原水禁運動の歩み(3)
(禁・協の統一行動からその崩壊まで)


13、原水禁統一行動の崩壊

●正統と異端

 1977年は、わが国の原水禁運動の一つの節目の年であった。この年の3月17日、総評と日本共産党のトップが懇談したことがきっかけとなって、突如として原水禁運動統一についての「総共合意」なるものが発表された。
 1975年、総評、平和委員会、社会党、共産党など「七者懇談会」で原水禁運動の統一問題が話し合われた際に、日本共産党中央幹部の「鶴の一声」で、この折衝にあたった当時の平和委員会事務局長の処分問題にまで波及する事態が起きたが、これは、その事件の後だけに、内外とも大変な驚きをもってうけとめられた。
 そこに、さらに5月19日、いわゆる「森滝・草野合意」メモがつくられ、原水禁の組織内は困惑とともに、大きくゆれ動いたのである。
 しかし、この合意によって、1963年の分裂以来はじめて、原水禁と原水協の統一行動の可能性が実現したのであった。
 これまで、日本原水協は「原水禁国民会議は分裂組織であるからこれを認めない」という頑迷な方針をとっており、両組織の「共同行動」ないし「統一行動」を一切拒否してきた。そして、原水禁運動の「統一」という場合は「解散統一」(原水禁国民会議が解散して原水協に吸収・合併する)だけがありうる唯一の道だと主張しつづけてきたのである。そこには、わが国における原水禁運動の「正統派」は日本原水協であり、「異端」の原水禁国民会議は存在してはならない組織であるという発想があった。だが、これは宗教の世界における「正統」と「異端」という組織観であり、民衆の自発的意志によって、自由につくることのできる大衆運動に適用できるものではありえない。
 あのビキニ水爆実験に反対してはじめられた初期の原水禁運動は、地域婦人会、青年団、町内会や漁業団体など、無数の組織がそれぞれの自立性を認めあって、「核実験に反対する」という一点で結び、共同行動を積み上げてきたのだった。それだからこそ、3300万という署名を集めることもできたのである。
 一般に、大衆行動は、思想や信条など立場の異なる諸組織が、共通の目標にむけて共同行動(統一行動)を組む時に大きく発展するのである。これに反して、「正統と異端」の組織論は、自分たちの行なう運動だけが正しく(正統)、他の団体のつくりだす運動は間違い(あるいは質の劣るもの)とみるから、他の運動を敵視したり、妨害したりさえする。その結果、統一行動に広範な人々が参加してくる可能性を、閉じてしまうことになる。

●「原水禁運動の統一についての基本見解」

 「5・19合意」に先たち、原水禁国民会議は、一年にわたる数回の会議の結果「原水禁運動の統一についての基本見解」(統一テーゼ)をつくっていた(5月17日)。
 この「統一テーゼ」は、新しい核状況(アメリカやヨーロッパにおける新しい反核運動の成長、核拡散の危険性、反原発の住民・市民運動の発展など)が生まれつつあることをふまえたうえで、今後、これまでとは違った新しい反核運動が起こってくることを予測し、「大衆的原水禁運動は……その内部に多様な創意的諸活動が保証されるような重層的構造とならなくてはなりません」と規定していた。そして、「画一的指導によって行動を単純化するのではなく」、多様な創造的運動を数多く組織していくことをめざしていた。
 また、そういう状況になればなるほど「共通の課題の統一行動を積極的に推進する」必要があると判断し、「被爆者援護」「国連軍特別総会」「平和教育」「反原発」などの課題での統一行動を呼びかけた。そして、以上のような共同行動を組織的に保証するために、諸団体の調整・連絡のための「原水禁運動連絡会議」の結成や課題別に応じた「実行委員会」をつくることを提唱したのだった。
 そこへ、突如、「森滝、草野合意」メモがつくられ、統一世界大会の開催だけでなく「統一組織」の展望をも示した。そのため、その真意と内容をめぐって、中央、地方での多くの議論がなされたが、77年5月17日の第28回全国委員会で「統一テーゼ」に沿った整理と対応策を確認したのである。

