原水禁運動の歩み(1)
(ヒロシマ・ナガサキから原水禁運動の分裂まで)


はじめに

 1945年8月、アメリカが広島・長崎に原爆を投下してから、人類はこれまでに体験したことのないまったく新しい時代に入った。「核の時代」に入ったのである。
 人類は核エネルギーという「第二の火」をともした結果、逆にその恐るべき危機の前に恐怖することになった。原爆は驚くべき爆発力をもつとともに、爆発に際して放出する放射性物質からの被害ももたらす。この放射能こそ、各種ガンやその他晩発の傷害をもたらし、今日にいたるもなおヒロシマ、ナガサキの原爆被爆者を苦しめている。
 原爆の出現は、世界の政治も大きく変えてしまった。その破壊力によって、もはや二国間の戦争を前提とする政治は非現実的となりつつある。世界的戦争、国際的な大型戦争が各国の戦略の中心に据えられてくる。しかも核兵器を生産し、常備しようとすれば、ぼう大な軍事予算と巨大な兵器の研究・生産体系をつくらなくてはならない。
 大国と小国との差が核兵器中心の軍備では、はっきりしてくる。このために、社会主義体制と資本主義体制はそれぞれ軍事同盟・ブロックを結んで自国の”防衛”を考えようとしたのである。核兵器の存在が半世紀にわたる東西冷戦の背景であった。
 核兵器はこのような世界政治の変動をもたらしたばかりでなく、各国における国内の政治も変えた。核兵器の破壊力は戦闘員と非戦闘員を区別しないし、人類に対して全面的な被害をもたらしかねない。このために逆に核戦争を阻止しようという働きは、革新派や労働者だけではなく、科学者や技術者のなかからも、女性や青年の間からも、一般市民のなかからも生じてくる。つまり、イデオロギーの相違や政治的信念の違いといったものをこえた超党派的人類的な反原爆の運動が発生する基盤ができたのであった。この点こそ、これまでの平和運動と原水爆禁止運動の根本的違いであり、核兵器反対という一点で人類が結びつけられ、連帯する条件が生まれたことを意味するものであった。


1、戦後世界の核軍拡競争

●ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下

 第二次大戦中、アメリカが原爆の開発にのりだした理由はいくつかあるが、最も重要な動機は「ドイツのナチスが核兵器を先につくってしまうかもしれない」ということだった。ナチスが原爆をもてば、世界は決定的な破壊に見舞われるであろう、その前にアメリカが原爆をもたなくてはならない。こうした雰囲気がアメリカをとらえていった。
 そこで重要な役割を果たしたのは、ヨーロッパからアメリカに亡命してきた科学者たちであった。レオ・シラード、エンリコ・フェルミたちはアインシュタインを通じてルーズベルト大統領に原爆の製造を働きかけた。こうしてマンハッタン計画が決定された。
 だが、アメリカが実際に原爆を完成した1945年6月には、ドイツはすでに敗北していた。そこで、原爆の投下目標は日本にむけられるにいたったのである。歴史の不幸はこの時にはじまった。
 しかしながら、日本への原爆投下をためらう動きもあった。最初、原爆製造を進言したレオ・シラードは、今度は日本への原爆使用に対する請願書をつくった(1945年3月)。68名の科学者の署名をえたこの請願書がワシントンに送られたが、効果はなかった。
 この訴えは、原爆投下がまず道徳的に非難されるであろうことを強調するとともに、原爆使用は世界各国――とくにソ連の原爆研究・生産を促し、果てしない核軍拡競争に突入しゆくことを恐れていたのであった。
 その後の事態は、L・シラードの予測通りに進んだ。ソ連はたちまち原爆をつくりあげ、さらに水爆を開発した。水爆で遅れをとったアメリカは水爆開発に全力をあげる。水爆開発では、エドワード・テラーらが強硬派であり、オッペンハイマーなど良識派はこれに反対していた。国連において原爆を国債管理下におこうとした努力も水泡に帰してきた。(バルーク案をめぐる米ソの対立)
 第二次世界大戦後の核軍核競争はこうして、核兵器を中心にして推進され、核実験があい次いで強行された。”死の灰”は遠慮なく大気中にばらまかれ、地球全体を汚染しつづけた。日本の原水爆禁止運動発展の最初の契機となったアメリカのビキニ環礁(ミクロネシア)における水爆実験はこのような状況のなかで行なわれたのであった。

