東公園日蓮聖人銅像護持教会第12世主管

佐野前曉猊下

本 葬

平成26年3月12日

大導師 身延山久遠寺第92世

内野日総猊下

本佛寺から主管様の御遺骨を移動する法要

  

午前11時半 全員清淨衣を着け大本堂で御回向をしました。

  

12時20分出発。バスにて東公園へ〜。

 

午後1時20分東公園到着

  

御前様が遺骨を持たれ、本佛寺弟子一門が行列で銅像様をお参りしました。

  

  

銅像様三沿。

  

  

  

いよいよ本堂へ。

立野委員長へ御遺骨をお渡しする儀式

  

本葬儀開始

  

  

  

お堂は全国各地からお集まりの僧侶で一杯でした。

  

  

内野日総猊下歎徳文

歎  徳  文

 本化別頭の三宝諸尊の御寳前に於いて 一会の大衆と共に恭しく一乗円頓の法筵を張り 日蓮聖人銅像護持教会第十二世主管 鎮西身延山本佛寺第八世 體道阿闍梨佐野前暁日修上人本葬法要を虔修す 

 體道阿闍梨佐野前暁日修上人 今 上人の尊影を前にしてその温容を偲び 日総 些か上人の偉業を述べ 妙土に送る資誉となさん

 状を案ずるに 上人 姓は佐野 名は前暁 諱は日修と号す 昭和十年十月二十三日 慈父佐野前光 悲母登喜江の長男として出生す 上人 昭和二十三年十月二十三日 満十歳にて 鎮西身延山第七世である慈父佐野前光上人に就いて薙髪得度 勉学の傍ら 妙経読誦の修行に勤しみ 同三十三年三月 立正大学仏教学部宗学科を卒業 同年五月第一期信行道場を修了 また 同年十一月 日蓮宗加行所初行入行 翌年二月成満 爾来 日蓮宗加行所に於いて 秘妙五段の苦錬修行を積み 同四十七年二月 第五行成満 名刹鎮西身延山本佛寺に於いて 師父佐野前光上人の法務を扶けつつ 同三十五年 北九州市戸畑区本光寺住職に就任 同三十八年退職 さらには 福岡県宗務所管内に於いては 修法師会幹事   宗務所書記を経て協議員 筑後組長 選挙管理委員長などを歴任 同五十五年には 師父遷化に伴い 鎮西身延山本佛寺の法燈を継承 名刹本佛寺法燈を継承するや 前後十八年の長きに亘りて 筑後地区宗教講座を主宰す しかも 宗内にありては 同六十年 日蓮宗加行所副伝師を拝命し 平成に入るや 二年から同五年まで副伝師を務む 同十年の筆頭副伝師を経て 翌十一年と十二年に二カ年間伝師となり その後 同十七年から五カ年続けて伝師を務む その間 本佛寺にありては 仏舎利塔並びに仁王門建立 西身延霊園並びに参拝道路の造成を為し 北海道小利別前啓寺に佐野前励上人頌徳碑を建立せしむ 

 平成十三年四月 吉倉立人主管の勇退により 推されて日蓮聖人銅像護持教会第十二世主管に就任 就任するや 三年後に奉迎せる日蓮聖人銅像建立百年祭に向け 日蓮聖人銅像を全国に知らしめることが報恩事業の第一であるとの信念から 全国の有縁寺院並びに信徒から浄財を勧募 その姿は 銅像建立に邁進せられた佐野前励日菅上人を彷彿せり よりて 参道門 平唐門 薬医門 外塀を建立 本堂始め会館庫裡に冷暖房設備を完備し建立百年祭報恩事業を無事円成せしめ 身延山別院としての面目一新せり 身延山藤井日光法主上人を大導師に屈請するも 法主上人 二豎を得 井上瑞雄総務が名代として導師を勤め 盛大裡に百年祭報恩法要奉行せしむ

 日修上人 主管就任と同時に その高邁なる見識と愛宗護法の念厚きを以て 身延山久遠寺の経営に参画せりすなわち 平成十四年六月 祖山常置会議員に また  同十九年二月には 祖山常置会常任議員に就任 一途に祖山身延山久遠寺の法運隆昌を願い その重責を全うせり 特に 五重塔建設大事業推進には 小衲を良く扶け 無事円成に至らしめ 一昨年の 身延山九州本願人会設立記念・立正安国・お題目結縁運動慶讃身延山法主親教法要に際しは 懇篤なる心遣い配慮を受く また 法要末尾の挨拶には 当道場において 上人も万感迫るところありてか 満堂の皆を促し 共に万歳三唱をおこなう いまだ 耳朶に その音声残れり

