と不思議に思いながら、ゆっくりと意識が薄れて行くのだった。


カタン、と言う小さな音が聞こえ、ぼんやりとした頭が遠くに行っていた意識を浮上させてゆく。人の気配を感じ、ゆっくりと顔を上げて部屋を見回すと、机に向かって何かを読み耽っている人の背が目に映った。

「……室、井…先生?」
「ん? 起きたか?」

目を擦りながら起き上がってベッドに座る青島がまるで小さな子供の様で、室井は僅かに微笑しながら立ち上がり、青島の隣に座った。

「来てたんなら起こしてくれれば良かったのに」
「最近あまり寝ていなかっただろう? 気持ち良く寝ていたから起こすのに忍びなくてな」

まだ半分位意識がはっきりしていないのか、本気で拗ねた様に言う彼に、苦笑しながら声を掛けてやる。そんな室井をぼうっと見詰めながら、ふと青島は、室井が手にしている紙に気付いて目を見開いた。

「……あの、先生。それって…」
「あ? ああ。すまん、勝手に見せて貰った」

その一言で、青島は完全に覚醒した。「あちゃ〜」と頭を抱えてしまった彼に、室井は不思議そうな顔で見詰めた。

「どした?」
「……すみません」
「……何で謝るんだ?」

青島の行動が理解出来ないと言った風情の室井に、青島は開き直って言った。

「だって、目標の全科目80点以上にならなかったじゃないスか」

その台詞に、室井は目を丸くして驚いた。そのまま手に持っていた紙をじっと見詰め、クスリと笑った。室井の珍しい笑顔に、青島はそんな場合では無いと言うのに見蕩れてしまった。

「何だ、そんな事気にしていたのか?」
「そんな事って……だって約束したのに」

あんなに丁寧に教えて貰ったのに、と落ち込む青島に、室井は優しく頭を撫でた。

「予想通りこの教科だけが78点で、後は平均90点以上の人間がそんなに落ち込んでいたら、他の奴の立場が無いんじゃないのか?」
「……だって」
「しかも、この間違いだって簡単なミスばかりじゃないか。次はちゃんと出来るだろ? そんなに自分を責めるな」
「でも、あんなに先生に時間を割いて貰って教えて貰ったのに。それに、結局これで先生とプールに行く話は駄目になっちゃったじゃないスか」

ぼそりと呟いた青島に、室井は複雑そうな顔で見詰めた。

「そうだな、あれは80点以上取れたらと言う約束だったからな」
「……」
「しかし、それならあれだけ私も頑張って教えたんだから、私の方に褒美があっても良いと思わないか?」

項垂れていた青島は、顔を上げて室井の顔を見た。覗き込んだその瞳は、悪戯を思いついた子供の様な光を宿していた。そんな室井にとまどいながらも、彼の真意が判りかねるので、青島は問いかけた。

「褒美って…?」

ボーナスとかだったら親に聞いてみるけど…と言いかけた青島に、室井は首を小さく横に振って否定した。

「実は出掛けに電話があって、今年の夏は実家に帰らなくてはいけなくなったんだ。それに付き合ってくれないだろうか」
「……はぃ?」
「何も無い所だが、側に海があるから泳ぐ事も出来るぞ」
「……」
「一人で帰ると親がいろいろと煩いんでな。誰か連れて行こうかと悩んでいたから丁度良かった。……君が嫌だったら無理にとは言わないが」

段々と小さくなる室井の声に、青島は慌ててブンブンと頭を横に振った。

「嫌じゃ無いッス! え、でも、だって……俺で良いの?」

信じられない、と目をぱちくりとさせる青島に、室井は僅か緊張を解いた様に軽く息を吐いた後、ふわりと微笑んだ。

「ああ。君に、私の故郷を案内したい」

室井の真摯な言葉に、青島はまじまじと顔を見詰めた後。

「……俺も、先生の故郷を見てみたい」

満面の笑みで返事を返し、二人は互いに顔を見合わせて笑った。
しかしこの時二人は気が付いていなかった。今の台詞が、端から見たらプロポーズの言葉以外の何ものでも無い事に。



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プールどころか、いきなり秋田の海に行く事になってしまいました。
正に自分で自分の首を絞めてますね!(苦笑)