棋聖再降臨 幽霊編 5




(私はあの者ともう一度対局したいです)
「……」

ヒカルの生涯のライバルがアキラなら、佐為のライバルは塔矢行洋その人なのだろう。
佐為の願いを無下には出来ず、仕方なくヒカルは塔矢家に向かう。アキラの家には数年前に社と北斗杯に向けて合宿した時に訪れただけだったが、あの時散々迷った甲斐あってか、今回は地図も無いのに無事すんなりと辿り着く事が出来た。
玄関にて呼び鈴を鳴らし「ごめんください」と少々遠慮がちに声を掛けると、暫くして塔矢の母明子が出迎えた。

「あら、進藤君こんにちは。折角来て頂いたのに、残念ながらアキラさんはまだ帰って来ていないのよ」

当然、ヒカルが用のあるのはアキラだろうと思った明子に申し訳無さ気にそう告げられ、それに対してヒカルは慌てて否定する。

「いえ、えっと…用事があるのは塔矢…息子さんの方じゃなくって、塔矢先生の方になんですけど」
「まあ。ええっと、少々お待ちになってね」

パタパタと奥に消えていく明子を見送ったヒカルは、我知らず張っていた肩を下ろしてホッと息を吐く。ヒカルは内心アキラが不在で良かったと胸を撫で下ろしていたのだが、そんな事を知らない佐為は隣で不思議そうに首を傾げて見詰める。

いつか話すかも、と言いつつ話し出すタイミングが付かず延び延びになり、結果こういう状況になってしまった。それならば真っ先に紹介するのが筋と言うものだったが、佐為の件に対するアキラの態度はヒカルにとって何となく苦手…と言うか時々怖いと感じる事があった為(それも自業自得だったのだが)、出来れば避けたいと思っているのが本音だ。かなり勝手な話だが、父親の行洋に話しておけば必然的に息子であるアキラにも話が通るから説明しなくても良いだろう等と甘い考えをしていたのだが、はっきり言ってそんな事態になれば余計アキラの機嫌を損ねるとは想像もしないヒカルだった。
そんな己の危機を他所に、幾ら息子と競い合うライバルとして現在は自他共に認知されている立場とはいえ、果たして気軽に面会に来てあの塔矢行洋に会う事が出来るのだろうか?と、ヒカルは今更ながら不安に駆られていた。

「やっぱ、来る前に連絡しといた方が良かったかな…」

弱気なヒカルの発言に、佐為も眉をハの字に下げて首を傾げる。

(やはり無理でしょうか?)
「んー。今日は無理かもしんねェ。…ほら、そんな顔すんなって。今日は無理でも、又今度会いに来てやるから」
(ホントですか?)
「ホントホント」
(ヒカル、大好きv)
「……」

他意は無いと判っていても、思わず真っ赤になってしまうヒカルだった。
少し間があってから明子が再び現れ、呆気無い程すんなりと行洋の元へ案内をしてくれた。

「君が私に用事とは珍しいな」

客間にて碁盤を前にしてヒカルに声をかける行洋は、その後ろに控えて姿を現した佐為を見ると驚きに目を見開いた。
今の佐為の姿は伊角達によって選ばれた現代の服を着ている為、そんなに違和感は無い筈だった。目立つ容貌をしている佐為だったので、なるべくシンプルに目立たない様にと無難な白シャツとベージュのパンツという格好を選び、長い髪は後ろで三つ編みにしていた。それでも整い過ぎた容姿は人目を引いてしまっていたが、見た瞬間驚かれるというのは初めてだった。それもその筈。行洋が驚いたのは佐為の姿では無く、気配であり存在感だったのだから。

「……その気配。貴方は」
「お初にお目にかかります。私は藤原佐為と申します。以前合間見えた対局は、今でも私の心に素晴らしい一局として刻まれております」

静かに話す佐為の言葉に、行洋は目を細める。疑うまでもなく、今目の前にいるのはあの『sai』だと、行洋は本能で確信していた。自分の予想が間違っていなかった事に満足し、そして願いが叶った事に喜びを覚える。

「私はあの時から貴方との再戦を心に期していたよ。だが、こうして会いに来てくれるとは思わなかった。それは貴方も私と同じ気持ちだったと解釈して良いのだろうか」
「ええ。私も貴方ともう一度対局したいと思っておりました」

