人は枕木      

-20. 人は枕木 010209


枕木の間隔は歩幅よりも狭いので、線路の上を歩こうとすればちょこちょこと進むことになる。敷石の上を歩くことは足を挫いたりするのでなるべく避けたい。線路には照明がほとんど無いので周りの景色は月明かりでぼんやりとしか見えない。近くの林や遠くの山の輪郭が、かろうじて微かな灰色の線として浮かんでいる。線路というものは大抵道路沿いに走っているものだから、林を透かして車のヘッドライトの明かりが見えないか時々目を凝らして見たりするが、微かなエンジン音が時折聞こえてくる程度である。

レールは真っ赤に錆びていて、この路線がほとんど使われていないことが伺われる。廃線なのかもしれない。私はいつからこの線路の上を歩いているのだろう。私はどこへ向かって歩いているのだろうか。この線路の向こうに何が待っているのだろう。何かが待っているとしても、果たしてたどり着けるのだろうか。

レールの上に乗ってみる。バランスをとるために両手を広げて歩く。踏み外さないように足元のレールをじっと見つめながら歩く。狭いレールの上を長時間歩くのはバランスをとるのに神経を使う。足元のレールに集中していると自分が前に進んでいるのか、それともベルトコンベアのように動いている線路に流されないように足を動かしているのか、次第に分からなくなる。私は停止している。線路と枕木と敷石と周りの空気と右手に見える山と左手の林と地球が猛スピードで後ろ向きに進んでいる。私はそれに流されないように足を懸命に動かす。私の視界の中で停止しているのは私と月だけだ。今足を止めたらどうなるのだろう。動いている周りの空気と右手に見える山と左手の林と地球に流されて遥か後ろまで流されるのだろうか。

足元の敷石が突然無くなり、線路と枕木だけになる。前を見ずに歩いているので気がつかなかったが、知らないうちに鉄橋に入ったらしい。枕木の間の遥か下は川が流れているのだろうか。目を凝らして見るが暗くて何も見えない。たまに、波の反射のような光がチラチラと見えるような気もする。

また足元に、突然敷石が戻ってくる。鉄橋を渡ってしまったようだ。左右は切り通しになっていて先にはトンネルが見える。ずいぶんと長いトンネルらしく出口の光りが見えない。それとも途中でカーブしているのであろうか。トンネルの中はずいぶんと長い間隔でポツンポツンとオレンジ色の暗い照明が設置されている。オレンジの照明の下では全てがオレンジと黒の中間の色になる。オレンジと黒かい。俺ん家に来るかい。誰かに誘われてでもいるのだろうか。壁から染み出た水が反射してオレンジ色に光っている。濡れたトンネルを通って外へ向かっているなんて精神科医が聞いたらよろこんで分析しそうだ。「その夢は、出生の象徴です。外界への恐れと期待を投影した夢です。」おやおや、とうとう夢にされてしまったようだ。

トンネルの中はいつの間にか照明が無くなっていて暗闇になってしまった。枕木を踏み外さないように足を均等に動かしつづける。地下水と黴のにおいが強くなる。ますます歩いているのか単に足を動かしているのか不明瞭になる。真直ぐ歩けているのだろうか、ふと不安になる。レールにつまずいて転んだら大変だぞ。出口が見えてきた。足下がぼんやりと見える。ずいぶん枕木の端っこを歩いていた。

トンネルを抜けると霧が出ていた。夜の底が白くなった。廃駅らしきホームにさしかかる。駅長さんはいないかな。レールの上には空き缶やゴミが散乱していた。駅を抜けて暫くすると。ポイントに差し掛かる。ポイント。重要です。重要です。ここがポイントです。試験に出ます。X形に交差している線路の右側に進むことにした。しばらくすると後ろの方で ごとり とポイントが切り替わる音が聞こえてきた。もう、引き返すことは出来ない。なぜかそう思った。

レールの錆が無い。鉄色に鈍く光る。

カタ カタとレールから振動が伝わる。前方の暗闇には何も見えないところをみると後ろからやってくるのであろう。カタ カタ。ちょっと焦ったが、焦ってもしょうがないと思い直す。後ろを振り返ることができない。そう自分で決めたのか、そう決められたのか判然としない。そういうことになっているようだ。

警笛が響く。後ろからライトで照らされて前方が良く見える。私の体の形に闇と霧がくり抜かれて黒く残る。ただひたすら歩くことに専念する。私はどこへ向かって歩こうとしていたのだろうか。どこだかに、たどり着くつもりで歩き出したのだろうか。たどり着ける可能性はあったのだろうか。列車の振動が迫ってくる。警笛はさらに鳴り響き大音量で何も考えられなくなる。ため息を一つつき、私は足を止め枕木に腰をおろしてみる。


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