丸山政治学・政治思想史の基線-現実政治への関心-

2011.11.15

*私は、広島生活での自分自身の卒論のつもりで書いた『ヒロシマと広島』のおかげで、私なりの平和論の中身、その主要構成要素についてまとまって考えることができた気がしています。引退後の残りの人生には、丸山眞男の著作・発言等の中に、私が重要だと思った問題について丸山がどういう考え方を示しているかを理解し、丸山眞男の原爆体験と平和関連思想について私なりにまとめる作業をしてみたいと思い立っています。
 第一の作業として始めてみたのが『丸山眞男集』の関連個所の抜粋集作りでした。この抜粋集作りを通じて、私にとってはとても重要な発見(今まで読んでいたのに気がつかなかった愚かさを示すものです)をした思いがあります。それは、丸山の「丸山政治学・政治思想史の基線を貫くものは、現実政治への関心そのものだったのではないか、ということでした。  私が今更ながら改めて「なるほど」と感じ入った文章を、私なりのまとめ方で紹介しておきます。なお、太字強調は私がつけました。他方、丸山は文中にしきりに傍点を附する癖(?)があるのですが、ここではルビとともに省略します(11月15日記)。

<科学としての政治学>

-「一般に、市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の成長する道理はないのであるが、このことはとくに政治学においていちじるしい。…一般に「政治」がいかなる程度まで自由な科学的関心の対象となりうるかということは、その国における学問的自由一般を測定するもっとも正確なバロメーターといえる。なぜなら政治権力にとって、何が好ましくないといって己れ自身の裸像を客観的に描かれるほど嫌悪すべき、恐怖すべきことはなかろう。逆に、もしそれを放任するだけの余裕をもつ政治権力ならば、恐らく他のいかなる対象についての科学的分析をも許容するにちがいない。したがって政治に関する考察の可能性はその時代と場所における学問的思惟一般に対してつねに限界状況を呈示する。いわば政治学は政治と学問一般、いな広く政治と文化という人間営為の二つの形態が最大緊張をはらみながら、相対峙する、ちょうど接触点に立っているわけである。」(集③ 「科学としての政治学」1947.6.pp.136-8)
 「のみならず、…方法の問題が対象の問題と不可分にからみ合っているのが政治的思惟の特質なのであって、純粋な、対象から先験的に超越した方法というものはこの世界では意味がない….そうした研究が究極には、われわれの国の、われわれの政治をどうするかという問題につながって来ないならば、結局閑人の道楽とえらぶところがないであろう。要はわれわれの政治学の理論が日本と世界の政治的現実について正しい分析を示しその動向についての科学的な見透しを与えるだけの具体性を身につけることであって、このことをなしとげてはじめて、未曾有の政治的激動のさ中に彷徨しつつある国民大衆に対して政治の科学としての存在理由を実証したといえるのである。政治学は今日なによりもまず「現実科学」たることを要求されているのである。」(集③ 同上p.144)
 「けれどもここで忘れてはならないことがある。政治学が政治の科学として、このように具体的な政治的現実によって媒介されなければならぬということは、それがなんらかの具体的な政治勢力に直接結びつき、政治的闘争の手段となることではない。…学者が現実の政治的事象や現存する諸々の政治的イデオロギーを考察の素材にする場合にも、彼を内面的に導くものはつねに真理価値でなければならぬ。…たとえ彼が相争う党派の一方に属し、その党派の担う政治理念のために日夜闘っているというような場合にあっても、一たび政治的現実の科学的な分析の立場に立つときには、彼の一切の政治的意欲、希望、好悪をば、ひたすら認識の要求に従属させねばならない…。
 ところが、…政治事象の認識に際してつねに一切の主観的価値判断の介入を排除するということは口でいうより実際ははるかに困難である。…ここにおいて政治的思惟の特質、政治における理論と実践という問題に否応なく当面しなければならない。…ここでは主体の認識作用の前に対象が予め凝固した形象として存在しているのではなく、認識作用自体を通じて客観的現実が一定の方向づけを与えられるのである。主体と対象との間には不断の交流作用があり、研究者は政治的現実に「実存的に、全思考と全感情をもって所属している」。…未来を形成せんとし行動し闘争する人間乃至人間集団を直接の対象とする政治的思惟において、認識主体と認識客体との相互移入が最高度に白熱化する事実から何人も眼を蔽うことは出来ない。この世界では一つの問題載設定の仕方乃至一つの範疇の提出自体がすでに客観的現実のなかに動いている諸々の力に対する評価づけを含んでいるのである。…
 政治学者は自己の学問におけるこのような認識と対象との相互規定関係の存在をまず率直に承認することから出発せねばならぬ。それはいいかえるならば自己を含めて一切の政治的思惟の存在拘束性の承認である。政治的世界では俳優ならざる観客はありえない。ここでは「厳正中立」もまた一つの政治的立場なのである。その意味では、学者が政治的現実についてなんらかの理論を構成すること自体が一つの政治的実践にほかならぬ
 かかる意味での実践を通じて学者もまた政治的現実に主体的に参与する。この不可避的な事実に眼を閉じてドラマの唯一の観客であるかのようなポーズをとることは、自己欺瞞であるのみならず、有害でさえある。…一切の世界観的政治闘争に対して単なる傍観者を以て任ずる者は、それだけで既に政治の科学者としての無資格を表明しているのである。
 …価値決定を嫌い、「客観的」立場を標榜する傲岸な実証主義者は価値に対する無欲をてらいながら実は彼の「実証的」認識のなかに、小出しに価値判断を潜入させる結果に陥り易い。之に対して、一定の世界観的理念よりして、現実の政治的諸動向に対して熾烈な関心と意欲を持つ者は政治的思惟の存在拘束性の事実を自己自身の反省を通じて比較的容易に認めうるからして、政治的現実の認識に際して、希望や意欲による認識のくもりを不断に警戒し、そのために却(かえ)って事象(ザッヘ)の内奥に迫る結果となる。…」(集③ 同上pp.144-51)