凛とした表情、薄っすらと微笑みさえ浮かべて言葉を交わす佐為を、ヒカルは複雑な気持ちで眺めていた。
自分と同等、若しくは上の棋力を持つ者と打ちたいと望むのは誰でも一緒だろう。自分もその例に漏れず、アキラと打つ時いつもワクワクしている。
しかし、佐為にとって行洋との対局は、ヒカルとアキラのそれよりもっと強いかもしれない。

佐為は恐ろしいまでに強い。遥か高みから打つ時でも佐為は楽しみ、相手を侮ったりせずただひたすら打てる事を素直に喜んでいたが、心の中でずっと欲していただろう。息もつかせない程緊張する、自分と同等の強さを持つ対局相手を。
初めて塔矢行洋を見た時から、佐為は彼を特別視していた。

悔しかった。
羨ましかった。
そんな風に、佐為に見て貰える彼の存在が。

そしてこれは嫉妬なのだと自覚する。
ありとあらゆる彼の全てを独占したいと思っている自分自身を。

「一つ、質問しても宜しいか?」
(はい)
「貴方は…何者だ? 神か?」
(…え?)
「はぁ?」

一瞬、ヒカルと佐為は何を言われているのか理解出来なかった。冗談を言っているのかと思ったが、そんな顔にはとても見えないし状況にも無理がある。

(いいえ。私は人間です。……人間でした、と言った方が正確でしょうか)
「佐為」

自分を卑下する様な発言をする佐為に、ヒカルは思わず声をかける。行洋は、目を伏せてしまった佐為を黙ってじっと見詰めた。

(私は千年前の平安時代に帝の囲碁指南として生き、死後虎次郎…本因坊秀策に手助けを乞い碁を打ち続け、今はヒカルの元に居させて頂いている幽霊です)
「……幽霊」

僅かに表情を動かして驚く行洋だったが、恐れの色は窺えなかった。その様子に幾分心が軽くなった佐為は、小さく頷いて言葉を続ける。

(はい。私の姿を見る事が出来るのは僅かな人間だけだったので、その者に助力願いとり憑かせて貰っていたのですが、何故か今回は多くの人に私の姿が見える様なので少々戸惑っている所です)
「それは…」
「失礼致します」

言いかけた言葉を止め、一同は声のした方へ視線を向ける。そこにはそっと襖を開けてお茶を盆に乗せた明子が部屋に入って来た。湯飲みは二人分しかない。

「明子? 一つ足りないと思うが」
「え? アナタと進藤君の分二つで宜しいのではなくて? 私は頂きませんし」
「いや、そうではなく…」

説明しようとしてはっとする。明子の視線は佐為を素通りしていた。つまり、明子には佐為が見えないのだと言う事を、声に出さずに行洋は納得した。

「いや、何でもない。すまないが、もう一つ余分に茶を煎れてくれないか」
「? ええ、少々お待ちになってね」

首を傾げながらも再びお茶を煎れに席を立つ明子を見送ると、行洋はまじまじと佐為を見詰めて溜息を吐く。

「成る程。キミの言う事に嘘は無い様だな」
(……私が恐ろしくは無いのですか?)

不思議そうに問う佐為に、行洋は静かに笑みを漏らす。

「碁を打つ者に悪い者はおらんよ。それにとり憑かれている進藤君が恐ろしいと感じていないのに、私がとやかく言う問題ではなかろう」
「塔矢先生」

行洋のその言葉は、真実を告げる事を迷い続けていたヒカルの胸を打った。佐為の存在を認めて欲しいと思っていたのは当然だったが、ヒカルの存在ごと許容して貰える事がただ素直に嬉しかった。

「千年か。気の遠くなる歳月囲碁を想い続け、不自由な環境の中打ち続けていたキミは尊敬に値する。キミは只の幽霊などではなく、正に囲碁の神であると私は思う」

真っ直ぐに敬意をこめて見詰められ、佐為は目を大きく瞬いて驚き、戸惑った様に視線を彷徨わせると苦しげにその瞳を静かに閉じた。

(そんな…大それた者ではありません。私は只の囲碁好きな幽霊なだけです。碁を打ちたいと言う念だけで存在し、過去虎次郎の人生を奪い、今又ヒカルにまで迷惑をかけ続けているのですから…)
「迷惑だなんて言ってねェだろ」