●「共同行動」としての統一世界大会

 ともあれ、「5・19合意」によって、原水禁と原水協が統一した原水禁世界大会を開催する可能性がはじめて生まれ、この年の6月13日には世界大会の統一実行委員会が発足した。原水禁と原水協の「共同行動としての原水禁世界大会」もたれることになったのである。広島で「1977年原水爆禁止世界大会」が開催され、以後、「’83原水禁世界大会」にいたるまで、この統一行動はつづいた。
 この間、原水禁は、統一世界大会と平行して、独自の大会(被爆○○年原水爆禁止大会)を毎年開いてきた。それは、原水禁国民会議の基本主張である「核絶対否定」という立場では、原水協と一致することができず、それを基調に据えた大会は開くことができなかったからである。また、原発問題でも両者の相違は明らかであり「原発反対」は原水協の反対で大会の統一スローガンにすることもできなかった。
 こうして、原水禁の基本主張をゆずることなく、運動の発展を願うならば、その独自性を貫いてこのような独自の大会を開くのは当然のことである。もしも、この原則的立場を放棄してまで、「統一行動」だけに埋没することになれば、原水禁国民会議の存立の基盤が揺らいでしまう。そればかりか、全国的に盛り上がってきた反原発運動やさまざまな反核運動を結集するみちを閉ざすことにもなる。
 こうして「一致できる点での統一行動」としての「○○年原水禁世界大会」と原則を貫く独自の「被爆○○周年原水禁大会」を毎年取り組んできたのだった。
 この間、その他の統一行動では、二回にわたる国連軍縮特別総会(78年のSSD−1と82年のSSD−2)にむけての大衆行動が行なわれ、79年12月には「世界大会実行委員会」主催の被爆者援護法制定を要求する統一行動も組織され、以来その枠をひろげてきた。

●破綻した「解散統一論」

 これらの統一行動がすべてスムーズに行なわれてきたわけではない。まず、1977年の最初の「’77原水禁世界大会」準備過程では、原水協側が、原水禁の主催する「被爆32周年原水禁大会」を「分裂集会」と非難し、これを中止するように主張した。そこには「解散統一論」が垣間見えていた。彼らはこの年の「統一世界大会」を契機にして、「一挙に原水禁国民会議を解散に追い込み、年内に組織統一を実現してしまおう」という意図があったようである。つまり、原水協は「統一世界大会」を「統一行動」とはみなしておらず、組織統一の手段としようとしていたのだった。
 だが、これはそもそも無理な主張であった。この「統一世界大会」に参加した地婦連や日青協などの有力団体も、「統一世界大会」に参加することだけを決めていたにすぎなかった。こうして、この年の大会実行委員会は、残務整理をしたのち、年内に解散し、原水協の非現実的主張(解散統一論)は退けられた。この時点ですでに「解散統一論」は破綻したのである。
 それ以降、毎年、原水禁世界大会の趣旨に賛同する諸団体が「大会実行委員会」を結成して世界大会を準備し、大会が終わるやこの実行委員会を解散する、という「統一行動」のパターンが定着してくる。