●核・ミサイル開発と戦争の性格の変化

 1957年に入ると世界の核軍拡競争はさらに新しい段階に入る。イギリスが太平洋上のクスマス島で核実験を行ない、新しい核軍拡を開始した。この年の10月にはソ連がスプートニク(ICBMの完成を示す)を打ちあげ、核兵器の運搬手段の開発競争による新しい軍拡競争の時代が訪れる。いまや軍拡競争は「核・ミサイル」競争の段階に入った。このことは戦争の性格・概念も根本的に変わってきたことを意味するのである。ICBMは約30分で地球の裏側に達するから、人類の大半が死滅し地球全域が破壊されるような戦争が、わずかか30分間で終了する状態となったのである。
 だが、このような新しい核軍拡競争の展開は、心ある人々を核実験禁止、核兵器禁止へとかりたてることになった。
 1955年にはすでに核兵器の全面禁止を訴えた「ラッセル・アインシュタイン声明」が発せられた。57年4月になると西ドイツ(当時)の著名科学者18名による「核兵器製造に協力しない」という「ゲッチンゲン宣言」が発表され、同じ年の7月には東西両陣営の科学者の参加した「第1回パグウオッシュ会議」が開かれた。なおパグウオッシュ会議は、今日に至るまでつづいている。
 57年にはA・シュバイツアー博士がオスロー放送を通じて核実験の危険性と核戦争の危機を訴えていた。ライナス・ポーリング博士も核実験による「死の灰」の危険性を訴えすでに行なわれた核実験の「死の灰」で「1万人の新生児に身体的精神的欠陥を生じさせるだろうし、10万人の胎児・幼児死をひきおこすだろう」と警告した。ソ連の「水爆の父」といわれるアンドレイ・D・サハロフ博士もこれらの動きを見守っていた。「アルバート・シュバイツアーやライナス・ポーリングなどによる声明の影響もあって、彼(サハロフ)は自分自身にも核爆発による放射能汚染の問題に関する責任があるように感じた。一連の核実験が行なわれるたびごとに、何万もの犠牲者がでることになるからである」(『みすず』74年5月号)。サハロフがフルチショフ首相に核実験停止の勧告や働きかけをはじめるのもこのころである。
 1958年からソ連は全面的な平和攻勢に転じた。この年の3月には核実験の一方的停止を宣言し、米英への同調を求めた(但し実際には不成功)。さらに59年9月にはフルチショフが自らアメリカにのり込み、アイゼンハワー大統領とキャンプ・デービット会談を行ない、次いで国連総会で「4年間で軍備を全廃する」提案を行なった。ソ連の平和攻勢でにわかに緊張が緩和し、核兵器禁止も間近とまで思われたが、1960年のアメリカのスパイ飛行機U2機事件で局面は暗転してしまう。
 1961年夏にはソ連は「ベルリン危機」を理由にした一連の大型水爆実験を開始し、これが日本の原水爆禁止運動混乱の発端となった。62年には、わざわざ原水禁世界大会の期間中に水爆実験をやるという無神経ぶりであった。
 「1962年には、技術的な見地からは無用な核爆発の実験がなされることになったので、サハロフはこの計画の犯罪的な性質を悟って、阻止のために数週間にわたり必死の努力をした。実験の前日にはフルチショフに電話をかけて実験とり止めを要請したがすでに爆弾搭載機は実験予定地に出発した後だった」。(前掲『みすず』)
 だがこの間にもパグウオッシュ会議に結集した科学者たちは、「地上いかなる地点で行なう核実験も技術的に探知できるから、速やかに核実験停止条約を締結せよ」と結論をくだし、各国政府に働きかけを行なっていた。