-「さきほど、ユネスコが世界各地から社会科学者を集めて平和問題を討議させましたが、その際の共同声明…のなかに、平和の基礎としての社会的洞察を民衆に与えることが、人間の学(The Sciences of Man)としての社会科学の重大な役割だ、と述べているのを見て、私は今更のように感動しました。…人間と人間の行動を把握しようという目的意識につらぬかれている限り、映画を見ても小説をよんでも、隣りのおばさんと話をしても、そこに広くは学問一般の、せまくは歴史の生きた素材を発見出来るはずです。そうした>日常生活のなかで絶えず自分の学問をためして行くことによって学問がそれだけ豊かに立体的になり、逆にまた自分の生活と行動が原理的な一貫性を持って来ます。」(集④ 「勉学についての二、三の助言」1949.5.pp.166-7)

<歴史感覚>

-「過去の思想から今日われわれが学ぶということはどういうことなのか。歴史的状況をまったく無視せずに、しかもその思想を今日の時点において生かすということはどういうことなのか。‥  百年もまえに生きた思想家を今日の時点で学ぶためには、まず第一に、現在われわれが到達している知識、あるいは現在使っていることば、さらにそれが前提としている価値基準、そういったものをいったんかっこの中に入れて、できるだけ、その当時の状況に、つまりその当時のことばの使い方に、その当時の価値基準に、われわれ自身を置いてみる、という想像上の操作が必要です。…歴史的想像力を駆使した操作というのは、今日から見てわかっている結末を、どうなるかわからないという未知の混沌に還元し、歴史的には既定となったコースをさまざまな可能性をはらんでいた地点にひきもどして、その中にわれわれ自身を置いてみる、ということです。簡単にいえば、これが過去の追体験ということであります。
 しかし追体験だけでは、過去を過去から理解する、いわゆる過去の内在的理解が可能になる、あるいはいっそう深くなるというだけです。次には、その思想家の生きていた歴史的な状況というものを、特殊的な一回的な、つまりある時ある所で一度かぎり起こったできごととして考えないで、これを一つの、あるいはいくつかの「典型的な状況」にまで抽象化していく操作が必要になります。あらゆる歴史的できごとというものはそのままではくりかえされません。が、これを典型的な状況としてみれば、今日でも、あるいは今後もわれわれが当面する可能性をもったものとしてとらえることができます。
 …こういう操作で、歴史的過去は、直接に現在化されるのではなくて、どこまでも過去を媒介として現在化されます。思想家が当時のことばと、当時の価値基準で語ったことを、彼が当面していた問題は何であったか、という観点からあらためて捉えなおし、それを、当時の歴史的状況との関連において、今日の、あるいは明日の時代に読みかえることによって、われわれは、その思想家の当面した問題をわれわれの問題として主体的に受けとめることができるのです。」(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.206-8)

