真夜中のダッフルコート

おしゃれ大すき、大嫌い

三宅菊子
文化出版局 1991.9.9

表紙

私の知る限り、三宅菊子さんの市販されている最後の本です。

おしゃれを中心にいろんな話題(でも三宅さんらしい話題)について、落ちついたトーンで語られています。
前作までと違って、バブルの空気が感じられます。

(以下、ミヤケさんらしいな、と思ったところを引用)
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(「革命」より)

 この20年で革命が起こった、とか、まるで革命みたいな20年間、と私が思うのは、ライターの仕事、主としておしゃれ雑誌の原稿を書きながらヨノナカを観察してのことだ。
(略)
 限られた少数の人に独占されていた軽井沢ライフが、いまやフツーのOLでもサラリーマン奥さんでも、誰でもが楽しめるお手軽な観光地に。フツー人間だっていまどきは、夏のイベントはバリやプーケット島のバカンスだったりする。軽井沢は背伸びも無理もしないで生ける、フツーの場所。
 昔の革命物語に照らして見れば、たとえば旧軽の誰それ家の別荘や、万平ホテル、プリンスホテルなんかは革命軍だか群衆に焼打ちにされても不思議はない。それを、蜂起もしないで、決議も声明もなしで、少しずつ、少しずつ。
 あッと気が付いたとき、町はすでに民衆に占拠され。金持ちや官僚や党の幹部やあらゆる特権階級はギロチンで奇妙な果物の干物になってぶら下がって・・・はいない、特権、というより日本の場合はただただお金か土地持ちかもしれないが、それにしてもギロチン行きのはずの人たちは平和に昔どおりに別荘の庭でお茶を飲んでいる、そこのところが革命らしくないのだが。
 革命らしく見えなくても、これは確かに偉大な革命である。団結して運動や闘争をして獲ちとったのではないにしても、そんなことをする以上に大勝利。
 バスチーユへ、バスチーユへ、と群衆が走って行ったイメージと軽井沢の通りを闊歩する人たちの姿は全然かけ離れている。その後のさまざまな社会主義革命や、つい最近の東ヨーロッパの社会主義政権の崩壊や、あるいはマラカニアン宮殿のイメルダのワードローブを群衆と報道がつぶさに暴いて見せた騒動や、そのどれとも日本は似ていないけれど。ただ確実に言えるのは、いま日本は、世界中のどこの国よりもフツー人が豊かに威張って暮らしているということ。
 人の気配の少ない万平ホテルの庭でこそ、すぐりのシャーベットの味が素敵だった。誰もかれもが行ける店で機械の大量生産の輸入シロップ製すぐりシャーベットじゃつまらないヨ、と思うのは間違いで、みんなが望みのものを手に入れれば、人口の多いこの国では「誰もかれも」になってしまうのは仕方がない。
(略)
 地球の滅亡を憂える向きも多いこの現代において、地球ぜーんぶが自分のリゾート、みたいに傍若無人にふるまう若者どもが許されていいはずがない。・・・という考えに同調することはカンタンだが(そうしたい気分もなくはないのだけれど)人生も地球もすべてリゾート、の精神は、これぞ偉大な革命思想なのではあるまいか。
 ほんとうに、批判をおそれながら言うのだけれども、現代の若い女全般の、ブランド信仰や海外旅行フリーク、それに男をアッシーとかメッシーとかミツグ君とか呼んでお金ばかり使わせるつきあい方、等々々の悪しき風潮すべては革命である、と私は思う。
 男に嫌われないように、ネコをかぶって淑やかに淑やかに、なーんていう生き方よりはアッシーメッシーのほうがまだマシ・・・と言えるのでは?
 シャネル、エルメス、ルイ・ヴィトン、の、まるで”歩く物欲”的若者(ばかりかオバサン&オジサンもいるぞ)は気持ち悪いけれど、昔はそれらを買うことができずにガマンと憧れだけの日々。”歩く禁欲”よりは現在のほうが精神が解放されている。それに、「誰でも買える」のだから昔よりいまのほうが公平、平等で民主主義。
 現在は嘆かわしい世の中ではなくて、昔よりは進歩している。みんな幸せになっていると無理やりの屁理屈でもいいから私は言い切りたいので、しかもそれを全部”おしゃれ”関係の事柄中心で喋ろうとするので、浅墓な暴論になってしまって、少しでも知性のある人からは顰蹙されるだろう。
(略)
 ただ言えるのは、金持ちや上流の人がしている面白そうなことどもを、我々庶民はできない、というのは頭にくる。貧乏もイヤだ。
 で、どう考えても、いま現在、30年ぐらい前に比べると、日本の不幸せ感はとても稀薄。
 稀薄だからつい、みんな幸せになっている、などと言い切りたくなってしまうのだ。もしかしたら稀薄は「見えない」か「見ない」の同義語なだけなのに・・・
(略)
 つまりドム・ペリニォンをがぶ飲みすることやロールスロイスをホンダみたいに走らすことや軽井沢で手軽なナンパをすることや、こういうすべてが「復讐である」のだ。人民の支配階級に対する復讐だとまでは思わないし、じゃ何に対して、と説明もしにくいけど・・・
(略)

