D&G研究会D&G研究会

D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

Googlin' inside

J. デリダ『コーラ』読書会

△ 総目次

1. 名とは何か

報告: 2005/02/17

amazonコーラ

今回の読書会は,大田さんの提案を受けて,デリダの『コーラ』の冒頭部分を読みました。さすがは脱構築読解の人だけありまして,デリダのテクストは,一語一句をゆるがせにできない,非常に緊密に組織されたもので,読む方も細心の注意を払いながら読まないと結局何が言われているのか分からなくなるという,恐ろしい代物でした(しかし,そもそも「何かが言われる」とはどういうことかというのがデリダの一つのテーマでもあるわけですが)。

故に,一段組みで字体も大きいテクストにもかかわらず,読み進めたページはわずかに30ページ弱という結果になりました。恐るべし,デリダ,といったところです。

とは言え,『コーラ』の理論的な枠組みはすでにこの範囲で出揃っていますので,ここを理解することが他の節の読解を大いに助けるはずです。

デリダが本の冒頭で言っているように,『コーラ』は「名とは何か」という問いをめぐる考察ですが,「名」が究極的にはすべて固有名であり,その固有名の問題をドゥルーズが「特異性」の問題として捉えていることを考えれば,この『コーラ』が『千のプラトー』と決して無関係ではないことがわかると思います(この辺りのデリダとドゥルーズの関連については,東浩紀『存在論的,郵便的―ジャック・デリダについて』を参照)。

以下のレジュメはたんなる本の抜粋ですが,論理的なつながりはできるだけ追ったつもりです。皆さんの読解の参考になれば幸いです。 ――大久保

議論1――コーラは時間錯誤的である

読書会の中で,「コーラは時間錯誤的である」(La khora est anachronique)[19頁]という表現について議論になったと思います。

最近,デリダの“Fors”(『デリダ読本』,現代思想臨時増刊号,1982年)という論文を読んだのですが,その中でanasemie(アナセミー)という言葉が出てきます。訳注を読むと接頭辞ana-とは,〈逆さに〉(anagramme アナグラム のように)とともに,〈再び〉,〈新たに〉を意味するそうです。従って,anasemie(アナセミー)とは,通常の語の意味を単に否定,破壊するのではなく,逆転,転換し,全く新たな意味の切り子面を形成するものであるそうです。

このような接頭辞ana-の意味を考えますと,ana-chroniqueとは,時間を単に否定するだけではなく,時間を「新たに」生み出すものと考えられるものかもしれません。ドゥルーズの『差異と反復』との絡みで言えば,時間の純粋で空虚な形式あるいは第三の反復に近いと考えられるのではないでしょうか?

思いつきでいろいろと書いてしまってすいません。

当たっているかは確かではありません。ちなみにデリダの“Fors”では,精神分析(フロイトの「狼男」)が主題として扱われています。

名,署名,秘密などの問題系は『コーラ』と通ずる所が大いにあると思われます。『千のプラトー』第2プラトーにおけるドゥルーズ=ガタリによる「狼男」の分析と比較してみるのもおもしろいかもしれません。――大田

△ 先頭へ

2. ドゥルーズ・ガタリの志向の違い

報告: 2005/03/17

ようやく『コーラ』を読み終えることができました。

俗に「ポスト・モダンの思想」として一括りにされがちなドゥルーズ&ガタリとデリダですが,丹念に『コーラ』を読んで改めて明確になったのは,両者の志向の違いです。今ここでその違いをまとめる余裕はありませんが,今後は,デリダとの差異を踏まえた上で,「いかにドゥルーズ&ガタリを読み,使うのか?」ということが改めて問われるような気かします。

また,新たなメンバーを迎えることができました。清水さんです。ご専攻は,生物工学,狭くは,清水さんご自身の説明によれば,「生物有機化学(糖鎖工学)」とのことです。哲学や精神分析に興味をお持ちとのことで,今回こちらの読書会に参加されました。清水さんにもっと早くから参加していただけていたなら,『千のプラトー』,とりわけ「道徳の地質学」に出てくる,化学や生物学の用語を解説していただけたのに,と残念でなりません。しかし,今後もその知識の助けを借りるときがあると思いますので,清水さん,どうぞよろしくお願いします。 ――大久保

△ 先頭へ

© D&G研究会 2003-2007. all rights reserved.