●幻の「79大会実行委員会」と原水協

 ところが、1980年になると、原水協側が新しい動きを開始した。「統一行動」としての原水禁世界大会方式が次第に定着してくるのをみて原水協はあせりだしはじめたのだった。
 78年、79年の世界大会実行委員会は、国連軍縮特別総会(SSD−1、78年5月)への日本代表団を統一して派遣するために同盟も含めてつくられた、調整委員会をベースに帰国後発足したNGO懇談会を土台に構成され、世界大会を開催してきた。ところが、79年世界大会終了後、同実行委員会を解散するにあたって、混乱がひきおこされ、1980年2月19日には「幻」の「’79原水禁世界大会実行委員会」が開催されるという事態にまでいたり、80年世界大会の準備は大幅に遅れ、主催形式も大きく変更されることになったのである。
 「’79世界大会実行委員会」の解散のための実行委員会は、事務処理の遅れもあって79年中に開けず年をこえ、80年1月21日に開かれた。この実行委員会前に開かれた運営委員会で、(1)当日をもって実行委員会を解散する。(2)そのうえで速やかに80年世界大会準備のための組織をつくる、と確認していた。
 ところが、原水協・平和委員会は、「3・1ビキニデー」をも統一の実行委員会のもとで開くことをねらい(原水禁は3・1を各県で取り組む方針にしていた)、大会実行委員会の解散に反対し、同実行委員会での3・1集会の主催を主張しはじめた。これは、切れ目なく実行委員会を維持することで、統一の名のもとに原水禁の独自活動をしばろうとの意図がひそんでいた。運営委員会の全員一致で確認された解散方針について、実行委員会の席上で、共産党系の団体から反対の主張が繰り返され、議事が紛糾、事態収拾のため当日の議長団によって休会が宣せられた。運営委員会はあらためて協議した結果、確認の通り解散することを前提に、再開することのない「休会」となった。
 ところが、原水協・平和委員会は「休会」という表現を利用し、当日の議長団に働きかけ、議長名による「’79世界大会実行委員会」の召集を、何の相談もなく突然行なった。しかも召集の通知も選別して行われ、原水協・平和委員会に都合のよい運営を行なおうと策動したのである。
 だが、原水禁や労働団体が、この会議を承認しないという原則的態度をとったため、この大会実行委員会は公認されることなく、「幻」のものとなったが、原水協、平和委員会のこのようなルール破りの策動のため、80年世界大会の準備は大幅に遅れ、統一しての開催さえあやぶまれるにいたったのである。

●地婦連や日青協の努力が実る

 こうした市民5団体をまきこんでの「幻」の実行委員会の演出の一方、この年、日本原水協は、「1980年が原水協結成25周年にあたる」として、この夏に「独自集会」を開くことを決定した。これまで「統一集会」以外はまったく認めないと主張していた彼らの方針を公然と転換したのである。だが、これはある意味で当然の結果であった。
 原水協の「統一大会しか認めない」という主張が、そもそも非現実的であり、矛盾したものだったのである。原水協は、独自集会を公然と開くことを決めたことによって、彼らは自分たちの矛盾を認めざるをえなくなったのである。(この年以降、原水協は毎年「独自集会」を開いている)。
 原水協が独自大会を開くことと、2・19「実行委員会」の一方的開催による話し合いの停止によって、このままでは「世界大会」は開催不能となりかねない状況のなかで、地婦連や日青協は、「統一世界大会」を開催しようと必死の努力を開始する。やがて、この両団体の調整が実り、6月28日には、原水禁、原水協代表を含めた発起人集会が開かれるはこびとなった。この会議に出席した代表たちは、もはや前年まで採用してきた実行委員会方式は無理であると判断し、統一世界大会を準備するため運営委員会団体を中心とする「準備委員会」方式で運営することに踏み切ることになった。
 こうして、「統一世界大会」は、「大会準備委員会」の主催で開かれることになった。
 これ以降、世界大会は、この「準備委員会」方式で主催されることになったのである。さらに、「世界大会準備委員会」も、その年々の単年度の組織とすることとし、次年度の準備委員会の結成まで、切れ目なく協議ができるようにするため、「原水爆禁止連絡会」を構成することにしたのである。

