** 温泉 3 **


ロープウェイを降りた室井は、吹き荒む風に身を竦ませた。

「うわ、流石に山の上は寒いッスね」

背中を丸めてぶるっと身震いする青島に、室井は僅か苦笑する。

「寒くないですか、室井さん?」
「いや、大丈夫だ」
「歩いていればそのうち暖かくなりますよね。行きましょう」

青島に即されて、二人は狭い売店内を通って道に出る。入り口で手に入れた地図を眺め、青島が先導して歩き始めた。

「ここ、結構広いみたいですね。神社や水族館迄ありますよ」
「そっか」

青島に返事を返しながらふと辺りを伺うと、周囲には家族連れやカップル等が仲良く散策していた。そんな穏やかな風景の中、自分達の存在に違和感を覚え、何となく室井は居心地が悪くなるのだった。

「あのな、青島…」
「室井さん、こっちに来て下さい。すっごく景観良いッスよ!」

そんな室井の様子に気付かず、青島は無邪気に小道を指差し、先に入って「早く早く」と室井に手招きをする。その様子があまりにも楽しそうで、室井は仕方ないな、と一つ溜め息を吐いて付き合う覚悟をした。
斜面に階段を作って簡単なベンチを置いただけ、と言う感じの場所だったが、眺めの良い位置と言う事でわざわざ作っただけあって、其処はとても景観が良かった。

「此処でちょっと休みましょう」

室井を座らせた青島は、何時の間に手に入れたのか、缶珈琲を二つポケットから取り出して、一つを室井に差し出した。

「ありがとう」

素直に受け取った室井は、その手にした温もりによって自分の身体が思ったより冷えていた事に気付いた。プルトップを開けて立ちながら珈琲を飲んでいた青島は、室井の視線に気付いてにやりと笑う。

「暖まるっしょ?」

子供っぽい仕種で得意気に言う彼の心遣いに、室井は身体と共に心も暖まる気がして僅かに微笑んだ。
そんな室井の表情に動揺し、青島は慌てて視線を風景に無理矢理方向転換した。直ぐ目の前の眼下には、今迄歩いていた道路脇にやはり見学用のスペースが有り、皆は其処で景観を楽んでしまう為、二人の居る場所には誰も訪れなかった。

「あ〜っ、やっぱこっちは空気が旨いッスね!」

わざとらしく伸びをしながらそんな事を言う青島の真意に気付かず、室井は穏やかな表情のままボソリと呟いた。

「秋田の空気はもっと旨いぞ」

ちょっと自慢気に言う室井に、青島は振り返って破顔した。

「秋田ッスか。室井さんの故郷ですよね。行った事は無いですけど、空気も水も旨いんでしょうね」
「米や酒もな」
「それは嬉しいッスね」

何時か彼の地に訪れられる日が来ると良いな、と思う。その時に、出来れば隣に彼が居てくれるともっと嬉しいのだが……とは、心の中でだけ呟く青島だった。

「そろそろ行くか?」

立ち上がる室井に青島は頷いて、二人は元の道へと階段を降りて行った。
暫く歩いていると、途中で水族館だと思われる建物が見えて来た。

「あれが先程言っていた水族館か?」
「あ、はい。随分と小さい建物ですね。入場も無料と書いてありますから、多分中身は水族館とは名ばかりの、両生類や爬虫類が何種類か居るだけでしょう」
「……そうなのか?」
「上野動物園でも水族館が園内にあって、昔入った事があるんスよ。そうしたら、魚は申し訳程度に水槽に泳いでいて、後は展示物や標本とかばっかりで、めぼしい生き物は爬虫類ばっかりでした。まぁ、魚って維持が大変ですから判るんですけどね、出来れば爬虫類館と名前を改名して欲しいと思いましたよ」

この男が動物園や水族館に興味を覚えるとも思わなかったので、室井は自然に眉間の皺が寄ってしまう。そんな彼の声が聞こえた訳では無いが、青島は言葉を続けて室井の誤解を解いた。

「今はどうなんでしょうね。俺が行ったのはもう20年も前ッスから、今は変わったかもしれませんけど」
「……」
「? どうしました?」

自分の誤解に気恥ずかしくなった室井は、誤魔化す様に歩く速さを速めて青島を追い越した。

「何処迄歩くつもりなんだ?」

ぶっきらぼうに言う室井に、青島は地図を見て道の先に見える赤い棒を指差した。

「彼所に神社があるらしいんで、ちょっと覗いて行きません? 折角だからお参りして行きましょう」
「別に構わんが…」

柄にも無い、とは青島本人も思ったが、もうちょっとだけ室井と外を歩いていたかった。こんな時でもなければ、彼とこうしてのんびり一緒に歩く等と言う事は出来ないだろう。そう思うと、無理にでも理由をつけて今の時間を延ばしたいと願うのは切ない男心って奴だろうか、等と勝手な事をぼんやりと考えている青島だった。
ロープウェイ乗り場から随分と離れた場所に有るその神社には、人気が全く無かった。鳥居から社迄の道筋に赤い枠の様な棒が立ち並び、それを潜って儀礼的にお参りをする。一緒に目を閉じて手を併せる室井の横顔を盗み見て、つい見蕩れてしまった。