-「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史におけ「古層」の問題1979.10.pp.222-3)

-「古典を読み、古典から学ぶことの意味は-すくなくも意味の一つは、自分自身を現代から隔離することにあります。「隔離」というのはそれ自体が積極的な努力であって、「逃避」ではありません。むしろ逆です。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分を隔離することによって、まさにその現代の全体像を「距離を置いて」観察する眼を養うことができます。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.20)
「大日本帝国の解体状況は維新直後に似たところがあった。…今まで通用していた価値体系が急速にガラガラと音をたてて崩れ、正邪善悪の区別が一挙に見分けがつかなくなってしまう。途方に暮れてどうやって物事を判断するのか分からないという状況。これは狭い意味での制度の融解からくる政治的社会的アナーキーということに尽きない、精神的アナーキー状況です。…これは‥ほとんど下意識にまで入りこんでいる判断枠組のレヴェルの問題だという点が大事だと思うのです。…思考の枠組自身が分らなくなってしまった状況、これまで当然のことのように通用していた価値体系の急激かつ全面的な解体によって、たとえ瞬時であっても生まれた精神的真空状態-そういう状況を、われわれが、歴史的想像力を駆使して頭の中に描いてみる必要があるのです。」(集⑬ 同上pp.67-8)
「福沢が批判の対象としている伝統的史観とは何か。‥一つは英雄史観、あるいは治者史観といってもいいのですが、つまり、個々の英雄、個々の治者が歴史を動かしているという見方です。それから第二には、現実には右の史観といろいろな形で結びついて現われる、俗に言う治乱興亡史観の批判です。世の中が治まったり乱れたりするプロセスを、治者が興ったり滅びたりするいわば波動の曲線として見る。…それから第三に、伝統的史観として重要なのは、大義名分史観と勧善懲悪史観です。この後の二つはいずれも歴史を道徳的鏡として見るわけです。そうして鏡に映った歴史を通じて大義名分を顕彰する。…
 いずれにしても歴史を道徳的な鏡とする考えはどうしても、個人の行動が中心となり、しかもその個人というのは治者です。それでこの三つの史観は各々が連動関係にあるといえます。もしそれを全部一つの命題に凝縮するなら、天下の指導者の徳の善悪によって-あるいは治者の賢愚さまざまの生き方によって、天下は乱れたり治まったりするということになります。…中国の「正史」において一貫して陰に陽にあらわれている考え方です。」(集⑬ 同上pp.248-9)
 「バックルの場合には、この『イギリス文明史』を書くときに念頭に置いた彼の主要敵は何かといえば、神学と形而上学です。‥一つは神学上の予定説‥です。造物主が初めから、ある人は永遠に救われていると定め、ある人は永遠の地獄行を定められているという恐るべき教説です。…この予定説では、造物主は万能ですから、創造の瞬間にすでに全てのことを予定しているわけですね。だから、ある意味では、絶対的な宿命論になる。‥
 それとちょうど裏腹なのが、ヨーロッパの形而上学における自由意志説です。人間の自由意志のドグマから出発する。カントまでの近代の哲学は多かれ少なかれ、そうです。哲学だけでなく、近代の個人主義の考え方の中には、多かれ少なかれこの自由意志説があるわけです。…自由意志というのは、そういう意味で近代の個人主義の基礎であり、哲学はそれを基礎づけてきたわけです。」(集⑬ 同上pp.251-2)
 「現代では、「歴史における法則性」を云々することは、何か野暮(やぼ)くさく思われます。実際、バックルのように統計学に依拠して歴史の法則性を導き出すのは、今日、あまりにも素朴な議論にみえます。十九世紀の自然科学信仰の好例といえるでしょう。けれども、ここでもやはり歴史的想像力が必要です。ヨーロッパでは、神学と形而上学の魔力から歴史を解放してその科学性を確立するには、必ずしもバックルに依らずとも-非人格的(インパーソナル)な「社会法則」の支配という考え方による鉄火の試練をくぐることが必要でした。東アジアでは、勧善懲悪史観や英雄史観の盲点を明らかにするには、やはり福沢や田口卯吉らの荒療治が必要だったように思われます。」(集⑬ 同上pp.279-80)

