ゆで方はアイデンテ      

73. 「ゆで方はアイデンテ」(20010513,20050429)


 アイデンティティという言葉は、日本語であらわすことは難しい。まず、単語の中で語尾が韻を踏んでいるのでアイデンティティなのかアイデンティティティティなのか混同しやすい。サンゲンヂャヤをサンゲンヂャヤヤと間違えやすいのと似ている。しかしながら、あややと、あやと、あややややを混同し難いというのは全く不可思議である。

 辞書によるとアイデンティティティとは「同一であること、同一性、自己同一性。本人であること。」である。こういう概念は日本語にはなじみが薄いのでなかなか理解が難しい。日本では村社会であったため、「本人であること」を本人が積極的に証明する必要が少なかったことから、自己同一証明という概念が発達しなかったのだろうと推測する人もいる。橋本治によれば「アイデンティティティティを日本語に訳すと『自信』である。」だそうである。自信をもって自分であると主張すればいいのか。そうか。

 多民族国家においては、全然わけわからん他民族と接触する機会が多い(と思う。自信は無いが。)。「お前は何者だ」と聞かれた時に答える内容がアイデンティティティティティであろうか。日本では本人を規定するものが自分の外側にあることが多いので(例えば、おとうさん、おにいさん等、家族内の位置が自称だったりする)自分で主張する必要が少なかったのであろう。

 さて、自分を規定する最初の物といえば、名前であろう。名前があれば自信を持って「私は何の何べいである。」という主張ができるというものである。残念ながら私の場合、平凡な名字に平凡な名前をつけられたおかげで同姓同名の人がやたらといらっしゃるのである。ビックリハウスに投稿していた方や、学会の委員でいらっしゃる方や、お医者様だったり、教育を熱く論じる方であったり、工学部博士過程の方であったり、元Jリーガーであったりする。確固たる自信は無いが、それらの方々は多分私では無いのではないかと思う。この同姓同名の方々が実は一人だったら面白いのであるが、確認する術も無い。

 さて平凡な名前ではあるのだが、実はその読み方が変わった読み方をする。名前を見て正しく読めた人は今までいない。くり返し「普通の読み方」で呼ばれ続けたため、もはや一々訂正するのも面倒臭い。お名前は?と聞かれると、本来の名前でなく、普通の読み方を答えることにしている。面倒くさいんだもん。私のアイデンティティティは名前の点からはずいぶん揺らいでいる。

 名前といえば、以前はgonjiiiと名乗っていたが、これまたiの数を間違えられやすかった(iの数は3つ)。こんな間違いやすい名前をつけていた自分が悪いのであるので人を責められない。自分でもiの数などどうでも良いと考えているのでなおさらである。また、オフ会等ではゴンジジイと呼ばれることが多い。正しくはゴンジイィなのであるが、もはやどうでもいい感じである。権ジジイでも権ジジジジでも権ジリリリリリリリでも権ジッタリンジンでも鬼瓦権太左衛門でも好きなように呼ぶがよろしい。おもうがさま、呼ぶがよかろう。苦しゅうない、近こう寄れ。現在はウエブ上の名前が無く、便宜上サイト名である半茶を以って名前の代わりとしているので、これまたアイデンティティティティの点では困ったものである。この点から言えば、ウエブ上での私のアイデンティティティティティは、もはや名前には無い。

 他人から見てその人を規定する第一のものは「外見」であろう。俗に自分にそっくりな人は世界に3人は居る、といわれる。私の場合、そっくりな人が結構いるらしい。あなたにそっくりな人を知っていると、言われたことは数えきれない。但し、「昔愛した人に似ている。」と言われたことは無い。皆遠慮しているのであろう。奥床しいのも善し悪しである。さあ、遠慮するな。

 当然、私の近くにもそっくりな人が居た。高校の時は国語の先生が私そっくりであった。「兄弟なの?」と真顔で何回も聞かれるのには閉口した。名字が違うっちゅうに。

 会社では私にそっくりな後輩がいるのでこれまた困る。なにしろ私の子供が間違えてついていってしまうくらいである。家内も一度間違えて話し掛けていた。幸いなことに身長が20cmほど違うので区別は容易であるのが救いである。しかし、前後に配置された場合は遠近感がおかしくなるので注意が必要である。こうなると、私を私と規定するのは外見であると、自信を持って言うのには自信が持てない。

 こういうことなので、アイデンティティが希薄な日本人のなかで、特に私はアイデンティティティが希薄だと言える。希薄であることには自信がある。アイデンティティティティが希薄であることを以てアイデンティティティティティティを主張してはいけないだろうか。ティティ。


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