** 温泉 1 **
廊下を歩いていた青島は、喫茶室の椅子に座る一つの人陰に気付いて足を止めた。久し振りに見る彼の姿に見えない尻尾を振り掛けたが、親の仇を睨みつけるかの様にじっと手許の用紙を見詰め続けている彼のただならぬ様子に、僅か首を捻る。そのあまりの真剣な様子に声を掛けて良いのかと逡巡したが、あっさりと好奇心の方が勝った青島は彼にゆっくりと近付いて行き、呑気に声を掛けていた。
「何見てるんですか?」
「……っ!」
集中していて気がつかなかったのだろう、そのらしかぬ慌て振りに思わず出そうになった笑いを堪えながらも、さり気なく彼の手許の紙に素早く視線を走らせる。其処にはB6サイズのパンフレットとチケットらしきモノが広げられていたのだった。
「伊伊奈温泉?」
青島の言葉に反射的に慌てて用紙を伏せてみる。が、しっかりと読み上げられている今の状態では、その行動は無意味極まりなかった。
「何で君が此処に居るんだ」
焦りながらも何とか平静な口調で訊ねる彼に、取り敢えず隣の席に座っても良いかと目線で許可を貰ってから腰を降ろし、努めて軽い調子で答えた。
「課長に頼まれて、急ぎの書類を届けに来たんです」
「…だったらさっさと行かないか」
何処となくバツの悪そうな表情で視線を泳がしながら言う彼に苦笑し、頭を掻きながら青島は言った。
「もう終わったんスけど」
「なら、…早く署に戻りたまえ」
「……少し位話をしたいんスけど、駄目ですか?」
動揺を抑える為に素っ気無い口調で返した彼は、上目遣いでお伺いを立てるかの様に見詰めて問い掛ける青島の視線に、僅か居心地の悪さを感じていた。がしかし、元来意地っ張りな彼は「何だ」と言いた気につい睨み返してしまう。そんな不器用な彼を安心させる様ににっこりと笑い、だが控え目に且つ誤魔化し出来ない様な口調で、多分彼が一番聞かれたく無いだろう先程の件を訊ねていた。
「室井さん、温泉に行くんスか」
「え。…いや、これは」
いきなり本題に戻られ、再び室井は動揺する。そんな滅多に拝めない彼の様子を、青島は内心興味深気に見詰めていた。そして己の湧き出た内心の複雑な感情を押し込めて、何気ない口調で明るく話を続けた。
「良いッスね〜。温泉なんてリーマン時代以来行って無いッスよ、俺」
無邪気な笑顔で羨ましそうに言われた室井は、眉間の皺を寄せてじっと青島を見詰めた。そして、徐にずいっと手に持っていたチケットを彼に差し出した。
「……だったら君が行って来てくれ」
「へっ?」
いきなりの室井の台詞と行動に、青島は目が点状態になり、次いで慌てて両手をばたばたと振って否定した。
「えっ、そう言う意味じゃ無いッスよ! 何言ってんスか」
そうじゃ無いでしょ、俺はアンタが誰と行く気なのかと聞きたいんだよっ!と心の中で叫んでいたが、鈍感な室井がそんな事に気付く筈も無かった。
「行きたいんだろう?」
何故か不機嫌な口調で訊ねる室井に、困り果てた青島はぼりぼりと頭を掻きつつ拗ねた様に呟いた。
「そりゃ、行きたいな〜とは思いますけど、それは室井さんのチケットでしょう」
「処理に困っていた所だ。君が行って来れば無駄にもならないだろう」
「む、無駄って……」
思ってもみなかった展開に、青島はつい口籠ってしまった。室井はそんな青島を一瞥し、軽い溜め息を吐いて言った。
「此処の所忙しくて非番の日も仕事をしていたら、上から少しは休めと無理矢理押し付けられたんだ。一人で行っても仕方無いし、第一そんな暇は私には無い」
だからお前が行って来い、とばかりに再びチケットを差し出して来る室井に、青島は真剣な面持ちで反論した。
「だ、駄目ッスよ、そんなの! 折角上から休めって言ってくれてるんですから、こういう時位休んで下さいよ」
