いつも静かな病院内に、やけにガヤガヤと賑わう部屋があった。その部屋には大勢の人が所狭しと集まっていて、たまたま通りかかった廊下を歩いていた人々も、何事かと思って足を止めて部屋を覗き込んで行く。
「青島さんがいなくなると寂しくなるなぁ」
「元気でな」
ベッドの上で寝ている老人達に握手をしながら、青島は一人一人に丁寧に別れの挨拶を交わしていた。
「うん、伊藤さんも佐藤さんも元気でね。今度はお見舞いに来るよ」
「見舞いなら歓迎だけどよ、又無茶して戻って来んなよ」
「あ、それ酷いッスよ」
他の部屋から態々別れを言いに来た恰幅の良い親父に突っ込みを入れられ、青島がムクれて文句を言うと、途端にどっと笑いが起こった。周りに「大事にな」と言われて苦笑しつつも青島は笑顔を返した。
「先輩!」
青島を迎えにやって来ていた真下は、彼が面倒臭がってやっていなかった退院手続きをやらされる羽目になっていて、やっと終わって戻って来た時のこの有り様を見て呆れ返って呟いた。
「先輩の周りって、何処に行っても人集りが有りますよね」
「人気者だからじゃない?」
「……帰りましょうか」
真下は軽く溜め息を吐いて、青島から少ない荷物を受け取り、待たせていたタクシーに向かってさっさと歩いて行った。
* * *
「お、青島君」
「青島さん!」
刑事課の部屋に向かう青島に、すれ違う人皆が振り向いて声を掛けて来て、それを律儀にも全員に笑顔で返事をしながら歩く様子を、後ろから着いて歩いている真下は羨望の眼差しで見詰めていた。
青島が刑事課のドアを一歩踏み入れた瞬間。
パパーン!!
いきなりクラッカーの音が鳴り響き、目を丸くして驚いている青島の頭の上に、はらはらと紙吹雪が舞い落ちた。
「お帰り、青島君」
クラッカーを片手に持ったすみれがにやりと笑って言う。
「お帰なさい、青島さん」
続いて雪乃がにっこり笑顔を向けて迎える。
「もっとゆっくり入院してても良かったんだけどね」
苦笑いしながら言う袴田課長に、青島も苦笑を返す。
「沢山書類溜まってるからね、覚悟してよ青島君」
どん、と青島の机の上に山となった書類を乗せながら魚住が言った。
「…はは」
引き攣った笑いを返しながら、取り敢えず気を取り直して、青島は皆に向かって軽く敬礼した。
「青島巡査部長、只今戻りました」
その一言で、部屋中の皆が拍手をして彼を歓迎した。苦い顔をしていたのは袴田課長と秋山副署長と、騒ぎを嗅ぎ付けて何時の間にか入って来た神田署長の3人だけだった。
「あれ、和久さんは?」
「先輩がいなかった間働き過ぎて、又腰を痛めちゃったんですよ。今日先輩の退院する日だからって無理して来ようとしてたんですけど、止めておきました」
「そっか。じゃあ、今度は俺がお見舞いに行ってあげようかな」
「そのままお見合いさせられたりして」
後ろからさらりと恐ろしい事を呟くすみれの台詞を聞かなかった事にして、青島と真下は黙って席に座った。
山と積んだ書類に溜め息を吐いて、青島はついぼやいてしまった。
「こんなに沢山の書類、俺一人でやるの?」
「それでも減った方ですよ。副総監の事件の書類、全部すみれさんが書いてくれたんですから」
「すみれさんが?」
「そ、感謝してね」
「……何奢るの?」
「『とんぺい』の特上ロース定食」
「……『並』じゃ駄目?」
「駄目」
にべも無いすみれの台詞に、青島は我が身の不幸を嘆いて机の上に突っ伏した。
一一一プルルルル
「はい、湾岸署です」
軽い音を立てて鳴った電話をワンコールで取った雪乃は、「すぐ行きます」と返事をして受話器を置き、周りを見て言った。
「お台場の駅で傷害事件が発生したそうです。高校生位の男性二人で、今駅員の方が取り押さえて下さってますので現場に迎えに行ってきます」
その台詞を聞いて、青島はがばっと身を起こして言った。
「雪乃さん、一人じゃ無理だよ。俺も…」
「先輩は暫く書類書きって課長命令が出てます。雪乃さん、僕が一緒について行きますから安心して下さい」
雪乃を連れ立って出て行く真下を恨めしそうに見送った青島は、「あいつが行ったって大して役に立つ訳無いじゃん」と至極尤もな言葉を零して、周りの人間は無言で一斉に頷いた。
「残念ね、青島君」
すみれがからかう様に言い、青島は八つ当たり気味に睨み付ける。
「こりゃ、失敬」
笑いながらも、ふと思い出した様にすみれは青島に質問した。
「そういえば青島君、室井さんには退院の話はしたの?」
「え? あ、うん。携帯の留守電に入れといた」
「留守電?!」
あっさりと答える青島の台詞に、課長が驚いて声を張り上げた。
「そりゃ、不味いよ青島君」
魚住が神妙な顔つきで言った。
「何で?」
「あれだけお世話になっておいて、報告を留守電で済ますなんて、そんな失礼な事しないでちょうだいよ」
電話を掛けようと受話器を上げた課長に、青島は慌てて席を立ち、「良いですよ」と言って課長の手から受話器を奪って止めた。
