森瀧市郎氏の足跡


1901年 4月28日 広島県双三郡君田村に森瀧利作・マツノの二男二女の末っ子(次男)として生まれる
1908年 4月 君田尋常高等小学校尋常科入学
1916年 3月 同上、高等科卒業
4月 広島県立三次中学校入学
1921年 3月 広島県立三次中学校卒業
4月 広島高等師範学校文科二部(英語科)入学
1923年 11月11日 母、マツノ、55才で死去
1925年 3月 広島高等師範卒業
1925年 4月 広島県立三次中学校教諭に就任
1927年 4月   京都帝国大学文学部哲学科入学
1930年 3月 京都帝国大学文学部哲学科卒業
4月 京都帝国大学大学院に学ぶ。併せて京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)講師
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
12月27日 西 しげ(西晋一郎・ひさ次女)と結婚、広島市白島中町に新居を構える
1932年 6月8日 慢性肋膜炎のため広島県病院に入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月6日 広島市江波町の三菱重工・江波造船所(爆心地から4キロ強)の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月9日 被爆した目の治療、両眼失明の危機を回避するため広島県双三郡吉舎町の星田病院に入院。

入院生活中に「力の文明」を否定して、宗教道徳が主座につく精神文明が復位すべきだとする「慈の文化」に思い至る。

1946年 3月8日

高師(賀茂教場ー旧海軍衛生学校跡)に単身帰任

9月21日 父、利作、78才で死去
11月 教官・学生相携えての学園復興運動はじまる
1950年 2月15日 広島文理大学文学部教授に就任
11月22日 博士学位論文「英国倫理研究」を広島文理大学に提出
1951年 9月22日 「広島大学平和問題研究会」発会式(森戸学長はじめ教官30名、学生約200人名参加。同会世話人の一人となる
1952年 8月 広島市霞町に転居
12月15日 学位論文、文理大学教授会を満場一致で通過(翌年1月正式に文学博士の学位を受ける)
1953年 4月 広島大学文学部教授(文理大廃止)
2月22日 「広島こどもを守る会」会長となる。原爆孤児の救済運動(精神養子運動)を始める。「平和と学問も守る大学人の会」に参加
1954年 4月 佐伯郡五日市町海老園に転居、現在に至る
5月15日 「原水爆禁止広島市民大会」を開催する
5月25日 国連に要請のため原水爆禁止を求める「百万署名」の街頭署名運動をはじめる
7月2日 「原水爆禁止広島県運動本部」を結成(同年3月ビキニ水爆実験による第五福竜丸の被曝を契機とした全国民的な運動の中で生まれた)の、事務局長となる
8月 6日 「原水爆禁止広島平和大会」で一般経過報告
9月 7日 「県民運動本部」を発展的に解消し、「原水爆禁止運動広島協議会」(略称・広島原水協)を結成、事務局長となる(後に代表委員)
10月24日 「第一回原水爆禁止世界大会」の開催を原水爆禁止署名運動全国協議会の総会に提案。実現の運びとなる
1955年 8月 6日 「第一回原水爆禁止世界大会」が広島で開催され、現地事務局長を務める
9月19日 「原水爆禁止日本協議会」(日本原水協)が発足、やがてその常任理事・代表委員の一人となる
1956年 3月18日 最初の「原爆被害者大会」の開催に尽力する
5月27日 「広島県原爆被害者団体協議会」を結成し理事長となる
8月10日 「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)が発足、代表委員の一人となる
1957年 3月〜4月 イギリスのクリスマス島での水爆実験計画に抗議して慰霊碑前に座り込む。
4月20日 「原水爆実験阻止広島市民大会」
8月4日  原水爆禁止国民平和使節として、イギリス、ドイツ、フランス、オーストリアを訪問(8月31日帰国)
8月17日 イギリス・北ウエールズの山荘にバートランド・ラッセル博士と会見。  
8月30日 西ドイツの核武装に反対する「ゲンチンゲン宣言」の学者と会見
9月14日 「第三回パグオッシュ会議」を実現したオーストリア大統領シェルフ博士と会見
1958年 5月 5日 「原爆の子の像」除幕。募金活動に奔走
6月25日 日本ではじめて行なわれた、「広島ー東京一千キロ国民平和大行進」の成功に尽力
7月 『中国新聞』に、後年有名となった「人類は生きねばならぬ」という命題をのべた一文を発表
1960年 8月 「日本被団協総会」が代表委員制を改め理事長となる。被爆者援護法制定要求運動への本格的な取り組みを開始する(国会請願や東京での街頭デモなど)
1962年 4月20日 アメリカとソビエトの核実験に抗議し(大学に辞表を提出し)て17日間慰霊碑の前に座り込み、大きな反響を呼び起こした(後に核実験の都度の座込みの発端となった(延べ5000人が参加)
このとき「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」と表現
1962年 6月末 ガーナの首都アクラで開催された「原爆のない世界のためのアクラ会議にエンクルマ大統領に招待され、ガーナ、ガボンのランバレネ、ギリシャを訪問した
6月30日 赤道直下のランバレネの病院にシュバイツアー博士を訪れ懇談する
1963年 8月 5日 「第九回原水爆禁止世界大会」で「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンへの賛否、「部分的核実験禁止条約」の賛否をめぐって、日本原水協は分裂
12月 7日 東京地裁で『原爆裁判』の判決
1964年 3月27日 原水爆禁止三県連絡会議(後に原水禁に発展)
4月10日 全地婦連、日青協、日本原水協を脱退
6月 7日 「広島県原水爆禁止協議会」分裂。共産党系理事脱退
6月 7日 佐久間澄広島大教授(原水協)、村上忠敬広島大教授(核禁会議)らとともに「談話会」をつくり、被爆20周年を翌年に控えて、政府に『原爆被害白書』をつくらせる運動を開始
6月29日 日本原水協理事会によって「代表委員より除外」される
8月 2日 『社会新報』に「被爆地の願い――社会党・総評の皆さんに訴える」を公表。「いかなる」問題に言及。
三被爆地から訴えた運動の正常化はただに国民的統一のみならず人類的国際的統一の芽さえもつところのものであって、系列化固定化は絶対望むところではない。真に被爆地から被爆者の心に立って起こる運動であれば、いずれの側のものでもなければ、いずれの国につくものでもなく、生きんとする人類すべてをつなぐ運動たりうるのである
1964年 10月23日 「国際協力と軍縮のためのオーストラリア会議」に出席するためオーストラリアを訪問。アボリジニに対する人種差別と「核の被害」に注目。(11月13日帰国)
1965年 1月 肺炎に罹り2月迄、絶対安静