●同じ過ちをむし返す日本共産党

 1983年になると、事態が少し変わってきた。「統一行動」として原水禁世界大会もすでに7回の実績を積み重ねてきており、日常的な情勢に応じた、共通課題で諸行動をタイミングよく実行すべきだという気運も高まってきた。
 このようななかで9月、「’83原水禁世界大会準備委員会」を解散するにあたって、日常的な統一行動を行なえる組織をつくることが話題となった。
 1963年以来の貴重な経験を生かし、智恵を出し合うことが「作業グループ会議」に求められ、さまざまな案が検討された。結局、継続的行動ができるような組織として「原水禁運動連絡委員会」をつくることを全員一致で決めた。
 ところが、この確認を行なってから間もなく、原水協と平和委員会が、突然、「原水禁運動連絡委員会は困る」と申し入れてきた。いったんは合意した「連絡委員会」に突如として反対しはじめたのである。この背後には、共産党の介入が歴然とあった。
 日本共産党は、この「連絡委員会」ができると、名実ともに原水禁国民会議との統一行動を認めることになると判断し、「この方式は分裂の固定化になる」と主張しはじめたのである。かねてからの持論である「解散統一論」をまたもや持ちだしてきたのである。
 1984年になって日本共産党は、再び原水禁運動に露骨な介入をはじめることになった。84年2月になると、原水協、平和委員会、反安保・諸要求貫徹実行委員会の共産党系3団体が「トマホークくるな!国民運動連絡センター」をスタートさせた。トマホーク反対という国民的課題に対して、広範な国民の統一行動をめざすのではなく、共産党だけの団体を集めてセクト的な運動をしようというのだ(さすがに科学者会議はこれには参加しなかった)。
 巡航核ミサイル・トマホーク搭載艦の日本寄港は、非核三原則への真っ向からの挑戦であり、これを許すか否かは、わが国の反核運動の最大の課題となりつつある。この重要な時期に、共産党は最もセクト的路線を全面に押しだしはじめたのである。
 「’84原水禁世界大会準備委員会」は、3月30日に発足したが、その直後から、『赤旗』(4月3日、4日)が、原水禁、総評を「分裂主義者」と非難し、一方的なキャンペーンを開始した。そこで主張されている基本的な組織論は、またしても「解散統一論」であった。大衆行動への政党による公然たる介入をも示すものであった。
 だが、このような暴論は一般社会で通用するはずもない。これでは、せっかく積み重ねられてきたこれまでの運動の統一や統一行動に水をかけるにすぎない。地婦連、日青協、生協連、婦人有権者同盟なども、共産党のこの独善的主張に反発しはじめた。世界大会準備委員会のまとめ役である地婦連の田中里子事務局長は、『赤旗』のこのキャンペーンに見かね共産党本部に「この大事な時期に、なぜ、運動の統一を妨げるような論文を出すのか」と申し入れをしたほどである。
 『赤旗』でのキャンペーンが強まれば強まるほど、原水協内部での対立と動揺も深まらざるをえない。原水協内でも、「現実派(共闘路線派)」は、余りにも露骨な共産党のセクト路線についていけず、反核の統一行動に期待をかけている。他方、共産党の指令のみに忠実な「セクト派(独自路線派)」は、党本部の「虎の威」をかりて、他団体の中傷とヒボウに明け暮れている。こうして、原水協内の「現実派」と「タカ派」との対立と葛藤が激しさをましていったのである。「解散統一論」は、破綻しようとしている。

●世界大会と個人の排除

 さらに原水協では、草野理事長と吉田副理事長を一方的に解任、日本平和委員会でも森事務局長を更送するという事態が発生した。が、これは、幅広い原水禁運動を考える人たちへのパージであった。
 84年の年の夏に開催された世界大会は、大会に参加しようとする草野、吉田両氏を阻止しようとする原水協系の人たちによって大きく混乱したのである。
 85年、被爆四〇周年の原水禁世界大会を開催するにあたって、日本原水協と日本共産党は、草野、吉田両氏をはじめ、両氏を支持する人々を大会から排除するためには、これまで原水禁運動に関わってきた個人すべてを排除しても構わないという方針を打ち出し、市民団体もまた世界大会の開催を最優先にする方針をとり、こうした両者の間に挟まれて、結果的に原水禁も、個人を排除する世界大会に手をかす誤りをおかす結果になった。
 このような大会が混乱したのは当然といえよう。しかしそれは同時にこれまでの原水禁運動が追求してきた理念を放棄した大会でもあった。
 原水禁は、昨年のような大会の開催は、原水禁運動の自殺行為であり、二度と過ちを繰り返さないとの総括を行なったのである。
 私たちは、一切の核の廃絶された非核社会の実現をめざしているのであるが、その比較社会とは、たんに核がないだけでなく、差別や、抑圧や、貧困からも解放された社会と考える。それは今日の核が、現代社会のまさに人間性を切り捨てるパワーの象徴とみるからである。そしてこのような非核社会をめざす以上、そのための一つの手段(重要ではあっても)としての原水禁運動で、差別や抑制をつくりだすことはできないと考えるからである。
 昨年、市民団体といわれる地婦連や、日青協、生協連、日本被団協等は、大会実行委員会を呼びかけるにあたって、幅広い団体・個人を結集して実行委員会を構成すると、繰り返し主張しながら、原水協の反対の前に、その立場をずるずると後退させ、個人を排除した大会となってしまった。
 それは市民団体が、どのような非核社会をめざすのか、そのためにどのような原水禁運動を進めるのかという理念もないままに、世界大会の開催だけを自己目的にしてきた結果といえよう。
 もし昨年、市民団体が原水協の排除の論理に、毅然として反対していたならば、大会実行委員会から個人が排除されることはなかったのである。