自分の存在を否定しかける佐為に対して、ヒカルはムキになって弁護する。そんな二人を見詰めていた行洋は、数年前の北斗杯での楊海との言葉を思い出す。

     『sai』が秀策の亡霊だったら、何の為にこの世に現れたんだろう?
     私と打つ為だよ

神の一手を極める為に、千年もの長い間幽霊となって囲碁を愛し求め続けていた佐為の想いに、相対出来る者である事を誇りに思う。

     進藤君と私は同じなのかもしれない
     『sai』の強さを追っている

「一局手合わせ願えるだろうか」

行洋の問い掛けに、ヒカルと佐為は顔を向ける。佐為は「勿論です」と言いかけて、困った視線をヒカルに向けた。





「お帰りなさい、アキラさん」
「ただいま、お母さん」

玄関で明子が息子を出迎える。アキラも戸を閉めて靴を脱ごうとし、そして其処に見知らぬ靴が二足並んでいる事に気付いて首を傾げる。

「あれ? 誰か来てるの?」

息子の疑問に、明子は鞄を受け取りながら笑顔で答えた。

「ええ。進藤君が来てるのよ。お父さんに用事があるとかで、今話をしているわ」
「進藤がお父さんに会いに?」

自分では無く何故父に?

ヒカルの行動を怪訝に思い、考えを巡らす。

ヒカルは以前、行洋が入院した時見舞いに来ていた。そしてその後行洋は『sai』とネット対決をしたのだ。それについて行洋もヒカルも何も言わなかったけれど、繋がりは必ずある筈だとアキラは確信していた。
それならば、今回のこれも何か意味がある筈。

アキラは母の横をすり抜け、早足で客間へと向かった。





佐為の戸惑いを察したヒカルは、気にするなと言外に込めて笑う。

「良いよ、オレが…」
「今迄二人で打っていた時はどうやっていたのかね」
「え?」

突然の行洋の問い掛けに、ヒカルは驚いた顔で振り返る。

(私が指し示した場所に、ヒカルが代わりに打っていてくれておりました)

佐為が素直にそう告げると、行洋は頷き、二人が耳を疑う様な事を提案した。

「では私も、貴方が示した場所に私が石を置くと言う形で宜しいか」
(…え)
「塔矢先生が?!」

二人の驚き様も行洋は意に介した風も無く、あっさりと頷いた。

「相手の石を置く位、私にも出来る。進藤君の手を煩わせる事も無かろう。なに、棋譜並べだと思えば良いのだろう?」
「そ、そりゃまぁそうだけど…」

ふと佐為を見ると、佐為は再び困った様な顔でヒカルを見詰めていた。今度はどうしたのだろうと首を傾げて彼の手元を見ると、いつも手にしている扇子が見当たらなかった。

「あれ? 佐為、扇子は?」
(あれはヒカルにあげてしまったので、今は持って無いのですよ)

苦笑してそう告げる佐為に、ヒカルは驚いて声を上げた。

「あれって……夢じゃなかったのか?!」
(夢ですけど、夢ではありません。ちゃんと私がヒカルにあげたのですよ。疑っていたんですか?)

拗ねた様にそう言う佐為に、ヒカルは慌てて弁解する。

「え…いや、その。信じてたけど、…オレの都合の良い想像だったのかなって思う事もあったから。だって夢だったし、起きた時当たり前だけど何も持って無かったからさ」

わたわたと言い訳する彼に、佐為は苦笑してヒカルの胸をそっと指差した。

(あれは今はヒカルの心の中に存在しているんですよ)
「そっか。あ、じゃあさ」

ごそごそと自分のリュックからいつもの扇子を取り出すと、佐為に差し出した。

「これさ、あの後オレが棋院の売店で買ったんだ。あれは夢だったけど、やっぱり何か形が欲しくって。それからずっと持ち歩いてる。対局の時はいつも持ってるんだぜ。オマエが側に居るみたいで安心するから」
(ヒカル…)

驚いた一瞬後嬉しそうに微笑む佐為を見て、ヒカルは自分の言った台詞に照れて、誤魔化す様に慌てて扇子を持たせる。

「ほら、それで塔矢先生に石を置いて貰えよ。……ホントはさ、今オマエが存在するんだから貰った扇子はオマエに返した方が良いんだよな」
(いいえ、あれはヒカルにあげたのですからヒカルが持っていて下さい。でもありがとう。これ、お借りしますね)

二人のやり取りを穏やかな眼で見詰めていた行洋に向かい直し、佐為は居住まいを正して碁盤の前に座る。

(では、お願いします)