●キューバ危機と部分核停条約

 1962年10月のキューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前となった。ソ連がキューバにすでにミサイル基地を建設していることを発見し、さらにソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見したアメリカはこれを阻止するために「海上封鎖」を行なった。ソ連はこれに抗議したが、ケネディ大統領はミサイル基地撤去を頑として主張し、それなしには核戦争も辞せずという、いわば「最後通牒」を発したのだった。世界各地ではこの行為に激しい抗議の声がまき起こった。バートランド・ラッセルはケネディ、フルチショフ、ウ・タント国連事務総長に電報をうち続け、核戦争勃発の危機性を訴えた。やがてソ連は、「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ということを条件にしてキューバのミサイルを撤去することになった。もしもフルチショフが強気にでれば直ちに核戦争になったであろう。
 後日、ジョン・サマビルはこう書いている。「ケネディ大統領の国家安全保障会議執行委員会(EXCOMM)は、『もしソ連がキューバのミサイル基地を撤去するか、破壊してしまうかするのでなければ、直ちにソ連に対して開戦する』ことを決めたのだった。……その決定を行なった人たちは、この最後通牒にソ連が同意するなどとは毛頭期待せず、また、戦争がもたらす結果についても、はっきりと知っていたにもかかわらず、なおそれをやったということである。言葉を変えていえば、決定を行なった人々の明らかに予見していたことは、恐らくソ連は抗戦するであろうし、またその戦争が、必ずや世界規模での核戦争となり、人類は事実上抹殺し去られるだろうとの見通しであった」と。(ジョン・サマビル『人類危機の13日間』岩波新書)。
 だが、フルチショフの妥協によって危機はからくも回避された。人類は死の淵に落ちることを逃れた。
 このキューバ危機は、核保有国の権力者に危機意識を植えつけずにはおかなかった。米ソはやがて偶発戦争防止をも保証するホット・ラインを設置することになり、やがて部分的核実験停止条約の締結を決意するにいたる(63年8月調印)。
 しかしながら、この過程で外交政策をめぐる中ソ間の対立が激しくなり、1959年6月にソ連は「中ソ国防新技術に関する協定」(57年10月には原爆見本、原爆生産の技術を中国に提供することを約束した)を破棄した。この結果、中国も自ら核兵器生産(64年10月に第1回核実験)にのりだすことになった。そして、フランス、インドがこれにつづくのである。
 アメリカのベトナム北爆が開始された1965年以降、世界の反戦平和運動の焦点はここに集中され、アメリカのベトナム侵略を阻止することが緊急な課題となった。しかしこの間も世界各国の核開発競争は継続しており、フランスも「独自の核抑止戦略」をつくるというドゴーリズムによって核ミサイルの開発を急いできた。
 核兵器とともに核エネルギーの「平和利用」が無視できない環境破壊の要素として登場してきた。「核の時代」はいよいよ人類全体を飲み尽くそうとしていたのであった。


2、原水禁運動の爆発的発展

●反核・平和への願い高まる

 日本における最初の「反核・軍縮」に関する問題提起は、1948年にユネスコ(国連教育科学文化機関)が主催して8人の社会科学者によって起草された「平和のために社会科学者はかく訴える」声明に呼応したものであったとされている。49年、安部能成、仁科芳雄、大内兵衛の主唱による50余名の科学者がまとめた「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」である。
 原水爆禁止の署名運動としては、50年3月にストックホルムで核兵器の禁止を求めた「ストックホルム・アピール」に呼応して、当時まだ米国の占領、朝鮮戦争という状況のもとで645万もの署名が集められた。
 この運動は、「原水爆禁止署名運動全国協議会」の組織化に発展し、原水爆禁止世界大会の開催へとつながった。

●ビキニ事件と放射能の脅威

 日本の原水爆禁止運動は、54年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験の直接の契機としてまき起こった。20メガトン水爆の実験によって発生した「死の灰」は100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」にふりかかり、これをあびた23名の乗組員は全員、火傷・下痢・目まい・はき気などの急性放射線症にかかり、そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9月23日、手当の甲斐なく亡くなった。「死の灰」の恐怖はそればかりではない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。
 焼津港・三崎港・東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って「マグロ恐慌状態」が生じた。東京の中央卸売市場ではコレラ流行以来はじめてセリを中止するにいたった。
 また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に降り注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクのなかにまで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではなく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックを与えるにいたった。
 そしてこのことが人々にあらためてて「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人ひとりの「戦争はいやだ」「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させたのである。
 「原水爆禁止」の署名運動は、全国各地で一斉に開始され、運動は焼原の火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃えひろがり、あらゆる市町村議会で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。
 そして各地域や職場で自然発生的にはじめられた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。この署名は1955年8月15日までに日本で3238万人分、世界で6億7000万人分に達した。

●原水禁世界大会の開催

 1955年1月、「署名運動全国協議会」の全国大会は、「8月6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を(1)過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。(2)あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会――と規定した。
 そして3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表5000名と、社会体制を異にする多くの国々からの代表が参加して、第1回原水禁世界大会が、8月6日広島で開催された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙を流す光景さえみられた。
 第1回世界大会終了後、「日本準備会」と「署名運動全国協議会」が発展的に統合して生まれたのが、「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」である。