●1986年、市民団体の動きと矛盾

 86年の6月以降、市民10団体(地婦連、日青協、被団協、生協連、婦人有権者同盟、主婦連、日本山妙法寺、草の実、宗教NGO、WILPF)は、5月、「市民団体平和サミット」として集めり、独自の平和行進について話しあい、5月31日、「平和行進」を出発させた。
 6月以降、市民10団体は、「平和運動市民団体会議」として、世界大会問題について協議を開始した。
 6月10日、多くの市民団体から、昨年のあり方が正常なものではなかったと指摘され、その反省のうえに市民団体として「主体性をもって世界大会を計画し、他団体に呼びかけること」、市民団体として結集し、接着材の役割は果たさないことが申し合わされ、「誰でもが参加しやすく、理解できる大会」「幅広い世論にこたえられる大会」で一致した。
 6月15日、同会議は、「原水禁、原水協を含めた広範な団体、個人が参加できる統一された世界大会」を呼びかけると確認したが、昨年の大会についての市民団体の責任や、原水禁運動の今日のあり方など、基本的議論はおきざりのまま、世界大会の統一的開催の条件を、どう整えるかといった議論に集中することになった。
 市民団体は、主体性をもってのぞむとしながら禁・協を含む大会の統一的開催”を大前提にすることによって、自ら、禁、協の間にたって、接着材的役割を買ってでる結果をつくりだしたといえよう。
 日本原水協は、市民団体のこの動きに早くも16日、支持表明を行なった。
 市民団体は、6月21日、85年一番問題になった大会実行委員会の構成について、とにかく「77年の統一大会開催以来のすべての団体・個人に呼びかけ、実行委員会を構成する」ことで、一応の合意をえた。
 昨年の大会についての自己批判がないとはいえ、さまざまな団体の寄り集まりとしては、精一杯の方針であり、もしこの方針を市民10団体が貫くとしたら、それは昨年よりも大きく前進したのかもしれない。
 だがこうした市民団体の方針を伝え聞いた日本原水協は、「これまでは大会実行委員会のなかで、翌年の大会について議論してきた。市民団体が一方的に団体・個人に実行委員会の呼びかけを行なうのはルール違反である」と一転して市民団体の動きを抑える申し入れを行なった。
 日本原水協は77年以来……では具合が悪いのである。昨年の個人を排除した実行委員会を開催するなかで、今年の大会をどうするかを議論し、結論がでないままに、昨年と同様、時間切れをねらい、今年も個人を排除して、世界大会を開催しようと考えたのである。
 ここで市民団体にとって、問われたのは、市民団体としての自主性であり、原水禁運動の原則的な態度の確立であった。
 しかしこの申し入れをうけたとたん、日本被団協の代表や生協連の代表は、これまでの確認を反古にして、まず85年世界大会実行委員会を開催しそれをベースにして86年世界大会を構成しようと主張しはじめて、今度は市民10団体の間で対立をつくりだした。
 市民10団体は、これまで原水禁世界大会に関わってきた関係上、結束して行動することを確認していたが、ここにきて、はっきりと原水協の立場にたった団体と、あくまで市民団体の自主性を保とうという団体の違いが生じ、対立を生みだしたのである。
