** 温泉 4 **
タクシーにて目的地である旅館に辿り着いたのは、いい加減陽も暮れかかった時刻だった。
「へえ、なかなか風格有る旅館ッスね」
室井が受付をしている間、青島はグルリと見回して観光案内のパンフレットや飾られた美術品等を何とは無しに眺めた。そのままロビーを見渡すと、落ち着いた雰囲気の女性二人組と初老の夫婦がおり、自分達の存在に違和感が無い事を確認して内心胸を撫で下ろしていた。
目立とうが目立たなかろうが青島にとっては別段問題無いのだが、何しろ室井は気にする性質である。そんな事で折角の良い雰囲気を壊したくなかった。
「青島」
室井の声で現実に戻った青島は、従業員に案内されるまま部屋へと向かうのだった。
旅館の中を説明されつつ歩く二人は、しかし階段を昇ったり降りたりと迷路の様な通路に思わず顔を見合わせた。
「随分変わった作りの建物なんスね」
半ば感心する様に呟いた青島に、従業員は笑って頷いた。
「はい。階数は多くは有りませんが、広く土地を使っておりますのが当旅館の特徴です。建物の中だけで無く外にも渡り廊下が有りますので、どうぞそちらも御利用なさって下さい。お二人の宿泊なさる部屋は離れになりますから、こちらへは大浴場にお入りになる時とお食事なさる時等に御利用下さい」
「…離れ?」
「はい、こちらです」
説明された通り外へと続く廊下を暫く歩き、示されたサンダルに履き替えて緩い坂道を上る。生い茂った木々と細い道に「一体何処へ?」と二人は辺りを見回すと、道の先に小さな家が数件立ち並ぶ姿が目に入った。
その中の一つに案内された二人は、細かな説明を丁寧にして立ち去った従業員を見送り終わると、軽い緊張から開放されて深い溜め息を吐いた。
「何か…旅館って言うより別荘って感じッスね」
「…そうだな」
広いリビングの奥に更に広々とした和室が一室。趣味の良い絵が壁に掛けられ、テレビの横には本物の清楚な花が生けられている。窓からは見事な庭が見え、トイレは高級デパートだろうかと思う程贅沢にスペースを使い、広々としたバスルームの他に専用の露天風呂迄付いていた。
室井を招待する位なのだから立派な旅館なのだろうとは思っていたが、予想以上の規模に青島は内心目眩を起こしていた。
「静かで良いッスよね。隣の建物とも離れてるし完全に二人っきりって言うか…」
「……」
「……えーと…」
視線を外したままの室井の様子に失言だったかと一瞬焦るが、その横顔は穏やかだったので胸を撫で下ろした。
「じゃあお茶でも煎れますね」
接待でこの手の事には慣れている青島は、背を向いて手際よく準備し始める。その姿を、逸らされていた室井の視線が追っていた。
「はい、どうぞ」
「…ありがとう」
差し出された湯のみを受け取り礼を言うが、視線は青島を見詰めたままだった。そんな室井の様子に「何?」と青島が訪ねると、室井は慌てて「何でも無い」と言って再び目を逸らした。室井は沈黙したまま庭を見詰めていたが、今度は青島がじっと室井の姿を見詰めていた。
好意を持っている相手との会話が無くなると不安になったりするものだが、今は心地良く感じる事が出来た。それは室井が見ているのは庭であっても、関心は自分の方に向いていると青島には感じられたから。熱い視線を向けても振り返らないのは、気付いていないからではなく戸惑っているのだと、その横顔で判る……判ってしまう。
いつでもこの人を見詰め続けていたのだから。
「室井さん」
小さく名を呼ぶと、静かに振り返るその瞳は自分だけを映す。その時折見せる穏やかな表情は、自惚れでなくきっと自分だけに向けられているのだ。
―――思い違いなんかじゃない。
口元を緩く上げて、真っ直ぐに視線を向けたまま天気の話をする様に問い掛ける。ずっと心の奥に終い込んでいた想いを籠めて。
「室井さんって、俺の事好きでしょう?」
「………。……なっ!?」