「……何だ?」
「えっ、いえ!」

誤魔化す様に笑って元来た道を戻り始める青島の後を、室井もゆっくりと着いて行った。
神社から水族館迄は殆ど人が通らないんだな、と言う事をぼんやりと考えていた青島は、ふと隣を歩く室井をそっと見詰めた。そして何とは無しに視線を下に向けると、彼の指先が白くなっている事に気付いた。

もしかして…、かなり冷えて来ちゃったのかな。

自分の勝手で此処迄連れ出してしまった己の身勝手さを内心で罵倒し、室井の手を徐に掴んで自分のコートのポケットに潜り込ませた。そんな彼のいきなりの行動に、当然驚いた室井は慌てて手を引っ込めようとしたが、青島の手に強く握り締められていてそれは叶わなかった。

「青島っ!」

怒った様に睨んで来る室井に、青島は済まなそうな顔で言った。

「済みません、さっきの缶珈琲位じゃ暖まんないッスよね。こんな所迄付き合わせちゃって、室井さんに風邪をひかせちゃったりしたら俺、立ち直れないッス」

思った通り、氷の様に冷たくなった室井の手をぎゅっと握る。

「俺、体温高いから、直ぐ暖まりますよ」

そう言う問題じゃ無くだな、と言い返したかったが、口を開こうと青島の顔を見ると、真面目な顔で見返されてしまった。言葉に詰まった室井は、溜め息を吐いて力を抜いた。

「…好きにしろ。但し、人が居たら手を離せよ」

そっぽを向いて諦めた様に言う室井に、青島は「了解」と言って笑った。
本人の言った通り、青島の手は暖かかった。自分の手を包む彼の掌から伝わる体温に、室井は自分の動揺を抑えるのに必死だった。

こいつは単なる親切心でこんな事をしているだけだ。青島にとっては誰にでも出来る行動なんだ。だから、変な誤解をしてはいけない。

必死で自分に言い聞かせる室井だったが、次の彼の行動で室井は更にパニックに陥った。

「…っ!?」

室井の手を覆う様に握り締めていた自分の手を、あろう事か青島は絡めて来たのだった。振り返って青島を伺うと、困った様な顔で小首を傾げてお伺いを立てられてしまい、室井は自分の体温が更に上昇するのを感じて慌てて顔を背けた。

やっぱり、怒ったかな。

心配気に室井の横顔を見詰める青島は、繋がった彼の指先を軽く撫でる。すると室井の手はビクリと動いたが、それでも彼の手は離れては行かなかった。

相手が女の子だったら、これって脈有り?とも思えるんだけど……。今の相手は男で、室井さんだもんな。どう思われてんだか判んないよ。少なくとも気持ち悪いとは思われていないみたいだけど…さ。

困ったなぁ、と思いつつ、室井の一回り小さな滑らかな手の感触を堪能してしまう青島は結構良い性格だった。
自分より小さいとは言え、室井の手は男の手だった。丸みは無く、掌の皮も幾分厚めだ。だが、細く長い指に段々と体温が戻って来ると、肌の滑らかさが伝わって来て、青島の動悸は治まる所か速まってしまう。
そっと室井の様子を伺うと、顔を背けた室井の耳が赤くなっているのに気付いた。

……やっぱ、これって……。

「むろ…え?」

声を掛け様としたその時、いきなり室井がピタリと立ち止まり、絡められていた自分の手を青島のポケットから慌てて取り戻した。そんな彼の急な行動に呆然としてしまった青島は、前を歩いて来る仲の良い男女の存在を室井から視線で伝えられてようやく事態を把握した。

「あ、ああ、そっか」

人が居たからか。

そうは思ったが、急に離れた温もりに寂しさは消せなかった。落ち込んだ様な青島の表情に、室井は離れがたく感じていたのは自分だけでは無かった事を知る。

「ほら、そろそろ日も落ちて来るだろ。旅館に向かうぞ」

クルリと背を向けて歩き出す室井に、青島は慌てて追い掛けた。
先程のカップルとすれ違った後、追い付いて隣を歩く青島に向かって室井は小さく呟いた。

「お陰で手は充分に暖まった。ありがとう。後は旅館で身体を暖める事にしよう」

微笑を浮かべてそう呟いた後にスタスタを歩いて行く室井を暫し見送った青島は、かなり動揺しまくっていた。

後は旅館でって……、あ、お、お風呂でって事だよね、当然。

混乱して立ち止まったままの青島に気付き、室井は振り返って声を掛けた。

「どうした、置いて行くぞ?」

取り敢えず、勝負は旅館でだな、と決心した青島は、室井に追い付く為に走り出した。




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やっと次は旅館です! これで最後…になる筈?