「あの薬はね、一時的に目が見えなくなる薬なんスよ。実験済みだから心配しなくても大丈夫ッス。8時間後には元に戻りますし、後遺症も残りませんから」
「……」
何処からそんな薬を手に入れているんだ?と疑問に思いはしたが、聞いても答えてはくれないだろう。
しかし『視界が見えない』というのは、かなり不便な事だという事をしみじみ実感させられた。指定された喫茶店で薬を飲み、そこから此処まで来る距離を彼に支
えて貰えなかったら、さぞかし不安この上なかっただろう。被疑者である『彼』が側にいるだけで、全ての不安が払拭されてしまうと言うのもおかしな話なのだろうが。
ぼりぼりと頭を掻きながら溜め息を吐いた音が聞こえる。彼は今、どんな表情をしているのだろうか?
「…俺が言うのもなんですけど、こういう物はあまり簡単に飲まない方が良いと思いますよ?」
「こうでもしないと、君は会ってくれなかったのだろう?」
「……飲んだって来なかったかもしれないし、もしかしたら毒だったかもしれないじゃないッスか」
少し口調が怒っている様に感じるのは、自分の都合の良い方に取り過ぎだろうか。しかし、警戒心が薄いのは、相手がこの男だからなのだが。
「それでも良かったんだ」
「え?」
「君に会う為なら、こんな事位平気だ」
「……そんなにして迄、俺を捕まえたい?」
呆れた口調の中に、苦い物を感じた。そう思われても仕方ないのは判っていたが、彼にだけは誤解されていたくは無かったから、素直に本音を話す事にした。
「君ときちんと会って話がしたかったんだ。警察官としてではなく、私個人として」
「……?」
「ずっと聞きたかった事が有る」
「何スか?」
やっと会えたというのに、彼は少し離れた場所で話を聞いている様だ。彼は必要最低限以外、俺に近付いたり触れたりしない。彼の立場を考えれば、警戒してし過ぎるという事は無いのだろうと判ってはいるのだが、一抹の寂しさが込み上げて来るのはどう仕様も無かった。それでも俺の無茶な頼みを聞いて、こうして会ってくれたり、立場を気遣ってくれたりするのを感じると、ほんの少しでも彼に近付いた気がして嬉しかった。
そんな僅かな彼の行動に一喜一憂する自分に呆れてしまう。
「何故君は、ハッキング等とくだらない罪を犯しているんだ?」
「……罪? まあ、確かに法律違反なのは確かですよね」
まるで他人事の様に言う彼に、尚も問い質す。
「君は犯罪者になるべき人間ではない。何故、こんなことをしている?」
苦笑した声が聞こえた。
「だって、困っている人がいたら助けてあげるのが人間ってものでしょ? 見て見ぬ振りは、俺には出来ません。肝心の警察は当てにならないんだから、仕方無いッスよ」
「警察を、信用していないのか?」
「信用出来ると思います?」
「……」
情けない事だが、警察全てが正しいと断言出来る程俺も馬鹿では無かった。昨今の警察不祥事のニュースの多さを考えれば、一般人に信じろと言い切る事すら難しく
なっているのだ。この男を説得出来る自信は、俺には全く無かった。
「やり方が間違っているのは判っています。でも、正攻法じゃ駄目なんだ。苦しんでいる人は、待ってはくれない」
「しかし」
「青臭い正義感だと、自分でも自覚しています。ただの自己満足に過ぎないのも判っています。それでも、黙って苦しんでいる人を見過ごしていける程、俺は大人に
はなれません」
「……」
「誰に認められなくても良いんです。俺は俺の為にやっている事なんですから、捕まっても誰にも責任を押し付ける気はありません。まあ、簡単に捕まるつもりなん
て無いですけどね」
彼の言葉を聞いていると、無性に哀しくなってくる自分を感じた。遣る瀬無い彼の気持ちと、そして反論出来ない今の警察の現状と、何の力も無い今の俺自身に。
沈黙している俺に、彼は何を思ったのだろうか? ふと笑った様な気がした。
「でもね、最初からそんな風に思っていた訳じゃ無いんスよね。最初は…ただ退屈な毎日が嫌で、刺激を求めて情報を集めていただけだった」
静かに告白する彼の言葉を、じっと聞き耳を立てて聞いていた。
「ある日どこかの掲示板で、ある企業に騙されて会社を潰された社長さんの文章を見つけたんです。それで、それはどんな企業なのかなって興味が湧いたんで、そこ
に書いてあった情報だけで調べてみたんです。元々パソコンには強い方だったから、調べるのは簡単でしたね」
「……何が判ったんだ?」
「日常になった恐喝と収賄。被害者が警察に訴えても、捜査は打ち切り。上層部にコネが有るから、安心してやりたい放題やってましたね」
「……」
「だから、ちょっと引っかけてみたんですよ。良い契約話を持ち掛けて、言い訳出来ない様にして、政治家の息がかかっていない新聞や雑誌に公表したんです」
「……」
「会社の信用はがた落ちしましたね。個人名も公表しておいたから、無関係の人が責任を取らなければならないなんて事にはならなかった筈です」
「どうして、それで満足しなかったんだ?」
俺の言葉に、彼は自嘲気味に呟いた。
「……確かに制裁は出来ました。けど、その掲示板で訴えていた社長さんは、既にこの世にはいなかったんです」
「……!」
「警察に裏切られた時、彼は絶望したんです。彼が助けを求めた時にしっかり応えてくれていたら、こんな事態にはならなかったかもしれないのに」
「青島…」
今にも泣きそうな声で、静かに彼は話す。他人の心の痛みを、自分の痛みに感じる事の出来る男なのだと思った。