一瞬何を言われたのか判らず、僅か間を見開いてその言葉を理解した室井は、慌てて「何を莫迦な事を」と強く否定しようとした。が、ふと我に返って自嘲的な微笑を漏らす。
…彼の言葉に振り回されてはいけない。
既に呪文と化した言葉を思い浮かべる。期待してはいけない、と己に言い聞かせ続けないと、直ぐに誤解しそうになってしまう都合の良い自分に最早呆れてしまう。
「ああ、好きだな」
束の間の逡巡の後何でも無い事の様に感情を切り離した様に言われ、青島は苦笑する。お互いの為には…いや、室井の為にはこれ以上踏み込むべきでは無いのだろう。そうと知りつつ、けれど日々強くなっていく“このままの関係では足りない”と叫び出しそうな自分の心を抑え込む事が、既に困難になっていた。ここで引き下がる訳にはいかない。
これ以上自分の気持ちを誤魔化し続ける等、青島には出来そうに無かった。
「そう言う意味じゃ無くって。俺の事、愛しているでしょう?」
「………っ」
今度こそ室井は大きく目を見開いて驚き、青島の顔をまじまじと見詰めた。真意を問うかの様にじっと睨み付ける室井の態度は予想していた反応だ。青島の気持ちに気付かない…気付こうとしない頑なな彼の態度は、信用を何度も失っている自業自得故だと苦笑を深める。けれどそれでも引き下がるつもりは今の青島には毛頭無かった。
「何故そう思う?」
「……」
「私がそう言う趣味の人間だと思っているのか?」
怒っている様な口調だが、今にも泣きそうな顔だと青島は思った。
――そんな顔をさせたい訳じゃない。
真っ直ぐ見据えて微笑む。…何よりも誰よりも愛惜しげに。
「いいえ。あんたも俺も、男より女の方が好きだと思いますよ」
「なら…」
「あんたは何とも思って無い野郎と一緒に温泉に来たりするの?」
「……」
反論出来ずに眉を顰める。
――来る訳が無い。男であろうが女であろうが、お前以外の誰とも。
「男同士で手を繋いでも、嫌がらなかったよね」
「あれはお前が…」
「俺の所為?」
意地悪く笑う青島に、室井の眉間に皺が寄る。
「……そう言うお前こそどうなんだ」
「俺?」
子供の様に嬉しそうに笑った青島の顔を怪訝そうに見詰める。からかわれているのかと悲しくなりかけた瞬間、青島の表情が一変して少年から男の顔に変わる。思わず見惚れる程の熱い瞳を向けられ、男の色気を含んだ微笑を浮かべたまま顔を近付けられた。
「あんたと同じに決まっているでしょう?」
そう囁いて、そっと軽く唇に触れられた。
「好きだよ、室井さん…」
「青島…」
触れるだけだった口付けが深まり、そのまま床に押倒された室井はうっとりと仕掛けていた意識を戻して目を見開き、慌てて青島の肩を押してその先へと進めようとし始めた手を止めた。
「ちょっ……ちょっと待てっ」
息を整えながらそう言った室井に、青島は不満そうな顔をした。
「何スか?」
「お…俺が下か?」
一瞬キョトンとした表情をした青島は、じっと睨み付ける室井の視線に「ああそっか」と呟き、少し困惑した顔で言った。
「室井さん、したい?」
「……えっ?」
「だから。…俺の事、抱きたい?」
「………」
一瞬想像したのか、複雑そうな表情をした室井に青島は苦笑した。室井も男だから、好きな相手を抱きたいと思っても不思議は無いだろう。だが今の段階では明確なビジョンは無い筈だと思えるので、意識が確定する前に許可を貰ってしまおうと考えている青島は元優秀営業マンでもあり、悪い男の見本でもあった。
「それもちょっと興味はあるけど…室井さん、やり方知らないでしょ?」
「お前は知ってんのか?」
ム、として言い返した室井の額に軽くキスをして、「一応は」と呟いた。
「知識はあっても初めてだから巧くは無いかもしれないけど…。でも出来る限り優しくするから…駄目スか?」
「………」
眉間の皺を濃くする室井に小首を傾げておねだりする。
「どうしても辛くて嫌だったら……その、交代しても良いッスよ」
