核時代のはじまり


1、 原子爆弾開発の歴史

ナチス・ドイツの脅威

 凄まじい破壊力を持つ原子爆弾。このようなおぞましい兵器はなぜ兵器がなぜつくられてしまったのか、 その歴史を省みるには、 その時代状況を考えておく必要があります。
 第二次世界大戦はそれ以前の戦争と違って、ハーグ平和会議で法典化された 「陸戦の法則慣例に関する条約」 (1907年) などで禁じられていた掟破りの大量殺戮がしばしば行なわれました。 非戦闘員に対する殺戮や無差別爆撃、 毒ガスの使用などです。 原爆がつくられた背景には、 こうした人倫にもとる状況が広く存在していました。 その意味で、 原爆は、 まさに戦争の落し子でした。
 原爆の開発は、 ナチスの支配するドイツが原爆を開発するかもしれないとの恐れに動機づけられていました。 ドイツに占領され、 迫害された人々には、 「もしドイツが原爆を手に入れたら…」 との危機感がつのっていました。 ドイツには核分裂を発見したオットー・ハーンなど有力な研究者がいたこと、 ザクセンにウラン鉱山が存在したこと、 世界で最も古いヨアヒムシュタールウラン鉱山のあるチェコスロバキアを占領し、 ベルギー領コンゴのウラン鉱山やノルウェーの重水工場を手に入れていたこと、 などが背景にありました。

原爆研究のはじまり……イギリス

 原爆の研究は、 最初、イギリスではじまりました。ヒトラーのユダヤ人迫害から逃れた二人の物理学者、 オットー・フィリッシュとルドルフ・パイエルスが、 ウラン235の核分裂連鎖反応の臨界量を計算したところ、 実に、 わずか450グラムほどでしかないとの見積もりをえたのでした。 それは、 すでに開発されているウラン濃縮技術を使って原爆がつくれることを意味しています。 二人はドイツもすでにこれを知っているのではないかと考え、 事態の緊急性をメモにしてイギリス政府に通報しました。 これが 「フィリッシュ=パイエルス・メモ」 です。

「(ウラン235を使うというアイデア) の可能性を検討し、 適当な分量のウラン235によって非常に効果的な爆弾が構成できるだろうという結論に達した」 (「第一メモ」) 「もしかりにドイツ人がこの兵器を現在所持しているか、 将来所持すると仮定した場合、 ……もっとも効果的な応戦は、 同種の爆弾による対抗的脅威であろう。 攻撃のために爆弾を使用するつもりがなくても、 できる限り早く、 迅速に生産を始めることが重要だと私たちには思える」 (「第二メモ」1940年2月)

 イギリス政府はこのメモを重視して、 物理学者を中心に原爆の詳細を検討する 「モード (MAUD) 委員会」 をつくりました。 そしてその勧告をうけて、 原爆を開発する首相直属の暗号名 「チューブ合金 (アロイ) 理事会」 という機関がつくられました。 しかし、 イギリス政府は、 戦費を賄うのに手一杯であり、 ドイツの爆撃が激しくなったこともあり、 北米大陸での原爆開発を望むようになります。
 こうした働きかけの一つとして、 原爆の製造に必要な条件を詳述したモード委員会の報告書が、 アメリカに提供されました。 アメリカが原爆の開発を決定したのは、 バンネバー・ブッシュ科学研究開発局長官がフランクリン・D・ルーズベルト大統領にモード委員会の報告書について提言をした直後です。 それゆえ、 原爆開発の起源は、 フィリッシュ=パイエルス・メモにあるといえます。