-「前章、あるいはその前の章で、鋭いイデオロギー批判をした際にも、福沢には一種の歴史感覚が働いて一方的断罪には終始していないことを申しました。この章ではその強調点を移動させて-したがって、異なった文脈の中で-同じ価値判断を維持しているのです。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.244)

<政治的リアリズム>

-「「理想はそうだけれども現実はそうはいかないよ」というこういういい方というものには、現実というものがもつ、いろいろな可能性を束(たば)として見る見方が欠けているのです。…しかし政治はまさにビスマルクのいった可能性の技術です。…現実というものを固定した、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯(た)めていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関係づけていく考え方、これが政治的な思考法の一つの重要なモメントとみられる。つまり、そこに方向判断が生れます。つまり現実というものはいろいろな可能性の束です。…いろいろな可能性の方向性を認識する。そしてそれを選択する。どの方向を今後のばしていくのが正しい、どの方向はより望ましくないからそれが伸びないようにチェックする、ということが政治的な選択なんです。いわゆる日本の政治的現実主義というものは、こういう方向性を欠いた現実主義であって、「実際政治はそんなものじゃないよ」という時には、方向性を欠いた政治的な認識が非常に多いのであります。」(集⑦ 「政治的判断」1958.7.p.319)

-「単なるあまのじゃくから思想家としての福沢を区別するものは何か…。第一に、認識態度としては左の中に同時に右の契機を見る、右の中に同時に左の契機を見る、こういう見方です。ここで申します左右というのはもちろん一つの比喩です。まぁ楯の反面をいつも見る態度といってもいいでしょう。人が左といえば右というだけなら、ただ左というのを裏返しただけで一面的である点では同じことになります。ものごとの反対の、あるいは矛盾した側面を同時に見るという点が大事です。そしてさらに第二に決断としては現在の状況判断の上に立って左か右かどちらかを相対的によしとして選択するという態度です。この二つの態度が組み合わさっています。したがって、積極的に左を選択し主張する際には、認識態度としては右の方に比重をかけて見る、右に決断する際には、左の側面により注目する、ということになります。こういう精神態度を、あまり適当な言葉ではありませんが、ここではかりに両眼主義、あるいは複眼主義と呼ぶことに致します。」(集⑦ 「福沢諭吉について」1958.11.pp.378-9)

-「距離をおいた認識と分析というものが、もっとも必要でありながら、実はもっとも欠けやすいのは激動期の政治的状況についての認識であります。…(佐久間)象山の‥今日でも政治の思考方法として学びうると思われる点の一つは、政治的な好悪を離れて冷徹に認識し、またそのなかに含まれた矛盾した発展方向をつかまえる眼であります。…一つの事象のなかに含まれている矛盾した方向への発展の可能性というものを同時におさえていくということは、‥とくに政治的指導者にとっては、こういう両極性のあるいは多方向性の認識眼が必須の資質になります。そこにはじめて、自分の立場からして、一定の状況のなかにふくまれている、より望ましい可能性を少しでものばし、望ましくない方向への発展可能性を抑えていくような政治的選択-それに基づく政策決定が生まれてきます。政治は「可能性の技術」だというのはそういうことです。それは、理想、あるいは建て前はそうだけれども、現実は……という論法で、現実と理想とを固定的に対立させ、既成事実にただ追随していく「現実主義」とは縁もゆかりもないものです。」(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.235-8)
「めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。…
 われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。」(集⑨ 同上pp.216-7) 「一つの事象のなかに含まれている矛盾した方向への発展の可能性というものを同時におさえていくということは、‥とくに政治的指導者にとっては、こういう両極性の、あるいは多方向性の認識眼が必須の資質になります。そこにはじめて、自分の立場からして、一定の状況のなかにふくまれている、より望ましい可能性を少しでものばし、望ましくない方向への発展可能性を抑えていくような政治的選択-それに基づく政策決定が生まれてきます。政治は「可能性の技術」だというのはそういうことです。」(集⑨ 同上p.238)