被爆20周年の決意をこめて、後に有名となる「人類は生きねばならぬ」の書き初めをする

1965年 2月 1日 「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が発足、推されて代表委員となる(事務局長は伊藤満氏)「原水爆禁止広島県協議会」代表委員となる
2月20日 広島大学での最終講義「平和倫理の研究と実践」への決意を披瀝。同日「謝恩会」
3月21日 広島大学新聞に「被爆20周年を期し学園関係原爆犠牲者慰霊碑を建設せよ」と提案(1973年にこの提案が実って慰霊碑建立)
3月25日 広島大学中庭で卒業生による送別会が行なわれた
3月31日 広島大学定年退官、広島大学名誉教授となる
4月22日 ソ連平和委員会の招待により「被爆者平和使節団」の団長としてソ連を訪問
1966年 6月26日 日本被団協理事長に初の決戦投票(相手は日本原水協代表理事)により選出される。日本被団協分裂を回避、統一を保持した
11月〜 原水爆禁止運動三団体の賛意をうけて原爆ドーム保存の募金運動に奔走した
1967年 3月13日 被爆者援護法の制定を求める日本被団協の国会請願行動の先頭にたつ
1968年 3月21日 原爆被爆者特別措置に関する法律の提案にともない東京で陳情行動。運動は大きく盛り上がったが、5月に成立した法律は、被爆者の要求とはほど遠いものであった
1969年 7月 8日 第六一国会で参議院の社会労働委員会に参考人としてたち「国家補償としての被爆者援護法の制定」を要求(自民党は当初国家補償を含めると約束したと追求。国は被爆者対策は「社会保障」の枠内に固執
8月15日 原水禁世界大会・沖縄国際会議のため、はじめて沖縄を訪れる
1970年 8月31日 日本被団協総会。自らの提案による規約改正(集団指導体制への移行に伴い理事長を辞任
11月29日 「ヒロシマ会議」(現代における平和の条件)に内外の科学者とともに出席
1971年 4月20日 反核を訴えるため、世界一周旅行に出発。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、スエーデン、ソ連、ユーゴスラビアを訪問。アメリカではライナス・ポーリング博士と会見。ベトナム反戦ワシントン大集会で演説(24日)
11月28日 「岩国基地撤去大集会」でデモの先頭にたつ
1973年 1月 密航韓国人被爆者の広島赤十字病院入院に尽力して実現。同被爆者は後に裁判で被爆者手帳も取得
7月20日 フランスの核実験抗議のため座込みを始める。以来、核実験の度毎に慰霊碑の前に座り込む
7月23日 「桑原裁判を支援する会」を結成、総会で挨拶(「認定」裁判)
8月30日 「広島県民集会」で決意を述べる
若き後継の人たちも育ち、いつ倒れてもよいと思う。命ある限りたたかう
1974年 5月12日 被爆者援護法案の廃案に抗議声明を出す。被爆証人探しをはじめる
5月30日  フランス核実験抗議のため、フランス、イギリス、イタリアを訪問
6月15日 モルロア核実験に反対している「爆弾に反対するフランス人連合」会長ボラディエール将軍をブルタニューに訪問
7月25日 核兵器完全禁止をめざして団結した行動をよびかける広島の学者・文化人(12人)のアピールに名を連ねる 
8月 5日 『朝日新聞』の「広島と世界の往復書簡」でノエル・ベーカー博士と対話。「慈の文化」を語る
9月23日 焼津市で開催された原水協・原水禁両団体関係者の統一的な集会に列席する
1975年 4月 1日 「非核太平洋会議」に出席のためフィジーを訪問
4月24日 被爆者の特別措置法改正案を審議中の衆議院社会労働委員会で参考人として意見陳述。「国家補償の援護法」を要求(社公民共四党が保革伯仲の参議院に援護法案を提出していた。同法は7月に時間切れで廃案)
5月16日 アメリカの核実験に抗議してリフトン教授等と慰霊碑前に座り込む
6月26日 原水禁運動の統一をめざす七者懇談会(8月1日に流会となる)
8月 6日 被爆三○周年原水禁世界大会・広島大会で「核絶対否定」の理念をのべる