●原爆反対の声は政府を動かす

 3000万人をこえる「原水爆実験禁止署名」は、これまでの日本の運動では最大の運動であった。これに参加した団体は、労組や民主団体だけではなく、むしろ保守的傾向の強い地域婦人会、町内会の青年団も含まれており、地方自治体もぞくぞくと反対の決議を行ない、原水禁運動に協力した。また学術団体や日本赤十字などの社会団体、水産業界もこの運動を支持したのであった。
 これらの世論の高まりはついに日本政府をも動かすにいたった。
 かつて吉田内閣は「日米安保条約のたて前上、アメリカの核実験には協力する」といっていたが、鳩山首相は「原爆禁止に努力する」と言明するにいたった。
 1956年2月には、衆参両院で「原水爆実験禁止決議」が採択され、同年10月には「原水爆禁止全国市会議長会議」が開催され、自治体ぐるみの運動が各地にひろがった。
 1955年1月にはウィーンで世界平和評議会の拡大理事会が開かれたが、これには日本の原水禁運動の代表安井郁氏が招かれ、「原子戦争準備反対の訴え」(ウィーンアピール)が採択された。いまや核兵器に反対する世界的な連帯ができはじめたのである。

●運動の抑圧と分裂の策動

 この後しばらくは、原水禁運動が発展し、1956年、57年と運動は上昇した。しかし日本国内では58年の末の「警職法」闘争の高揚が、保守陣営に大きな衝撃を与え、それはさらに安保改定交渉と相まって政府・自民党からの逆襲がはじまる。平和運動に対する一連の干渉である。
 国民的運動に発展した原水禁運動に対しては「特定の政治目的を追求する偏向をおかしている」として攻撃がかけられ、一般国民をこの運動から離脱させる工作が進められた。具体的には自民党による、各地域の原水禁組織に対する地方自治体からの補助金の停止措置であり、地方議会ぐるみで取り組んでいる原水禁運動からの自民党議員の引き上げや脱退である。1959年の第5回大会には右翼団体をつかってのなぐり込みさえ行なわれた。
 保守陣営はこうして運動を抑制すると同時に、原水禁運動とあまり関係のなかった団体や個人を集めて「核禁会議」を結成し、運動が分裂した印象を大衆に与える行為を行なった。


3、運動内部の混乱

●原水禁運動内部の意見の対立

 保守陣営からの妨害工作と時を同じくして、運動内部にも意見の対立が起こりはじめた。当初は、軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマとしてとりあげるか、否か、という意見の対立が表面化してきた。
 いわゆる「筋幅論争」である。それは、「平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動をとりあげよ」というものであり、「筋を通す」ことが重要だという意見と、それよりも「原水禁運動は広範な国民の参加する運動だから、その幅を大切にせよ」という意見の対立である。
 第4回大会(1958年)では学生たちの間から原水禁運動は「勤評問題をとりあげよ」という主張がでてきた。さらに第5回大会(1959年)では「平和の敵を明らかにせよ」とか「原水禁運動が安保反対そのものをとりあげよ」などという主張がでてきたが、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則をつらぬきとおして、これらの提案をとりあげなかった。
 だが、1960年の安保闘争を契機にして、原水禁運動の組織的危機は深まってゆく。次第に党勢を拡大してきた日本共産党は日本原水協のなかでも発言権を増大させてきた。60年安保では日和見主義戦術をとっていた共産党も、彼らのかかげる綱領、つまり「二つの敵論」をあらゆるところで主張しはじめていた。第6回原水禁大会ではあらゆる分科会、分散会で「反米・反帝」という一面的主張を展開、「平和の敵を明らかにする」ことを迫った。このため原水爆問題や被爆者問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈したのである。
 第7回原水爆禁止世界大会(61年)になるとこのような混乱はさらに強まった。共産党系諸団体が、(1)平和の敵・アメ帝打倒、(2)中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、(3)軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ、――と主張し、党派に属さない人々のひんしゅくをかった。
 社会党やその他の団体は(1)原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。(2)1党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。(3)一致できない活動は、各団体の独自行動で補強せよ――という意見と真っ向から対立した。
 こうした混乱は、当時、中央・地方を問わず原水禁運動に、日本共産党員が積極的に参加していた状況では、ある意味はやむをえないことであった。また戦後はまだ一〇年余しかたっていない時期で、多くの人は運動の民主的運営についてもほとんど経験をもたなかったこともあるかもしれない。
 結局、共産党系の多数決によって「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」という決議を採択するにいたった。
 ところが大会終了間もない1961年8月30日、ソ連が核実験再開を発表、10月には50メガトン水爆実験を強行したのである。