客間に辿り着いたアキラは、戸を開けると対局を眺めていたヒカルと目が合った。

「し…」

声をかけようとして、踏み止まる。
ヒカルの他に、父親である行洋ともう一人の人物が碁盤を挟んで座っていた。二人は対局を始めていたが、何故か黒と白両方の碁笥が行洋の手元にあった。
行洋が一子を置くと、相手が手に持っている扇子で一手を指し示す。其処に行洋が又一子を置いて、と繰り返す様を見て、アキラは怪訝そうな顔をする。
ヒカルは立ち上がってその場を離れると、アキラの側に歩いて来て部屋を出る様促した。アキラは黙ってヒカルの後を着いて行く。
暫く歩いてから、アキラは痺れを切らしてヒカルに問い詰めた。

「キミは一体何故お父さんに会いに来たんだ? あの人は誰なんだ? 何故、お父さんと対局しているんだ?」

続け様に質問され、ヒカルは呆れ返った顔で溜息を吐くと、「相変わらずだな」と苦笑した。

「あのな、質問は一つずつ言えよな」
「進藤!」
「まず最初の質問の答え。…アイツが塔矢先生に会いたいって言ったから連れて来たんだ」
「何故お父さんに?」
「二つ目。アイツの名前は『藤原佐為』。……ネットの“sai”だよ」
「“sai”?!」
「んで三つ目。アイツがもう一度塔矢先生と対局したいって言うからさ。先生も打ちたかったって言ってくれたから、さっき打ち始めたんだ」

合間合間のアキラの疑問は流して、ヒカルはさっさと先程の質問に答える。アキラの方は、ヒカルの言葉で真実が明らかになって驚きと喜びを感じていたが、肝心の知りたかった答えが含まれていない事に気付いて慌てる。

「ちょ、ちょっと待て!」
「何だよ?」
「彼があの“sai”だと言うなら、どうしてキミは…、何故今まで彼の存在を隠していたんだ?」

じっと睨みつける様に見詰められ、ヒカルは少し目線を逸らして拗ねた様に呟く。

「だって仕方ねェじゃん。アイツの姿は今までオレ以外見えなかったし。幽霊だって言ったって誰も信じねェだろ」
「幽霊?!」
「うん」

驚いて復唱したアキラに、ヒカルはあっさりと頷く。落ち着き払ったその態度に、からかわれている訳では無いのだと何故か思った。
多分、疑ってはいけないのだろう。本能がそう告げていた。

「ど、どういう事なんだ? 今まではって、今はボクにも見えるのは何故なんだ?」
「それが判んねェんだよな。何かさ、和谷達が言うには碁を打つ奴しか見えないんじゃないかって言ってたんだけど。確かに普通の人には見えないみたいなんだよな。オレのお母さんにも、オマエのお母さんにも見えなかったみたいだし」
「碁を打つ人だけに見える?」
「うん」

先程部屋に入った時、自分にははっきりと彼の姿が見えた。彼が幽霊であるというならば、姿が見える自分達には霊感があるのか?と思ってはみたが、ヒカルの仲間達にも見えて自分やヒカルの母には見えないと言うのならば、確かに共通点は『囲碁』かもしれない。

しかし、碁打ちにしか見えない幽霊?
それがあの『sai』だなんて、都合良過ぎじゃないだろうか?

アキラは怪訝そうに眉を顰める。

「それをボクに信じろって?」
「別に信じなくっても良いけどさ。アイツ、そもそも全然幽霊っぽくねェし」
「……」

あっさりとしたヒカルの反応に、アキラは戸惑いを感じる。あんなにひた隠しにしていた存在を、そんな簡単に纏めて説明して良いのだろうか?と思う。

けれど、それはきっと今目の前にあの人が存在するからで。

いっそ晴れ晴れとした表情で語るヒカルの姿に、疑うのが莫迦らしくなってきた。真意を確かめたかったら、直接彼に聞けば良いのだ。今は自分にも彼が見えるのだから。

「ともかくそういう訳だから」
「ちょっ、ちょっと待て、進藤!」
「何だよ?」

彼が何者なのかと言うのはとりあえず知り得たけれど、彼がヒカルにとってどんな存在なのかと言うのはまだ判らず、是非とも今の機会に彼自身に聞いておきたかった。何しろ、ヒカルの人生を大きく左右させている元凶が彼であるという確信だけはあったので。

「キミと彼は…どういう関係なんだ?」
「師弟関係でトモダチ、かな。………今は」
「今は?」

ヒカルは笑って答えない。その笑みに、それ以上問い詰めるかどうか悩んでいたアキラだったが、ヒカルの「対局を見ないのか?」と言う言葉で我に返り、その誘惑には勝てずに共に客間へと戻って行った。






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20040327