さようなら、ありがとう、ノアローちゃん。(ペットロス編)
 2010年5月13日午後10時25分、愛するノアローは永遠の眠りにつきました。

 大好きなパパに撫でられ、最期は緩やかに眠るように息を引き取りました。

 ノアローにしてみれば、一休みするだけのつもりだったのかも知れませんが、パパが「ネンネ、ネンネ」と起きることを制したから、素直にネンネしてしまったのでしょう。

 そして、ノアローは体を失い、魂という不確かな存在になってしまいました。

 11年以上も共に暮らし、愛して、それは大事にしてきたかけがえのない存在がこの世からなくなったのですから、その喪失感、悲しみは、今まで経験したこともない苦しみでした。

 家の中を歩き回り、ノアローの影を追い掛ける・・・。いるわけもないのに。

 「ノアローちゃん、どうしていないの?どうして死んじゃったの?」と。

 そして、嘆き、悲しみ、慟哭する・・・。

 そうしている内に、それまであったノアローの気配まで遠くなり、家の中にある静寂が耳を圧迫して耳鳴りがする・・・。

 四六時中、ノアローがいない空虚感に苛まれ、それを嘆き、あらゆる辛い事を思い出しては後悔の涙を流す・・・。

 「もう、二度と、あのノアローと過ごした楽しい輝くような日々は戻ってこない」

 そう思うと背中がゾクゾクするような、なんとも制御しがたい悲嘆が襲ってきて、息苦しいほど苦しかったです。

 泣いても泣いてもどこにも救いはない。それがわかるから尚悲しくて泣いてしまう・・・。

 でも、ノアローが死んだ理由は明らかなのです。

 寿命が来た。それ以外にないのです。

 様々な形、病気はあっても、動物は年老いていき、やがて肉体の機能が衰え病気になって死んでいく事が自然の摂理です。

 その事を無視して、ノアローだけが誰よりも元気で誰よりも長生き出来るはず・・・。

 そんな傲慢な気持ちがあったからこそ、ノアローの死を受け入れられず、とてつもない苦しみに遭遇する羽目になったのだと思います。

 「この幸せが永遠であれば良いのに」

 幸せな人なら誰でもそう思うでしょう。でも、逆を言えば、永遠がないからこそそう望まずにはいられないのかもしれません。

 私は毎晩、ノアローと一緒におネンネしていましたが、それが好きで幸せで、よく「ああ、幸せだな〜。すごい幸せ」などとはしゃいだものです。

 今、思い返してみれば、その時、「この幸せもいつかは終わる」と否定的に考えず、ただただ、そこにある幸せを貪り幸せに浸っていた自分は幸せ者だったなぁと思います。

 それが正しい生き方で、それこそが、ノアローやワンコの生き方なのです。

 叶わぬ事を願い亡者のように彷徨うよりも、私がすべきことは、ノアローの生き方を学び尊重することです。

 ノアローちゃんは、私たちにとって特別な存在で、人間でも犬でもありませんでした。

 だから、時々、夫と二人で「ノアローって人間みたいだね。犬には見えないね」などと言っていたのでしょう。

 でも、ノアローは特別な愛する存在であると同時に、ラブラドール・レトリーバーという大型犬でもあったのです。

 そして、そのラブラドールの生涯を生き、寿命を全うしたのです。しかも12歳(繰り上げ)という年齢は、大型犬として不足のない年齢です。

 真っ黒ラブラドール・ノアローちゃんは、家族の誰からも愛され大事にされチヤホヤされ、ご機嫌な幸せな生涯を目一杯生きたラブラドール・レトリーバーだったのです。

 そこに行き着くまで、とても苦しかったです。

 この苦しみが何日も続けば、自分は駄目になってしまうんじゃないかと本気で心配し始めました。

 ここでは詳しくは書きませんが、その私を助けてくれたのは長くお付き合いして下さっているお友達ですが、間接的にノアローやその方のワンちゃんなど、死後の世界から見守っている魂の手助けがあったと思わずにはいられない流れでした。

 お友達に感謝して、嬉しくて、その後で暫くしてから気付いたのですが・・・。

 ノアローは魂となっても、私のことを助けてくれている。

 私はそう感じて、益々ノアローに対して特別な思いを抱いています。

 これからもノアローのことを思い出しては涙が溢れることでしょう。愛する者を失ったのですから。

 ノアローのいない寂しさは寄せては返す波のようです。

 でも、普段通りの生活をしていれば、ノアローの魂はそっと私たちに寄り添い、私たちの日常生活の中に溶け込んで存在してくれるような気がしています。

 
 2010年6月8日

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