核分裂エネルギーにたより続けたら、この地球全体がプルトニウムや放射性廃棄物の故に、人類の生存をあやうくされるのであります。 私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。結局、核と人類は共存できないのであります

1976年 8月 5日 被爆31周年原水爆禁止世界大会の基調演説で「核絶対否定の理念」を強調、核兵器も原発もない「核のない未来」の実現を訴える
10月26日 福井県敦賀で原発反対全国活動者会議で主催者代表あいさつを行なう。1977年 4月 4日 二つの広島県被団協が分裂後はじめての統一集会。よびかけ人を代表して挨拶
5月19日 岩波書店会議室で日本原水協の草野信男理事長と「5・19合意」 名。吉野源三郎氏ら七人が立ち合う
8月 3日 14年ぶりに開催された統一世界大会に出席、議長団を代表して挨拶
1978年 5月24日 第一回国連軍縮特別総会に参加するためニューヨークを訪問
1979年 3月 1日 「ビキニ被災25周年ビキニデー広島集会」で主催者代表として挨拶
1980年 5月10日 「非核独立太平洋会議」に出席するためハワイを訪問。「非核太平洋人民憲章」を提案
10月3日 援護法制定促進広島県民集会。宮沢知事に要請
12月11日 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の報告に対する抗議の県民集会で、主催者として決意を表明
1981年 11月16日 「ヒロシマ語り部」としてドルムント平和集会に参加するため西ドイツを訪問。反核大集会で演説
1982年 3月21日 「82年・平和のためのヒロシマ行動」のメイン・ステージで演説
6月7日 第二回国連軍縮特別総会に参加のためニューヨークを訪問
1985年 5月 7日 原爆白内障治療のため広島県病院に入院
6月12日 被爆者代表として中国を訪問
7月 2日 ソ連核実験に抗議して座込み(300回)
8月 4日 「国際被爆者フォーラム」を実行委員長として主催。マーシャル、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどのヒバクシャが参加
8月10日 沖縄の国際連帯会議に参加
1986年 4月29日 85才の誕生日の翌日、フランス核実験抗議の座込みの日にチェルノブイリ事故の報道に接する
8月 統一世界大会開催不可能になる
1987年 9月24日 第一回核被害者世界大会に出席するためニューヨークを訪問
1988年 8月 5日 「森瀧先生の米寿を祝い励ます会」が外国代表を含めて開催された 
1989年 4月9日 青森県六ヶ所村で開催された「反核燃全国集会」の呼び掛けを行なう。核燃基地を包囲する「人間の鎖」の先頭にたつ
1990年 3月13日 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回となる
9月10日 肋骨カリエスのため広島赤十字病院に入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1991年 4月13日 谷本清平和賞を受賞
4月28日 満90才の誕生日、卒寿を迎える
1993年 7月 9日 広島県被団協5年度総会に出席
7月20日 核実験抗議慰霊碑前座込み20周年記念に出席
8月 4日 被爆48周年原水爆禁止世界大会開会総会で主催者挨拶
8月 6日 原爆死没者追悼慰霊式典で追悼の辞をおくる
8月下旬 日赤原爆病院に入院
11月16日 平和公園を散歩する
1994年 1月25日 森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去

『著書』には、以下のものがある。『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ四〇年−森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)。共著『非核未来に向けて』(績文堂)、『いのちとうとし』(広島県原水禁刊)