 その結果、確認事項は昨年と同じように、加速度的に後退をしはじめた。当初、「77年以来の、……に呼びかける」と確認したことが、「……に呼びかけること原則とする」に変化し、最後は「……をベースにする」と、あいまいな表現になったのである。原水協は、その中で、「85世界大会実行委員会」ベースとすることを主張しつづけ、そして日本被団協や生協連は、あくまで統一世界大会の開催をと主張しつつ、実際は原水協の立場を支持する姿勢をとり続けたのであった。
 しかし市民団体という以上、少なくとも多くの個人の連合、もしくは結集体と考えてよいだろう。その市民を名乗る団体が、不本意であろうとも、個人を排除した大会を開催したことに、なにひとつ自己批判もせずに、しかも原水協からの申し入れをうけたとたんに、またゆれ動くという状態では、もはや中立的と評される市民団体を名乗る資格はないといえよう。
 もちろんこれは、市民10団体全部にいってるのではない。昨年の事態を反省している団体もあり、だからこそ「77年以来、世界大会に関わってきた、すべての団体・個人による実行委員会」の結成という方針がでてきたといえる。
 原水禁国民会議はこの事態を予見して、7月10日に『86世界大会」問題に関する基本見解』を発表し、市民団体が、昨年の実行委員会の延長上に「86世界大会」を構想する以上、いかなる弁明や、条件が示されていようとも、その呼びかけに応えることはできないことを、明らかにした。
 原水禁としては、市民団体が市民団体として、今後とも原水禁運動の一翼を担うことを期待するのが故の批判である。
 市民団体は、7月11日、原水禁の「見解」をうけ、世界大会を断念し、独自の集会を考えようとの動きが強まった。しかし、なお努力すべきだとの主張の前に「85世界大会実行委」の開催の可能性が模索されはじめた。
 7月15日、16日と2日間にわたる市民団体会議は、別記の確認事項とともに、「85世界大会実行委」の事務局長、佐々木計3氏に対し、「85世界大会実行委員会問題について」ということで、開催の打診を依頼した。
 同日、総評定期大会が開催されており、総評議長のあいさつをうけて、統一労組懇系単産から、世界大会の開催に関しての「修正案」が提出された。
 7月17日、「85世界大会実行委員会」の開催は、全団体がそろわないとして、申し合わせ通り、開催しないということになり、市民団体は21日の会合で、独自集会を行なう議論へ移行することとなった。
 この結論を待っていたかのように、原水協は17日、午後3時から学士会館で、「86世界大会準備連絡会議」を開催するむねを一方的に市民団体および原水禁、総評などに電話連絡し、「86世界大会」と詐称した大会の準備に入った。
 このような一方的な動きに、総評は事務局長答弁で、「再び一緒にやることがあるかもしれないが、今年は統一した大会はできない」と答弁し、統一懇系労組から提出されていた修正案は否決された。
 市民団体もまた、8月5日に広島で独自大会を開催することに決めた。ここに集めった人々が自分たちの非核社会をどのようなものとして考えているのか、昨年来の私たちの問いかけに答えることを期待したい。
 運動の基本理念を否定してまで世界大会を開催したところで、運動の前進にはならないのである。