マンハッタン・プロジェクト……開発の舞台はアメリカに

 一方、 アメリカでは、 原爆に注意をむけるようにという、 有名な 「アインシュタインの書簡」 (1939年) がルーズベルト大統領に届けられます。 この書簡は、 レオ・シラードが草稿を書き、 ユージン・ウイグナー、 エドワード・テラーと一緒に高名なアルベルト・アインシュタインを説得して、 署名してもらったものです。 この三人の物理学者は、 いずれもヒトラーの迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ人でした。 ルーズベルト大統領は、 アインシュタインの書簡に応えて、 国立標準局の下に 「ウラン諮問委員会」 をつくりました。 しかし、 ウラン諮問委員会の報告は具体性に欠けていたので、 大統領の注意を惹かず眠ったままとなっていました。 そこに、 イギリスからモード委員会の報告書が届いたのです。
原爆の開発を決定した直後には、 原爆に関連する政策を掌握するため、 ルーズベルト大統領、 ハリー・トールマン副大統領、 ヘンリー・スチムソン陸軍長官、 G・C・マーシャル参謀総長、 バネバー・ブッシュ科学研究開発長官 (科学者)、 ジェームス・コナント科学行政官 (科学者) によって、 後にいう 「最高政策グループ」 がつくられました。 ウラン諮問委員会もブッシュ科学研究開発局長官が管轄する 「S1課」 (Sはスーパーで原爆を意味する) に改組されます。 また原爆の開発を決定した後で、 アメリカ科学アカデミーにモード委員会の報告書を再検討させます。 この意図は、 科学者を原爆開発にかかわらせるためであったと考えられます。 こうしてアメリカは、 本格的に原爆の開発に乗り出したのでした。
 1942年8月13日には、 レスリー・グローブス将軍の指揮する 「マンハッタン工兵管区」、 すなわち、 莫大な費用と科学・技術者を総動員した原爆開発計画、 マンハッタン・プロジェクトが正式に発足しました。 ニューメキシコ州ロスアラモス、 ワシントン州ハンフォード、 テネシー州オークリッジなどに原爆を製造するため大規模な施設が続々とつくられ、 その中心となったロスアラモス研究所の所長には物理学者のローバト・オッペンハイマーが任命されました。
 こうして、 人類最初の原爆実験が、 1945年7月16日にロスアラモス近郊のアラモゴードで行なわれたのです。


2、 原爆投下の背景

原爆開発の謎

 最初の原爆が爆発してからすでに半世紀以上がたちました。 この間に公開された秘密文書などによって、 原爆開発の謎の幾分かが明らかになってきています。 一番大きな謎は、43年の末には、 ドイツが原爆を開発していないことが明らかだったのに、 アメリカで原爆開発が続けられたのはなぜか、 ということでした。
 原爆の開発にはマンハッタン・プロジェクトのような巨大な施設群が必要ですが、 ドイツ国内にはウラン濃縮工場のような大規模な施設はありませんでした。 フランスの物理学者ジョリオ・キュリーはドイツは原爆を開発していないとの情報をイギリス政府に流していましたし、 43年の夏にはイギリスの秘密情報局もドイツは原爆を開発していないとする公式の報告書をアメリカに渡しています。 さらに、 アメリカのグローブス将軍が指揮するアルソス科学情報調査団も、 ドイツは原爆を開発していないとの調査結果を報告しています。

  「われわれが入手した情報からは、 ドイツが本格的に原子爆弾の開発を行なっていることを裏付ける証拠は発見できませんでした。 ドイツは核兵器の開発に関する調査検討を行なったのちに開発を放棄したものと思われ、 現在この分野に関するドイツの研究は、 国内の科学雑誌に発表されている程度の学術的かつ小規模な物にとどまっているものと考えられます」 (「アルソス調査団からグローブス将軍への報告」1944年1月)

それでもなお原爆の開発が続けられた背後には、 いくつかの理由がありました。 これまで一般に広く信じられていたのは、 アルソスの科学面での責任者であったサムエル・A・ハウトスミットが主張していたように、 科学者たちは戦後までドイツが原爆の開発をしていると思いこんでいた、 というものです。
 しかし現在では、 まったく違った見方がされています。 それは、 ドイツが原爆を開発していないとの情報は故意に隠ぺいされていた、 というものです。 ドイツが原爆を開発していないことが明らかになれば、 科学者や技術者が原爆開発から手を引く恐れがあったためです。
 また、 マンハッタン・プロジェクト自体が秘密にされていたこともあって、 議会でも原爆の問題はまったく論議されませんでした。 軍の総司令官たち自身も、 原爆が投下されるまで蚊帳の外におかれていました。 たとえば、 太平洋戦線の海軍のチェスター・ニミッツ総司令官、 陸軍航空団のカール・スパーツ総司令官、 太平洋軍最高司令官のダグラス・マッカーサーや欧州軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワーも、 原爆投下について何の協議にも加わっていませんでした。 このことは、 情報の秘匿のゆえに原爆の開発を規制する仕組みがなかったというだけでなく、 原爆の投下が軍事戦略のうえで必要だったわけではないことも意味します。 その辺の雰囲気を伝えるものとして、 アイゼンハワー総司令官 (後に大統領) が、 彼の 『日記』 にスチムソン陸軍長官から日本へ原爆を投下することを知らされたときの模様を記しています。
  「そこでスチムソンが、 原爆が完成していていつでも落とせる、 という電報を見せた。 ……これを日本へ落とすというのだ。 ……だが思うだに気が滅入った。 彼は私に意見を求めたから二つの点で反対だと言った。 まず日本は降伏しかかっているから、 そんなひどいものを落とす必要はない。 第二にそんな兵器を、 わが国に最初に使ってもらいたくない、 と。 スチムソンはカンカンになった。 それももっともだ。 原爆開発のため莫大な予算をとったのは彼の責任でもあり権利でもあり、 正しいことだった。 でも、 ひどい話だった」
 ナチスに対抗するという最初の動機が失われた後も、 原爆の開発に大量の資金が投入されていたために中止することができず、 なにがなんでも原爆を使わざるをえなかったというのが実相ではないでしょうか。 「(マンハッタン) 計画が失敗と決まれば、 あくなき調査と批判にさらされよう」 (ジェームス・バーンズ国務長官) との恐れが、 スチムソン陸軍長官をして、 原爆の投下という愚行に走らせたのかもしれません。