「だから思ったんです。警察に裏切られた人が、一体この世にどの位いるのだろうかって。自分に出来る事は無いのかって思ったら、一番良い方法が今の形になった
だけなんです」
「…警察全てが信用出来ないと思っているのか?」
彼は傷ついている。他人の痛みを感じて、助ける事が出来なかった自分を責めて。警察に諦らめを感じて。
「警察官が、皆あんたみたいな人だったら良かったのにね」
「……」
「そうしたら、今の俺は必要無かった」
彼の哀しみが伝わってくる。本当は、彼も警察を信じたかったのかもしれない。
「……確かに、今の警察を信じろとは言わない。だが、いつまでもこのままでいるつもりはない。私は誰もが正しいと思える事が出来る警察にするつもりだ」
「…あんたなら出来るかもしれませんね」
「君も手伝ってくれないか?」
一瞬の沈黙。呆れているのだろうか。確かに馬鹿げた誘いだとは自分でも思っている。だけど……。
「楽しそうなお誘いだけど、幾ら俺だって、犯罪者が警察官になれない事位知っていますよ」
「……誰も君を知らないんだ。黙っていれば判らないだろう?」
「……あんたがそんな事言って良いんですか?」
呆れて彼はそう言った。だが、口調は柔らかくなっていて、僅かに笑いを含んでいたのが嬉しかった。傷付いた彼の心を癒す為に、出来る事なら抱き締めたかったけれども、……それは叶わなかったから。
* * *
「もう遅いですから、寝て下さい」
静かに、優しい声で彼が語り掛ける。
「君は?」
「勿論、俺はこのまま出て行きます。明日になればあんたの目は見える様になるんですから、いつまでも此処に居る訳にはいきません」
それは…そうだが。
「しかし、見える様になるのはまだ先なんだろう?」
「今日の朝5時頃…かな? 仕事には間に合うでしょ?」
彼の細かい配慮に感心する。ここが何処だかは判らないが、きっと彼の事だから職場から近い所なのだろう。
「……なら」
「?」
「もう少し、此処に居てくれないか? 今なら君の顔は見えないから、私の側に居ても良いのだろう?」
まだ、一緒に居たかった。少しでも長く。次なんて、もう二度と無いのかもしれないのだから。
「……何か企んでます?」
少し警戒した様な気配を感じた。それも仕方の無い事なのだが、やはり一抹の寂しさが込み上げてしまう。
「何も。……そうだな、企んではいないが、下心は有るな」
「下心?」
「そうだ」
見えない視界を凝らしつつ、手を伸ばす。指先が彼の肩(だと思われる)に触れたので、そのまま掌を上に滑らせる。顔の輪郭をゆっくりと撫でる。そのまま頬から
唇へと軽く触れる。顔を見る事が叶わないなら、せめて感触だけでも知っておきたい。彼の声と息遣いも。
青島は、俺にされるがままにじっとしていた。今迄は極力触れない様に側に近付く事さえしなかったのに、今は擽ったいのか時々身を捩ってはいるが、逃げる素振り
は見えない。
「…青島」
「何です?」
「キスしても良いか?」
「……はぃ?」
流石の彼も絶句した様である。同じ性を持つ、今は彼と敵対している立場にある警察官にそんな事を云われたら、驚愕するのは当然だろう。
「駄目か?」
「……あんたって、そういう気あったんですか?」
「有る訳無いだろう」
つい眉間に皺が寄ってしまった。
「何で、俺と?」
「おかしいか?」
「……おかしいでしょ、普通」
くすりと笑った様な気がした。嫌悪感は…とりあえず無かった様だが、もしかして本気に取られていないだけなのだろうか?
「青島」
返事を促す俺の両手を青島が掴み、彼の顔から外されてしまった。
やはり本気にとっては貰えなかったのかと思った瞬間、熱い息とともに唇が重なった。
「ん…」
いきなりの口付けに、自分で誘っておきながら、心臓が止まりそうになる程驚いた。だが、もっと彼を感じたくて深く唇を重ねると、彼の舌が口内に入り込んできた。舌を絡め取られて熱くなった身体は、貧欲に彼を求めて無意識に腕を彼の背中に回していた。
同情でも嬉しかった。今、この一瞬は、彼は自分を認めてくれているのだ。
それでも、これ以上を彼に求めてしまいそうになる自分を必死で抑えようと意識を戻す努力をする。一度開放してしまった気持ちはなかなか止まりそうになかったけれども、理性を総動員して走り出す気持ちを押さえつけた。
「室井さん、ちょっと…ヤバイんですけど」
唇を離して、彼が戸惑いがちに言う。
初めて、名前を呼んで貰った。ただ、そんな事が単純に嬉しかった。
それでもまだ足りないと、自分の心が叫んでいる。もっと、彼を感じたい。彼の全てを欲している自分を自覚する。だが。
「青島」
しがみついていた腕を離して、彼の胸に顔を埋める。側に居たいと心の底からそう願っても、一緒にいる事は叶わない。彼の為に、自分の為に、お互いの立場を考えない訳にはいかなかった。
――どんなに愛していても。
「こういうのも、色仕掛けって言うんでしょうかね?」
「……」
寂しさを冗談で紛らわそうとするかの様に茶化す彼を、愛しいと感じる。
「…もう、行かなくちゃ、ね」
「……っ」
嫌だ、と声にならない叫びが出そうになる。顔を上げて、見えない顔を見詰める。
「いつか…」
「え?」
「あんたの理想を叶えて、俺を……捕まえて下さい」
そう言って彼は俺から離れて、静かにドアの閉まる音がした。
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