食いしん坊の面白シンプル料理

三宅菊子
海竜社刊 1987.12.16

表紙

「料理や食べることに関しての、この数年の原稿を集めまとめ直して出来た本」とのこと。初出一覧をには「クロワッサン」、「Cook」、「婦人公論」、「東京消防」、「夕刊フジ」の名前があります。

あとがきでも書かれているし、三宅さんの食べものに関する本をまとめて読んでも思いますが、原稿が書かれたときには珍しかった食材が本になるころにはそれほど珍しくもなくなっていたり、80年代と言うのは日本人の食が大きく変化した時代だったようです。私の実体験からしても、たぶんそうだった。

***
(以下、ピンときたところ引用)

 なんかこの頃、手づくり、手料理、手間をかける、といったことに対する反感を持ち始めたのです、私は。もちろん自分の手でおいしいものを作って食べるのは楽しいし、いいことではあるけれど、別に偉くも素晴らしくもないごく普通のことでしょ?
 それなのに、手のかかった食事イコールいい食事、手をかけないのは非食通、非グルメ、キョーヨーと文化の低いヒト、というような暗黙のとりきめがあるみたいだ。
 出来合いだって自分料理よりずっと高級な味もあるし、手づくりだってインスタントより速くもできる、マズイ食事もときには気分的に楽・・・というような当たり前のコトをもう少し認めてもらいたいと思いません?一年中みんなで美食家やってたら疲れちゃうヨ。

****

 私も雑誌ジャーナリズムの端っこで働いてる人間ですが---どうも雑誌や本やいろんなマスコミが「自然」の味に関する情報を大量生産しすぎたのではないかしら。
 誰も彼もが満足するほど沢山の山菜を採れる広大な山野が、日本にあるわけではないのに、山菜のおいしさばかりを喧伝してしまった。---無農薬の野菜や、養殖に頼らない魚、放し飼いの鶏、といった自然食のみで食生活をまかなうには日本の人口はあまりに多すぎる。有機農法でお米をつくるには手間もお金もものすごくかかって、農業全体が困る。というようなコトは無視して、ただ「自然」がおいしい、自然食が健康、などと騒ぎすぎるのですよ、我われは。
 一時期、自然食ブームが下火になったと思っていたら、最近また大流行。ファッショナブルな自然食屋さんもできて、カメラマンとかデザイナーとかファッショナブル人種がいーっぱい買いにくるんですって。百貨店の自然食コーナーも大拡張で、いろんな「自然」を売ってます。
 でも、考えてみると、こーんなに沢山、ホンモノの自然が、尽きることなく出荷販売できるほどある、ということがちょっとオカシイんじゃないでしょうか。

(引用終り)
* * *

後半のは、三宅さんがたらの芽の人工栽培成功の記事を読んだところから発展しての文章です。三宅さんにとっては山菜はハイキングにいったときなどに見つける宝物。それなのにデパートでパック詰めで売られていることがあって、売るほどあるなんておかしいと思ってたし、鮮度も落ちてるから味も違うはず・・・というお話です。2014年のいまでは、山菜は畑で栽培されているものを買うのが普通だし、流通している量も種類も豊富になりました。味は天然ものとは違うのかもしれないなあ。

もくじ
第1章 食いしん坊は暮し上手
第2章 活きのいい魚たち、集まれ
第3章 シンプルはおいしい、シンプルは心の贅沢
第4章 菜食主義で心も体もリフレッシュ
第5章 野菜サラダはこんな食べ方がおいしい
第6章 豪快に独創的に、男の台所

(2014/4/13更新)