必要がなかった日本への原爆投下

 1945年に入ると、 日本の敗戦は誰の目にも決定的になっていました。 資源の補給線はアメリカ海軍によって完全に遮断されており、 国内の産業基盤は爆撃によって破壊されつくしています。 原爆を使わなくとも降伏は時間の問題でした。 実際、 日本はドイツが降伏した直後からさまざまなチャンネルを使って、 降伏条件を探っていましたし、 アメリカ政府も、 日本が降伏の機会をうかがっている事実を知っていました。
 アメリカでは日本の降伏条件について、 無条件降伏か、 それとも天皇制維持を条件として認めるかの議論が続いていたのです。 たとえば米英統合参謀本部の全員が 「天皇を中心的権威をして存続させるのが有利である」 という意見で一致していましたし、 国務長官代理のジョセフ・C・グルーも 「日本国民に降伏を呼びかけるが、 天皇は国家元首に留まることを許す旨の宣言をだしてはどうか」 と提案していました。 同じように、 日本への原爆投下についても、 原爆の投下によって戦争を終結させるか、 それとも原爆投下の警告だけにするかが議論されていました。 そのうえ、 ソ連は43年にヨーロッパの戦争が終わり次第、 対日参戦するとアメリカに約束していました。 ソ連が参戦すれば戦争が終結するのは火を見るより明らかです。 しかし、 こうした議論とは関わりなく日本への原爆投下は少数の人々の手によって決められていきました。

  「すべてはスチムソンとグローブスの手ですすめられていた……。 私が真の状況を知ったのは、 しばらくたってからのことである」 (ラルフ・バード海軍次官)

 日本への原爆投下が実質的に決定されたのは、 ルーズベルト大統領が死去した45年4月12日の直後です。 つまり、 ハリー・トルーマンが新しい大統領となってすぐに原爆の投下が決められました。 それは、 トルーマン大統領と原爆開発の責任者であったスチムソン陸軍長官、 マンハッタン・プロジェクトを指揮していたグローブス将軍が会談した時だと推測できます。 なぜなら、 この会談の二日後の4月27日にグローブス将軍が召集した 「目標選定委員会」 で、 日本への原爆投下を前提として、 いろいろな問題が検討されているからです。
 日本への原爆投下の理由としてあげられているのは、 原爆によって 「強力なショック」 を与えることができれば、 「天皇と彼の軍事顧問たちに降伏の決断をさせられる」 (スチムソン) からでした。 そして、 降伏を早めることによって 「50万人から100万人」 (トルーマン) もの米兵の命を救うことができる、 というものでした。 しかし、 少し考えてみれば明らかなように、 この理由には多くの疑問があります。
 前に述べたように、 日本の降伏の意志はすでに明らかでしたし、 「強烈なショック」 という意味でなら東京大空襲などで達せられていたはずです。 「50万人から100万人」 の生命の損失というのも、 アメリカ統合参謀本部が九州などを含む全上陸作戦で日本軍を撃滅したと仮定して 「戦死者4万人、 負傷者15万人」 という数字をあげていることと明らかに異なります。 日本への原爆投下は、 こうした理由によるのではなく、 膨大な資金を投入して原爆をつくったため、 その成果を示さなければならなかった。 そこで 「戦争の終結」 という名目をつけて日本に投下した、 というのが本当のところではないでしょうか。
 日本への原爆投下は、 政治的な意味も軍事的な意味もない、 無意味な大量殺戮でしかなかったのです。 とりわけ、 長崎への二発目の原爆投下は、 標的が住民だったという一事をとっても、 まったく不必要な殺戮です。 それは、 アメリカの歴史にとっても、 悲劇的な大きな汚点だといわなければなりません。【※資料:原爆投下指令