●ソ連の核実験をめぐる対立の激化

 日本共産党の政治的セクト主義が、最も露骨に運動に持ち込まれたのはこの時である。
 当時、ソ連をはじめ、アメリカ、イギリスの三国は核実験を停止していた。これは1958年にまずソ連が核実験の一方的停止を発表し、次いでアメリカ・イギリスがソ連に追随したのであったが、このような核実験の停止に至るまでには、アメリカのノーベル物理学賞受賞者のライナス・ポーリング博士を中心とするアメリカ、ヨーロッパの科学者と、米国務省との間の約2年間にわたる激しい論争があった。
 ポーリング博士らは、これまでの大気圏核実験によって、多くの人たちがガンや白血病に患る恐れがあり、すぐにも核実験を停止すべきだと訴えていたのである。この論争は、ヨーロッパの科学者をまきこんで、米国務省との間に大きな論争となり、結局、米国務省は論争に完敗するのである。
 このように、核実験による影響が無視できないという、国際的な世論を背景に58年から停止されていた核実験を、1961年8月に、ソ連が突如として再開すると発表したのである。
 したがって、このソ連の核実験再開は、核実験全面禁止から、核兵器廃絶を実現しようと考えていた世界の人々の希望を打ち砕くものであり、また核実験による白血病などの危険を考えるならば、絶対に認められないことであった。
 しかもこの年の原水禁世界大会では「最初に核実験を開催する国は、人類の敵として糾弾されるであろう」というアピールが採択されていたのであった。
 しかし核実験に反対する運動から出発した「日本原水協」は、ソ連の核実験に反対の態度をとることができないという、まことに奇妙な、しかし深刻な混乱に陥ったのである。
 混乱の原因は、ソ連の核実験を支持せよという方針を、日本共産党が打ち出したことにある。日本共産党はアカハタの号外で、「例え死の灰の問題があろうとも、大の虫を生かすために、共産党員はソ連の核実験を支持するように」と主張した。
 このような核実験による死の灰を無視する立場は、そもそも日本の原水禁運動とは、およそ無縁の運動なのである。(そしてこの大気中に拡散する、微量の死の灰の影響を無視してきた結果、日本原水協はその後、原発から漏れる放射能物質について語ることができず、反原発運動にも取り組めないのである。)
 その結果もたらされた大混乱のなかで、地婦連、日青協などが原水禁運動から離れ、また私たちも原水禁運動の再生をめざして、「いかなる国の原水爆にも反対する」立場にたった運動組織、原水禁国民会議を結成したのである。
 日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが「人類の敵」としての糾弾はしなかった。さらに日本共産党はこの核実験を支持し大々的なキャンペーンをくり開げた。
 日本共産党の「ソ連の核実験支持」運動は異常なものであり、『アカハタ』は連日、ソ連の核実験の正しさの論証にこれ努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないよう打電し、……原水協さえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、……・湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」(61年9月9日『アカハタ』号外)と書き、「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という非常手段に訴えることはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かす』というのはこのことです」(野坂議長談『アカハタ』9月9日)と主張した。ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の核実験)を断固支持する立場にたっている。われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」(『アカハタ』9月16日)と力説したのであった。
 こうして、日本原水協の会議は連日のようにソ連核実験をめぐる議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒしてしまったのである。

●「いかなる国の……」をめぐっての運動の混乱

 こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の四団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。
 この改革案について中央、地方で6ケ月にわたる討議がかさねられ、1962年3月の全国理事会では120対20という圧倒的多数で、次のように決めた。
 「原水爆禁止運動は、原水爆の製造・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この立場にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。こうした内容を中心とした「原水禁運動」の基本原則を決定したのであった。
 しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を「原水禁運動をしばりつけ、しめつけるもの」として否定し、無効を主張しつづけた。
 そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台にはならなくなってしまった。
 こうした情勢のなかでむかえた原水禁第8回世界大会は、統一と団結を守る配慮から「(1)いかなる国の核実験にも反対する。(2)真実を究明し、核戦争の根源をとりのぞく」――ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。
 ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し、「(1)平和の敵・アメ帝の打倒、(2)社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、(3)軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争」を原水協の中心課題とせよ――と主張しはじめた。折りしも大会二日目(8月5日)にソ連が核実験を行なったため、これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥いった。多数によって「抗議しない」ことになったため、社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、一切決議しないまま流会することとなった。日本原水協の機能は完全にマヒするにいたった。

