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170.いちについて 20141027


 

壱について

 古代インドにて零が発明されるまで世界に零は存在せず、したがって世界の始まりは壱であった。運動会における徒競走開始の合図の最初が「いちについて」であるのはその名残りである。

 宇宙に数が存在を始めてから長い間、壱は孤独であった。何故ならば弐が発明されるまで壱は宇宙そのものであったからである。宇宙は壱であり壱は時空であった。

 一人で始めから終わりまで、中心から端まで単一の壱である事のあまりにも退屈さを紛らわせるため、壱は自分の体を傾けたり端に寄せたりして不均一を発生させる遊びに興じることがあった。自身の体が不均一になるかもしれないということに興奮してはいたものの、目一杯水を充填させたガラスのビンをいくら傾けたとしても空気は進入せず均一であるように、壱は均一であった。だが壱は不均一な状態になったことがなかったのでそれは当たり前のことであり、均一のままであってもどういうこともなかった。すなわち他に比較するものもなかったため、壱は白でもあり黒でもあり同時に灰色でもあった。

 退屈しのぎに壱は触手を延ばし始める。これが最初であったのかいつものことであったのかはわからない。いつもの状態である真球の形からいくら変形したといってもトポロジー的には球も円柱も同一であり、変化はないとみなされたからである。しかしながら今回はいつもと違うような気がしていた。なんとなくだがこの触手を限界まで延ばせば、千切れるという概念はまだこの宇宙に発生していなかったが、今まで予想していなかった弐が現れ、弐という概念もどういうものであるかすら良く分からないのだが、この宇宙の可能性が壱に限定されず広がるのかもしれない、それは良いことかもしれないと壱は触手を延ばし続ける。

 触手を限界以上に延ばし続けていけば、いずれ触手は千切れこの世界に弐が誕生するはずであったが、壱は一人っ子であるため冒険心に欠けるところがあり、おずおずと延ばし続けるのであった。

 触手が千切れるまで延ばし続けるためには壱自らの世界と千切れた触手の間に壱ではない他の要因が割り込む必要があり、すなわちちぎれて弐つになる前にあらかじめ割り込む要素が準備されていなければならない。すなわちこの手法で弐が発生するためには壱と触手とその間に割り込む何かが必要であり、その何かがあらかじめ発生しておく必要があり、つまり弐が発生する前に弐が発生しておく必要がある。

以上の理由で壱の触手は千切れることができず無理やり発生させた場合には因果関係が混乱し、壱はタイムパトロールに逮捕されることとなる。

 弐が生まれることなく壱は触手の延長をあきらめ、触手を収縮させ徐々に真球の形に戻ることにした。壱は弐が失われたことについて一抹の寂しさを感じたが、弐はいまだかつて存在したことがなかったので、その寂しさの理由を壱は思い出せなかった。

 さて、壱が延ばしていた触手は特に何の考えもなく伸張されていたため、直線的な形状であった。しかしながら壱である宇宙自体が真球の形状であったため、触手の形状は直線でもあり同時に円弧状でもあった。したがって壱(宇宙)と同じ半径の触手環が真球(壱)から球体の表面から垂直に飛び出すことになり、十分な時間を与えれば触手は弧を描いて再び真球に突き刺さることになる。

円を描いた触手が再び壱の本体に触れる場合は以下のようになる。触手の先端が壱と接触してしまえば壱はドーナツ型のトーラス構造を形成し、その宇宙を描く地図はドラゴンクエストのマップ状地図世界が現出する。(ドラゴンクエストのマップとは北に進むといつのまにか南の地方まで移動する世界を示している)

 ここで皆様には、我々が球形宇宙の球形惑星表面に存在する環状生物であることを思い出していただきたい。(我々はトポロジー的には消化管(穴)を所持する環状の生物である)。もしこの宇宙が球状ではなく環状であったとしたら、反作用として我々は消化管の存在しない球形生物として進化した可能性が高い。この場合我々は外部の栄養素を最大限吸収するために表面積を最大化する進化戦略をとることが合理的でありしたがって外皮すべてが消化管となる。消化管の外側が外界−すべての宇宙となる。これを裏返すと我々となる。すなわち我々が体内であると感じている消化管の内側には全宇宙が詰まっているのだ。我の内に宇宙がある、すなわち我こそが神である。

 残念ながら、ご存知のとおり私も貴方も神ではないので、この宇宙はドーナツ型のトーラス構造ではない。つまり先ほど述べた壱の触手の先端が自分自身に触れる直前に何者かが妨害したことは明らかである。 「ちょとよろしいですか」

 深い考えもなく壱が触手を直線でもあり曲線でもある形態で無法図に延長していたときに声をかける者がいた。壱は長い間一人であることに慣れていたので声を掛けられることがなく、というか声を掛ける人もいなかったので大層驚いた。声がした方を見てみるとターバンを巻いたインド人が申し訳なさそうに立っていた。 「お忙しいところすみません。ちょっとよろしいですか。あ、それからこれは私の店のカレー割引券」  こんな時になんと返事してよいのか、いままで社交的訓練を積んできていなかった壱は戸惑ったが、さすがに宇宙と年齢が同じこともあって落ち着いて答えた。

「うむ」

インド人は話を進めてよいものであるというふうに判断し話を続けた。

「このたびは貴重なお時間を割いていただき感謝いたします。壱の先生方に於かれましてはますますご清栄のことと存じ上げます。日頃は特別の御贔屓にあずかり……」

インド人は宇宙開闢以来はじめてのプレゼンテーションであったため慣れておらずMS-Wordの挨拶文自動挿入機能に頼らざるをえなかったようである。

「そこで弊社からのソリューションの提案です」

……いきなり本題かよ。

インド人の後ろからおずおずと零が出てきた。

壱は少し怒りながら言った。

「そこのアーリア人よ、ソリューションと言いつつ何もないではないか」

「うまいこと仰る。まことこれは馬鹿にはなにもないように見える零でございます」

 それから壱が零の概念を理解するのには三千年の年月を要した。その間、インド人は立ったまま待ち続けそのまま死に白骨と化し、風雨にさらされ骨は白い砂となり川の流れに乗り、石になりさらに岩になり、ついには苔がむした巌を、妙なる調べと共に天から舞い降りた天女が羽衣でそっと撫でたのであった。

 壱が零の概念を理解したと同時に壱は宇宙と同一ではなくなり、つまりは宇宙は壱とそうではない部分(零)に分離した。壱は初めて触れる自分ではない外部の冷たい空気を吸い込み身震いし、その延長されたままの触手を急いで引っ込め球形の形状に戻った。

 壱は零をどのように取り扱うか、赤ん坊を初めて抱っこする父親のように手を出しかねていた。出現してしまったものはもう元の状態には戻せないが、そこにあるそこに何もないことを示す零という記号はあるように取り扱うのか、それとも無いことを示すのであるから無いように取り扱うのか迷うところであった。しかしながら無いように取り扱えば、せっかくここまで零を連れてきたインド人の立場というものがない。

 腹を割って話し合おうにも零は無口であるし、間違って腹ではなく零で割ろうとすればその解は不能となり宇宙を囲む無の空間が不能の海に満たされることになる。

 零は辛抱強く壱から話しかけられるのを待っていた。存在がないことを存在する事が認めらたとしても、存在がないことがないと見做されたとしても、そこにはなにもないということは確かに事実として存在することはゆるぎないからである。
 


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