●原水禁運動の発展をめざして

 1977年以来、原水禁、原水協、市民団体を中心に開催された世界大会は、1986年、被爆41周年目の記念日を前にして、決裂が決定的となった。残念ではあるが、運動の発展のためにはやむをえない。
 原水協は、原水禁や総評に世界大会を開催する気がないといって、自分たちだけで世界大会を詐称して開催する方針を出した。しかし原水禁としては85年のような個人を排除するような大会だけは、絶対に開催するわけにはいかなかった。そのような大会を開いたところで、運動の前進には何の益するところもないと考えたからである。
 日本の原水禁運動は、その出発当初から、運動を支配しようとする政党との関係において、絶えず混乱を繰り返してきた。


14、原水禁運動の発展をめざして

●1982年の世界的な反核の波

 1981年10月の国連軍縮週間ころから、ヨーロッパの各地で反核の運動が急激に燃え広がった。レーガン米大統領が「ヨーロッパの前線で戦術核兵器を撃ち合うような核戦争がありうる」と述べたいわゆるヨーロッパ限定核戦争の発言は、燃え広がる反核の炎をさらに激しくした。
 1982年6月の第2回国連軍縮特別総会にあわせてニューヨークでは100万人を超す反核集会(6月7日)が開かれた。残念ながら議場の中での具体的な成果は乏しかったものの、1980年代前半の反核運動を象徴する取り組みとなった。
 1982年の反核運動の盛り上がりは、以前とはひと味違った新しい流れを感じさせるものであった。従来からの運動体だけではなく、法律家、文学者、科学者、音楽家、写真家など多様な階層の人々が様々な声明・宣言を出し、反核の動きに合流してきた。地方自治体でも多くの決議が行なわれた。運動のスタイルも、例えば反核家族宣言を出して回りに広げていく、高校生が自発的に学習会を組織する、グループごとに手紙を出すなど、音楽や映像を活用した集会など、草の根からの若々しいエネルギーが、新しい参加者を運動に引き入れ反核の波をつくりだすことにつながったといえる。「SSD2に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」は3000万人署名運動に取り組んだ。
 82年1年間で、政府に送られた意見書は1400通にのぼる(34道府県、303市、1050町村/決議を含む)。約3300の自治体のうち約半数が反核の意思表示をしたことになる。これらの意見書は内容的にも形式の上でも、かならずしも満足できるものではなかったが、なおかつ「公」の機関が市民の前でこうした反核を約束した意味は小さくない。.

●「核兵器廃絶運動連帯」の取り組み

 85年の世界大会の混乱と停滞の一方で、4月21日に「核兵器廃絶運動連帯」が発足した。
 これは「地域に根ざした草の根をはじめ、さまざまな個人、団体がこれまでそれぞれの立場で、それぞれの手法により、核兵器廃絶と被爆者救援法のために努力してきました。これらの努力が思想・信条・宗教の違いをこえてゆるやかでも大きく一つにまとまり」「核兵器廃絶の一点」で大きく手をつなごうというもので、これまでに呼びかけ人を含めて、個人44人、団体30、自治体95が参加しており、多くの個人や新しい団体が参加しているほか、非核平和都市宣言を行なった自治体が多数参加してきているのが特徴であった。
 そして「連帯」が提唱して、7月31日から8月1日にかけて、「国際平和年のつどい」と「国際フォーラム」が開催された。これは「連帯」を英語でネットワークと呼ぶことが示すように、「連帯」のなかのさまざまな異なった意見、立場の人々が、核兵器廃絶のための積極的なイニチアシブを発揮し、運動の前進をはかろうということで、「連帯」が主催するのではなく、「連帯」に参加している有志によって企画された国際会議である。
 「連帯」の呼びかけ人に、元自民党の大石武一氏や核禁会議の磯村英一氏などが名を連ねていることを理由に、原水禁運動の新たな変質・分裂をもらたすものだとの中傷が、原水協と共産党から行なわれたが、むしろ過去2年間、核兵器廃絶の国際協定を求める署名運動だけに埋没し、さまざまな具体的課題をなおざりにしてきた原水協こそ、批判されなければならない。

●国際世論の力、平和運動の力

 国連のワルトハイム事務総長が、1980年9月に第35回国連総会に提出した「核兵器の包括的研究」と題する報告書には次のように書かれていた。「必要なことは、自国の安全保障のよりどころを核兵器体系からもう一つの普遍的に受け入れられる体系に移す政治的意志を、すべての国のあいだで、遅すぎないうちに生み出す強力な世論の創出である」
 核軍縮を核兵器を持つ国の政府の間の交渉にまかせておくことでは、消し核兵器が無くなることはないだろう。せいぜい互いの核戦力をバランスさせるにはどうするかといった程度の合意がなされるだけのことである。核兵器を廃絶させるには、核兵器よりずっと大きな力、世論の力・運動の力が必要なのである。


※80年代末以降の経緯については、追加して書き下ろす予定です。
※ネタもとは86年7月原水禁刊の『原水禁運動の再生を求めて』、同じく原水禁発行の、『原水禁運動の歴史と教訓―核絶対否定の理念をかかげて』、『核のない社会をもとめて――原水禁運動の歴史と教訓』の記述をベースに野崎の責任で構成しています。