ぼつちやん(不夜城編)      

-12.ぼつちやん(不夜城編) 000730


親讓りの無鉄棒で小供の時から床体操や鞍馬ばかりしてゐる。小學校に居る時分平均台から飛び降りて一週間ほど腰を拔かした事がある。おやじが大きな眼をして平均台ぐらいから飛び降りて腰を拔かす奴があるかと云つたから、この次は拔かさずに飛んで見せますと答へた。この場合、親父の方が若干正しいと思ふ。

親類のものから西洋製のナイフを貰つて、友逹に見せてゐたら、一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。切れぬ事があるか、何でも切つてみせると受け合つた。そんなら方円の器に従ふ水を切つてみろと注文したから、何だお前は禅僧か、水ぐらいこの通りだと冷藏庫で凍らせた氷をはすに切り込んだ。頓知をきかせた一休さんでもあるまいし、それなら今度は僕と清の仲を切つて見ろと注文したから、氣が咎めたが清を誘惑して友人との仲を切つてしまつた。仕方ないから今だに清と付き合つてゐる。しかし心の創痕は死ぬまで消えぬ。

四國邊のある中學校で數學の教師が入る。どうだといふ相談があつた。子細は省くが、おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やつと云いながら、野だの面へ擲きつけた。讀者諸君はいきなり野だと云はれても面くらふと思ふが、野だの方こそ登場していきなり玉子をぶつけられて、もつと面食らつたことであらう。玉子がぐちやりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよつぽど仰天した者と見えて、わつと云ひながら、尻持をつゐて、人物紹介も無い内にいきなり玉子とは、と云つた。「なに、いきなり王子よりはましだらう。」次は赤シャツである。「まだマドンナと婚約してないし、藝者をつれて宿屋へ泊つてもゐないのに君にやられるのは理不盡である。いくら君が無鉄棒とはいへ、ドラマツルギーといふものがあらふ。」

「だまれ」と山嵐は拳骨を食はした。赤シャツはよろよろしたが「山に吹く風を嵐と云うんだから、山嵐は山が一つ余計ではないか」

「余計でわるかつたな」とまたぽかりと撲ぐる。おれも同時に野だをぽかぽかなぐる。まだ撲つてやる、とぽかんぽかんと両人でなぐつたらそのうちぷうと云つて動かなくなつた。抵抗しないことをいいことにさらにぼかぼかなぐる。なぐるなぐる。さらになぐるなぐる。いくらなんでもなぐりすぎである。山嵐は「ここまでやつて、大丈夫か」と心配さうにこちらを見るが、なに死人に口無しである。「ひぃ」木の陰からマドンナが怯えた眼でこちらを見てゐる。どうやら腰を拔かしてゐる様子である。かうなつたら2人も3人も同じ事だ。「このことはだれにも話しませんから、どうか命だけはお助けを」えい、うるさい。玉子をぶつけて、どかどかどかと毆る蹴るである。きゅうと云つたきり動かなくなつたので3人まとめて足に石をくくりつけ湾にどぶんと放り込んだ。そのままおれは早速辭表を書かうと思つたが、何と書いていいか分らないから、私儀都合有之辭職の上東京へ歸り申候につき左樣御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。その夜おれと山嵐はこの不淨な地を離れた。

清の事を話すのを忘れてゐた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や歸つたよと飛び込んだら、あらぼつちやん、よくまあ、早く歸つて來て下さつた。清は松山でなにが會つたか全部知つてゐますよ。もちろん誰にも云ゐません。だけど、私と別れるなんて云わないでせうね。そんなことを云えば警察にかけ込んで全部密告します。と上目遣ひでおれの顏を見上げながら涙をぽたぽたと落した。おれはそれまで別れるつもりなどなかつたが、束縛されるのだけはまつぴら御免である。おれは袖の中に玉子がまだ殘つてゐるのに氣が付き、そつと握りしめた。

 氣の毒な事に清は死んでしまつた。死ぬ前に清は、ぼつちゃん後生だから清が死んだら、ぼつちやんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかでぼつちやんの來るのを樂しみに待つてをりますと云つた。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

これが世に云う「松山中學教師生卵連續殺人事件」の眞相である。

このパスティーシュは、インターネットの図書館、青空文庫の「坊ちゃん」(夏目漱石)を参考に致しました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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