「そう言う訳にはいかない」
「あのね、そんなんじゃ何時か倒れますよ、アンタ」
「倒れるか、この位で」
押し問答になってしまった青島は、ついうっかりと自分にとって限り無く不本意な事を口に出してしまっていた。
「良いじゃないスか、こういう機会の時に普段会えない恋人でも誘って出掛けるってのも良いもんですよ」
「……恋人なんかいるか」
「……」
何故か微妙に傷付いた様な表情で呟いた室井の台詞を聞いて、青島は一瞬動きが止まってしまった。実は己の失言が、上手い具合に自分にとって思い掛けなく嬉しい情報として手に入れられ、思わず笑みが零れそうになったのだが、その込み上げて来る喜びを表に出さない為に必死に無表情になっていたのだった。だが、室井にはその表情が呆れている様に感じられて、ついきつく睨み付けてしまう。
「何だ?」
「いえ…」
空惚けてあらぬ方向に視線を向ける青島に、室井も己の気持ちとは正反対の台詞を不貞腐れた調子で言っていた。
「だったら君が恋人と行けば良いだろう」
「俺も恋人なんかいませんよ」
「……」
即答で答えた青島を、不審気に見てしまうのは致し方無い事だろう。
「何スか、その目」
「別に…」
今度は室井がそっぽを向いてしまう。
「ちょっと、室井さん?」
「なら、誰か誘えば良いだろう。……君が誘えば、恋人でなくとも一緒に行ってくれる人間は幾らでもいるだろう」
視線を反らしたまま苦々しく言う室井に、青島はじっと見詰めてぼそりと呟いた。
「じゃ、室井さん一緒に行きません?」
「…何?」
目をまん丸くして振り返った室井に、吸い込まれる様に見詰めたまま真剣な表情で頷いた。思いも寄らなかった提案に、反応が遅れた室井の様子をじっと見詰めていた青島は、らしく無い弱気な口調で問い掛けた。
「俺となんかじゃ嫌ですか?」
「えっ…」
「そうですよね、やっぱ役不足ッスよね」
はは、と苦笑いを浮かべた後、下を向いて情けなさそうに呟く青島の様子に、今度は室井が慌ててしまう。
「そう言う訳じゃない。只……」
「只?」
「君の方が迷惑じゃないのか?」
「何で?」
顔を上げて、キョトンとした顔で聞き返す彼に、室井は戸惑いがちに言う。
「私なんかと一緒に行っても退屈なだけだぞ?」
「そっスか? 結構楽しそうだと思ってますけど」
「……」
結構所か、かなり楽しみだったりするんだけど…とは心の中でだけ呟いてみる。そんな青島の心を知らない室井は、まだ複雑そうな面持ちで考え込んでいた。折角のチャンスをふいにしたくない青島は、にっこりと笑って勝手に話を進めた。
「じゃ、室井さんの予定を教えて下さい。俺の方が合わせますから」
「……」
本気か?と問う様な視線を送る彼に、駄目押しをする。
「俺、楽しみにしてますから。予定が決まったら連絡下さい、待ってます。じゃ、俺そろそろ署に戻りますね」
返事を待たずに立ち上がった青島に、室井が慌てて声を掛けた。
「あ、青島!」
「…何スか?」
やっぱり駄目かな、と内心がっかりしつつも平静な顔で室井を見詰める。
「…いや、その……」
一瞬戸惑った顔をして俯いた室井だったが、直ぐに真直ぐ視線を返すときっぱり言った。
「判った。後で連絡する」
「はい!」
本当に嬉しそうな笑顔になって元気に返事をして去って行く青島を見送った室井は、ゆっくりと手許に視線を移してチケットをじっと見詰めた。
「…これは、社交事例と言う訳じゃ無い様だな」
青島が聞いていたらがっくりと項垂れただろう台詞を小さく呟き、それでもチケットを大切そうに封筒にしまい込む彼の表情は僅かに笑みを浮かべていた。
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