●統一への努力も虚しく

 約6ケ月、空白がつづいたが、この間、中央・地方を通じて運動の統一を望む多くの動きがあり、1963年2月、日本原水協担当常任理事会(執行機関)が開催された。
 この担当常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、

1.いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる
2.社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ
3.多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる

ことを骨子とした「2・21声明」を決定、これと同時に実務的「協定事項」を確認した。 

 この「2・21声明」と「協定事項」を基礎として、「3・1ビキニ集会」は招集された。
 ところが、3・1ビキニ集会に先だって開かれた2月28日の全国常任理事会では、共産党系団体出身の常任理事が「2・21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても意義を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。
 日本原水協の担当常任理事には当然日共党員も入っており、最初はこの「2・21声明」に賛成したのであった。だが、この決定を日共本部に報告するや、彼らは党のイデオロギー基準からみてこれを拒否することを決めた。この日共本部の決定により、この大衆団体内部で決められたことはいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理は常に日共の党派の論理に従属しなくてはならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをもたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるをえない。


4、原水禁運動の分裂

●政党の介入と分裂

 3・1ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれたことから、運動の分裂は必至とみられたが、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会(1963年)を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。
 社、共、総評の「3者会談」が数回にわたって行われ、その結果、「2・21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「3者申合せ」を確認した。そして6月21日「担当常任理事会」」を経て、6月21日の「第60回常任理事会」に3者申合せを骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。
 ところが日本共産党は、6月21日の『アカハタ』で「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない。」(内野統一戦線部長談)を発表、さらに7月5日の『アカハタ』には、3者申合せを真っ向から否定する論文が掲載された。
 こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる・・・」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれたが、日共はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会(1962年)を開くことは困難になってきた。
 安井理事長の「(1)いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。(2)各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。(3)各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める」――といういわゆる「安井提案」が出されたが、「いかなる……」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。
 会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと代表動員をかけ、大会場で多数の力で「いかなる・・・」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むべくもなかった。
 総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、総評、社会党系代議員欠席のまま、第9回大会は開かれ、事実上、「共産党系」を中心とした集会となり、「原水禁運動の基本原則」「2・21声明」を内容とした「森滝議長報告」は無視され、この運動の歴史的成果として生まれた「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。
 こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第9回世界大会(1963年)の分裂により、まったくその統一機能を失うにいたったのである。

●運動再建への取り組み

 第9回原水禁世界大会(63年)の分裂によって、原水禁運動の相入れない路線は明確となった。このような状況のなかで原水禁運動を再建しようとする動きはまず関西からはじまった。
 大阪軍縮協をはじめとする関西各県の原水禁はこの年の9月30日「日本の非核武装と完全軍縮のための関西平和集会」(扇町プール)を開催した。この集会は国際的な支持もあり、バートランド・ラッセル、バナールなどからもメッセージがよせられた。広島県原水協からも代表が参加し、約3万名を結集する大衆集会となった。
 大会に参加しなかった総評・社会党など13団体は「原水禁運動を守る連絡会議(原水連)」をつくって独自の活動を計画、日本原水協は残存した担当理事だけで運営をはかる結果となり、それはさらに1964年の「3・1ビキニ集会」で分裂を決定的なものとした。
 1964年の3・1ビキニ集会は、日本宗平協、日本平和委員会、日本原水協の3者によって当初から一方的に計画された結果、総評、社会党系も独自集会を開くこととなり、しかもそれは全国規模的における代表の争奪戦が展開するなかで行なわれた。共産党系機関誌『アカハタ』の連日にわたる総評・社会党・静岡県評に対する中傷、誹謗は、目をおおうものがあり、3月2日開かれた「総評・社会党全国合同代表者会議」は、「原水禁運動を正常化するため、独自の組織で活動を展開する」ことを確認しあった。(続く)


※ネタもとは86年7月原水禁刊の『原水禁運動の再生を求めて』、同じく原水禁発行の、『原水禁運動の歴史と教訓―核絶対否定の理念をかかげて』、『核のない社会をもとめて――原水禁運動の歴史と教訓』の記述をベースに野崎が加筆し再構成しています。