「室井さん忙しいんですから、俺なんかの事でいちいち煩わせても迷惑じゃないッスか。その内又、俺から連絡しておきますから」
青島のその台詞に、課長は完全には納得出来ない迄も電話をする事は諦めた様で、それを見た青島はほっと息を吐いて席に戻った。そんな青島の行動をじっと見詰めていたすみれは、「よし!」と気合いの入った声を出して、くるりと青島の方に身体を向けて言った。
「青島君、来週の金曜日有休とって」
「……はぃ?」
「あたしもその日休みなの」
「…何で?」
訳の判らない青島に、にっこり微笑んで(何か企んでいる時の笑顔で)すみれは言った。
「有休とってデートしようって言ったの青島君でしょ」
「……あ」
今、初めて思い出したと言わんばかりの表情を浮かべた青島に苦笑いしながらも、すみれは容赦無く言葉を続けた。
「今迄の分、たっぷりお返しして貰うから覚悟しておいてね?」
にんまりと笑うすみれに、青島はヒクつきながら無駄な抵抗をしてみた。
「俺、今迄休んでて給料入って無いんだけど」
「カードで支払って、これから働けば良いでしょ?」
「でも、課長が休みをくれるかどうか…」
半分泣きそうになった青島は、課長に助けを求め、縋る様な瞳で見詰めたが、肝心の課長はその隣で睨み付けるすみれの視線に負けてしまっていて、振り子の様に何度もコクコクと頷いていた。
「許可、出たみたいよ」
「……」
「全部セッティングしておいてあげる。さ〜て、何処に行こうかな♪」
鼻歌を歌いながら雑誌を取り出すすみれに、青島は止める事すら出来ないで固まっていた。すみれはふと視線を青島に向けて、じっと睨んで宣言した。
「逃げたら射殺するわよ」
バン!と手で銃を打つ真似をし、止めをさされた青島はバッタリと机に突っ伏したまま動けなくなった。残る署員は青島に同情の視線を寄越したが、君主危うきに近寄らずとばかりにそそくさとその場から離れてしまった。
* * *
「ん〜、やっぱりココの料理、噂通り美味しいわね」
一日中すみれに付き合わされた青島は、へとへとに疲れ果ててはいたものの、満足気にディナー料理を堪能している姿に苦笑しながら、自分もゆっくり食事を味わう事にした。
すみれの意向を忠実に守って、普段の姿を思い浮かべる事が難しい程きっちりとした姿で青島は待ち合わせの場所に現れた。すみれも何時もの格好よりも数段女らしい服装で現れて、二人で町中を歩いていると周りが必ず振り向いてしまう程一目を引き捲っていた。
「それで? この後の御予定は何ですか、お姫様」
今日はとことん付き合ってやろうと開き直ってはいた青島だが、次のすみれの台詞には流石に仰天した。
「このホテルの最上階に泊まる」
「え…?」
「ほら、もうチェックイン済み」
チャラ、といつの間に手続きをしたのか、彼女の手にはホテルの鍵が収まっていた。
「ココ一度泊まってみたかったのよね」
「ちょ、ちょっと、すみれさん?!」
慌てて立ち上がりかけた青島を、すみれはジロリと睨んで黙らせた。
「誤解しないで。泊まるだけ。何も一緒に寝るなんて言ってない。ちゃんと部屋もツインにしておいたわよ」
「だけど…」
「今日はとことん付き合うって言ったでしょ? 今更嫌だなんて言わせない」
強い瞳で睨まれて、青島はそれ以上文句を言う事が出来なかった。
* * *
「先行ってて」
そうすみれに言われて鍵を受け取った青島は、部屋に入った途端後ずさりしてしまった。昔は彼女がいた頃、よくホテルに泊まったりしてはいたが、こんなに立派な部屋に泊まった記憶は、残念ながら一度も無かった。
「此処って…高いんだろうなぁ…」
泣きそうな気持ちで溜め息を吐いた彼は、そのままふらふらと窓に近付きカーテンを開け、眺めのすこぶる良い夜景をぼんやり眺めていた。
勢いでここまで来ちゃったけど、やっぱりこれは不味いよな〜。すみれさんは「ただ一緒に泊まるだけ」なんて言ってたけど、幾らベッドが別々だからって、この年齢の男女が同じ部屋に泊まるってのは問題有るよ。誰かに知られたら絶対誤解されるだろうし、そうなったらすみれさん困るじゃんか。それに俺だって…。
「…え」
ちらり、と青島の脳裏に浮かんだのは、眉間に皺を寄せて睨みつける、大きな瞳をした小柄な人。『何で今、あの人を思い出すんだ?』と不思議に思ったが、頭を振って一息吐き、気を取り直して呟いた。
「やっぱり、帰ろう」
踵を返してドアに向かおうとした青島は、急に響いたノックの音にビクリとした。
「は、はい」
慌てて近寄り、ドアの前で一度深呼吸をしてからノブを回し、彼は勢い良く身体を90度に折り曲げて謝った。
「すみれさん御免! やっぱり俺悪いけど帰…」
「……青島」
「え?」
体勢を元に戻した青島は、目の前に立っている人物を確認して固まってしまった。
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