全く触れられないと言うよりは良いかと妥協案を付け加えてみる。どうしても室井が欲しかったから。
「……本気か?」
「はい」
じっと見詰める青島の視線が何時に無く真剣で熱を帯びている事に気付いて、室井は戸惑いと羞恥心と押し隠していた欲望にどうして良いか判らず、静かに目を閉じた。
「……駄目?」
甘えるようにねだる青島の声に、背筋が痺れそうになる。室井は閉じていた目を開けて真直ぐに青島を見た。その眼差しに青島はドキリとする。
それは青島の大好きな、揺ぎ無い澄んだ瞳だったから。
「判った」
「良いんスか?」
嬉しそうな満面の笑顔を向けられ、室井はぐっと息を呑んで赤くなりそうな顔を僅かに背ける。
今更否定も出来ない。…する気も無い。想い続けて、けれど諦めかけていた相手が手に入るのだ。この際男として上司としてのプライドには目を背ける決意は出来た。がしかし。
「……此処ではその…」
「?」
言い淀む室井に青島は首を傾げる。鈍い相手に眉間の皺が深まってしまうのはいた仕方ないだろう。
「旅館の人に知られるだろ」
「……ああ」
成る程、と頷いて暫し考え込む仕草をすると、視線を彷徨わせた先に何かを思いついたらしい青島は、ニヤリと笑って室井に向き直った。
「だったら…」
「?」
「あっちでしても良い?」
「……っ!」
部屋に備え造られた温泉への扉を指差して許可を得ようとする青島に、室井の顔は見る見る真っ赤に染まった。
「お前っ…」
「だって……」
情けない顔をした青島は、室井の耳に切羽詰まった声で囁いた。
「もう我慢出来ません」
「!」
自己主張し始めたそれを身体に押し付けられ、室井の頭はクラクラとした。
「ねぇ…」
「…判った」
「良いの?」
「我慢出来ないんだろ!」
いちいち確認を取るなと自棄気味に言った室井に、青島は満面の笑みを浮かべて室井を抱き上げようとしたのだが、慌ててその腕から逃れようともがいた。
「何で逃げんの?」
「…自分で歩ける!」
莫迦にすんなと言いた気に睨み付けて、すっくと立ち上がった室井はスタスタと風呂場に向かって歩き始めた。そんな室井の後ろ姿を呆気に取られて見ていた青島は、ふと立ち止まって振り返った室井の視線に動揺する。
「来ないのか? ……待たせると気が変わるぞ」
室井の言葉に青島は慌てて立ち上がり、その様子を見た室井はクルリと背を向けてさっさと風呂場に入ってしまった。
「…男らしいって言うか…ちょっとムード無いかも…」
そう呟くが、顔はこれ以上無い位にニヤケきっていた。そして本当に室井の気が変わらない内にとばかりに、慌てて自分も風呂場に向かった。
そして数時間後
「えーっと…大丈夫ッスか?」
布団の上で痛みで声を失っている室井に、青島は心配気に顔を覗き込んだ。涙目で睨み付けられて、青島は頭を掻いて天を仰いだ。
「一応…お湯の中でだったら痛みも和らぐと思ったんですけど……やっぱ辛いッスか」
「………」
「その、やっぱ…交代…します?」
恐る恐る言った青島に、室井は眉間に皺を寄せたまま暫し睨むと、深い深い溜め息を零して小さく言った。
「……良い」
「へ?」
「こんな状態じゃ…被疑者を追う事も出来なくなるだろ」
どんな状況でも仕事の事を優先的に考えてしまう室井は、日頃街中を走り回らなくてはならない立場にある青島よりは動きが少なくて済む自分が犠牲になった方が良いだろうと結論付けていた。かなり不本意ながら、ではあるが。
「え……じゃあ?」
一気に嬉しそうな顔をした青島の頭をバキッと頭を叩いた。
「いってぇ〜」
「露骨に嬉しそうな顔すんなっ!」
「だって嬉しいッスもん」
殴られた頭を摩りつつ、全開の笑顔でそう答えた。溜め息を吐いた室井に、青島は「精進しますからこれからも宜しくお願いします」と言って再び殴られた。
何時か仕返ししてやる、と呟いた室井の言葉に苦笑いしつつ、互いにどちらともなく顔を近付けキスをした。
END
|