3、 投下された原子爆弾

ヒロシマとナガサキ

 1945年8月6日。 太平洋のテニアン島から三機のB−29が飛び立ちました。 ポール・W・チベッツ大佐の操縦する 「エノラ・ゲイ」 号は、 「リトルボーイ」 とよばれるウラン型 (砲身型) の原爆を広島に投下するよう命令されていました。 エノラ・ゲイは午前8時15分に広島の上空に進入、 高度9600メートルの上空から原爆を投下。 落下傘につるされた原爆は、43秒後に原爆ドーム (旧広島県産業奨励館/厳密には原爆ドームそばの島病院の上空) 上空580メートルで炸裂しました。
 3日後の8月9日には、 チャールズ・W・スウィニー少佐の操縦する 「ボクス・カー」 号が 「ファットマン」 とよばれるプルトニウム型 (爆縮型) の原爆を搭載して、 最初の攻撃目標である小倉に飛来しました。 しかし小倉上空は厚い雲に覆われて目標が目視できません。 そのため第二攻撃目標である長崎に向かいました。 長崎の上空も雲に覆われていましたが、 わずかに雲の切れ目があり、 午後11時2分、 二発目の原爆がその雲の切れ目から投下されました。 原爆は、 松山町の交差点南東約80メートル (原爆中心碑横30メートル) の上空503メートルで炸裂しました。


広島と長崎に投下された原子爆弾
 

広島

長崎

名称 Little Boy - ちびっこ Fat Man - 太っちょ
形式 ウラン235/砲身型 プルトニウム239/爆縮型
外形 長さ3m、直径0.7m、重さ4t 長さ3.5m、直径1.5m、重さ4.5t
威力 TNT火薬約15キロトンに相当(核分裂したウラン235は1キログラム弱) TNT火薬約21キロトン相当(核分裂したプルトニウム239は約1キログラム強)
爆発時刻 1945年8月6日午前8時15分 1945年8月9日午前11時2分
爆発地点 原爆ド−ム(当時の広島県産業奨励館)に近い、島病院の上空、高度580m 長崎市北部の浦上、松山町171番地のテニスコートの上空高度約500m付近
エネルギー 爆風50%、 熱線35%, 放射線15% 爆風50%、熱線35%、放射線15%
影響 爆風は、爆心地から約4km 地点まで、熱線は約3.5km 地点まで、また、放射線は約2km 地点まで達した 爆風は、爆心地から約5Km地点まで、熱線は約4Km地点まで、また、放射線は約2.5km地点まで達した。
人的被害 直接被爆者は34万人〜35万人と推定。1945年12月末までに約14万人(誤差±1万人)が死亡されたと推定され、そのうち軍人の死亡者数は2万人前後。これら以外に多数の朝鮮人が直接被爆したと考えられている。1950年10月までに20万人。 人的被害当時の人口約24万人のうち12万人強が罹災したと推定。1945年12月末までに7万(誤差±1万)人が死亡と推定。1950年10月(戦後初の国勢調査)までに14万人。
建物被害 全壊全焼62.9%、全壊5.0%、半壊半焼大破24.0% 全壊全焼22.7%、全壊2.6%、半壊半焼大破10.8%
外形


ポツダム宣言と国体の護持

 広島と長崎に原爆が投下されたのは日本にも責任がないとはいえません。 日本への原爆投下がアメリカ国民に受け入れられた背景には、 バターン半島の死の行進や、 20万人以上もの命を奪ったといわれる南京虐殺、 そしてパールハーバー (真珠湾攻撃) などの日本軍の野蛮な行為がありました。 南京での大虐殺や、 パールハーバーでの戦時法の無視 (宣戦布告前の襲撃) などは広く世界に知られており、 日本への原爆投下を正当化する理由となったのです。
 1945年5月7日にドイツは降伏しましたが、 日本陸軍は本土決戦を呼号し続けていました。 7月26日にトルーマン大統領は、 日本に対して 「ポツダム宣言」 の受諾を勧告しました。 ポツダム宣言は、 天皇制について触れずに、 日本の将来の統治形態について 「日本国民が自由に表明せる意志に従い」 決めるとしか書かれていませんでした。 それで、 日本政府の中では 「国体 (天皇制) の護持」 は保証されるのかどうかという解釈をめぐって紛糾していました。 こうして多くの住民を犠牲にした沖縄戦の後になっても、 ポツダム宣言を無視し続けていたのです。 原爆が投下された後の8月10日になって、 ようやく天皇自身が 「自分は護持された」 と解釈して、 ポツダム宣言を受諾しました。 すぐにポツダム宣言を受諾していれば原爆の投下はなかったはずなのです。


本稿は、坂本国明氏(核問題調査室長/元原水禁国民会議事務局次長)と野崎(社会民主党政策審議会事務局/元原水禁国民会議事務局次長)が執筆したものを使用して、野崎がまとめたものです。文責は野崎にあります。