(引用終り)
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うーん、強烈なバブルの香り!
バブル崩壊から20年を経た今思うと、復讐は革命かもしれないけど、幸福の追求とは違う。軽井沢も今は寂れたそうですしね。
あのあと長い不景気を過ごしましたが、幸福を追求できている今であればいいなあと私は思います。
でも、三宅さんの、バブリーな風潮を簡単に批判するのでなく、一回転して「革命」と捉える発想はすばらしい。大好き。

(以下、もうひとつ引用)

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(「フツーの女」より)

(略)ひと頃、女の自立やキャリアウーマンや、主婦の生き甲斐などが喧しく論議されたことがあったけれど---今はそんなムズカシイ話は流行らなくなって、その代り女が生き生きして見える。
 キャリアもなく、経済的にも精神的にも自立していない、これという趣味や「生き甲斐でござい」と言える何ものも持っていない、つまりフツーの女が、大きな顔をして暮らしてなぜ悪い? たまにパートに行く程度の、平凡な専業主婦で悪いか。学校を出て就職した場合も、ツマラナイ仕事しかさせられない、”OL”業をほんの1〜2年、でもそれで本人が満足なら”OL”で悪いか。
 大会を開いて決議したわけでもないのに、(フツーの)女全般が、フツーでなぜ悪い、と開き直ってる。こうなると、有能キャリアウーマンや自立論者たちにザマーミロ、と言いたくなってしまう。
 有能とか経済的自立とかキャリアという概念やその優劣を測る尺度は、すべて男中心社会の産物だけれど、フツー女はそういうことの枠外にいる。だって私たち人間は、社会人である以前に個人なのだし、社会人という枠にピタリと嵌らないタイプは、男の世界では認めてもらえないが、その代り個人としてのびのび自由でいられる。枠の外にいる限り、管理も評価もされず、だからアクセク我を殺して上昇志向で邁進する必要もなくて。
(略)
 ある日男の人たちが、私たち女みたいに、愛社精神だの出世欲だの社会性だの捨てちゃって、その日暮らしのイイカゲン、明日は明日の風が吹く・・・的な心境とライフスタイル実践し始めたら。ある女房は猛然と働き、別の女房はダンナと一緒にルンペン生活を楽しみ、など結果はいろいろでしょうけど---世の中もっと楽しくなること必至と思います

(引用終り)
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こちらも、今の女性事情はここまでノンビリしてないかな・・・専業主婦は贅沢なものになったし。
でも「偉い人たち」の活動と関係なく、普通の人の普通の暮らし、幸福の追求が結局は世の中を変える(いいほうに)のだと私も思います。
(2014/6/4更新)