 上人 生来 資性快活 豪放磊落 清廉謹直にて  文字通りの師厳道尊の生活 礼節と読誦行を重んじ 子弟の薫陶には 欠くる処なし また 上人 弟子は十二名あり さらには 令室六十代夫人は 直方市の篤信家草野作太郎・千代恵の三女なり 草野家は強盛なる法華の篤信家であり 現在の代行寺を開基せり その仏縁により 六十代夫人と婚姻し二男一女あり 長女まこは 谷中佛心寺住職神保泰晴に嫁し一女あり 長男前延は 上人の跡を受け鎮西身延山本佛寺住職の法燈を継承し 全国日蓮宗青年会会長を経て 日蓮宗宗会議員に当選し現在に至り 二男あり 次男前明は 川崎町孝性寺に住職し その法務と共に 現在 当銅像護持教会執事長として上人を扶く 上人遷化により主管代行として 当教会の実務を執行せり 一男一女あり それぞれ 上人の遺訓ともいえる師厳道尊の教えを守りつつ 琴瑟相和し 皆 活躍中なり

 しかしながら 上人 平成二十一年 大動脈瘤発病せるも 伝師任命の大命を拝受 親族の反対を押し切り 大荒行堂にて捨身求法 入行者と共に無事成満 これ 伝師として最後となるも その責務を果たす 信仰心の賜物なり

 爾来 療養しながら法務を勤め 昨年七月 入院加療なるも 十一月二十八日 溘焉として化を他界に遷さる 法寿七十九歳 法臈六十五年なり

 小衲 悲報に接し 驚倒愕然 直ちに身延山を出立し遺骨となった上人に面奉すも 哀惜の念 言を知らず しかれども 上人 今やすなわち亡く 謦咳再び接することなきを嘆くのみ 

 思えば 日蓮聖人銅像護持教会は 佐野前励日菅上人開創 先の大戦時には 聖人銅像供出という大難局に 本佛寺檀信徒と共に軍用機二機献納を為して 供出せずして これを乗り切られた主管は佐野前光日方上人 また 開創百年には日修上人主管たり 本佛寺三代住職 それぞれ 当教会大事節目に主管として事に当たれり 大法の隆替は人によるとは 古来 称せられし文なりも まさに これなり

 今 日総 請われて 上人本葬儀法要を督し その温容溢るる尊影に接し 僅かに過去の法功の一端を回顧し 万感交々 胸に迫り 嗚咽声を為さず 暗涙 眼に溢るるのみなり 只々 上人を無上涅槃の境に送らん

 體道阿闍梨佐野前暁日修上人 平成二十五年十一月二十八日遷化 法寿七十九年 増円妙道を念じて歎徳となさん

 南無妙法蓮華経

 維時 平成二十六年三月十二日 総本山身延山久遠寺九十二世法主 内野日総

和南

 

 

弔辞

小林順光日蓮宗宗務総長・友人代表遠山僧正

  

修法 福岡県修法師会

  

  

脇導師焼香・遺族遺弟焼香

  

参列者焼香

  

  

法主猊下ご挨拶

佐野前暁體道阿闍梨日修上人を偲んで

 謹んで佐野前暁體道阿闍梨日修上人を偲び、ひとことご挨拶申し上げます。

 本日の本葬儀導師の大役を、ここにご参列の各聖各位を始めとする日修上人のご縁に連なる皆さま方の絶大なるご尽力ご協力にて、無事にその任を果たすことができたと、まずもって、感謝申し上げます。

 さて、日修上人の行状を、ここで、改めて申すまでもなく、皆さま方、それぞれが、良くご存知でありましょう。

 日修上人には、宗門はもとより、祖山のために、多大なるお力添えを頂戴しました。特に、一昨年の十一月、九州本願人会設立記念として、法主親教をおこないましたが、種々、ご尽力いただき、その法要の掉尾(ちょうび)を飾るご自身のご挨拶では、この本堂満堂の参列者を起立させて、日蓮大聖人万歳と、諸手を挙げて唱えました。この本堂でしたから、今も、思い出されます。あの時、きっと、これが最後だろうなと、予期されていたのでしょうか。

 本日も、満面の笑みを浮かべながら、肉厚の大きな手で、法主さま、ようこそいらっしゃいました。と、迎えにいらっしゃらないのが不思議なような気もします。

 いずれ、小衲も日修上人のもとに参ることでしょうが、その時も、法主さま、ようこそいらっしゃいました。と、お迎えいただきたいと願っております。

 本日までの日修上人のご交誼を謝し、ここに改めて厚く御礼申し上げ、また、六十代(むそよ)夫人、ご遺弟ご遺族、それぞれ、ご関係各聖各位、ご列席の皆さま方にも、感謝申し上げ、意を尽くし得ませんが、ひとことご挨拶といたします。  南無妙法蓮華経

平成二十六年三月十二日   日蓮宗総本山身延山久遠寺九十二世法主 内野日総

主管代行 謝辞

  

前明上人の力強いご挨拶があり、本葬が終了。

 

別れを惜しむ主管様のご姉妹。

    

法主様をお見送りし、御遺骨を本佛寺にお連れしました。

  

私達孫弟子は、今後も主管様の御回向を続けて参ります。

ご覧頂きありがとうございました。

編集部

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