<現実政治への発言を余儀なくせしめたもの>

-「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本に於ける近代的思惟の成熟過程の究明に愈々(いよいよ)腰をすえて取り組んで行きたいと考える。従って客観的情勢の激変にも拘わらず私の問題意識にはなんら変化がないと言っていい。…漱石の所謂(いわゆる)「内発的」な文化を持たぬ我が知識人たちは、時間的に後から登場し来ったものはそれ以前に現われたものよりすべて進歩的であるかの如き俗流歴史主義の幻想にとり憑かれて、ファシズムの「世界史的」意義の前に頭を垂れた。そうして今やとっくに超克された筈(はず)の民主主義理念の「世界史的」勝利を前に戸惑いしている。やがて哲学者たちは又もやその「歴史的必然性」について喧(かまびす)しく囀(さえず)り始めるだろう。しかしこうしたたぐいの「歴史哲学」によって嘗(かつ)て歴史が前進したためしはないのである。
 我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事実はかくて漸く何人の眼にも明かになった。…しかし他方に於て、過去の日本に近代思想の自生的成長が全く見られなかったという様な見解も決して正当とは云えない。…私は日本思想の近代化の解明のためには、明治時代もさる事ながら、徳川時代の思想史がもっと注目されて然るべきものと思う。しかもその際、…儒教乃至(ないし)国学思想の展開過程に於て隠微の裡に湧出しつつある近代性の泉源を探り当てることが大切なのである。思想的近代化が封建権力に対する華々しい反抗の形をとらずに、むしろ支配的社会意識の自己分解として進行し来ったところにこの国の著しい特殊性がある。」(集③ 「近代的思惟」1946.1.pp.3-4)

-「政治の領域に見られるかくの如き「中間期」の頽廃性-ムッソリーニやヒットラーによる「権力政治」の再登場はその最も露骨な表現にすぎない-はまた思想、文化の面に於ても覆わるべくもない。この二十年間には新しき創造の準備をなすような思想家や作家は一人も現われていない。…なにより問題なのは、この時期の知識人が大衆から遊離し、時代の最高の社会的闘争の外に超然としながら、むしろ逆にそうした孤高性に矜恃を抱いている事である。…そうした文学に共通するものは、新しき信仰と勇気の欠如であり、現代世界の終末と頽廃を認識しながら、決然として新しき秩序の形成に赴こうとせず、知られざる未来の世界の前に尻込みする臆病さである。
 ラスキの骨を指す批判は転じて学界に及ぶ。…この二十年間の学界をもって、まさに歴史とのたわむれとして弾劾する。そこには旧態依然たる範疇の使用と叡智の欠乏が特徴であった。その原因として、ラスキは、学問の過度の専門化と学者の不偏不党の崇拝(cult of impartiality)を挙げている。…最近の五十年間、とくにこの二十年間に於て、学問と生活との乖離は著しくなった。学者はもっぱら他の学者に向って説いた。学者は専門化を極度に押し進めた結果、学者の著作は普通の知識を持った人間には無意味となった。」(集③ 「西欧文化と共産主義の対決」pp.46-8)

-「これまで僕は、…当面の政治や社会の問題についての多少ともまとまった考えを殆んど新聞や雑誌に書かなかった。…しかし去年 (一九四九年) の秋あたりから最近にかけての日本をめぐる内外情勢の推移や新聞の論調などをじっと見ていると、何かしらこれ以上、そうした問題について沈黙しているのに耐えられなくなって来た。…ただ僕一個の気持として黙っていることに心理的な、いや、殆んど肉体的な苦痛を覚え出したのだ。…敗戦後、数年ならずして再び僕に…あの時代の気持と表情を甦えらせようとしているものは果して何か…。」(集④ 「ある自由主義者への手紙」1950.9.pp.314-5)
 「現在知識人は好むと否とに拘らずそれぞれの根本的な思想的立場を明らかにすることを迫られていると思う。…真に自由の伸長と平和の確保とを願う人々の間に出来るだけ広汎かつ堅固な連帯意識を打ちたてる前提としていうのだ。もはや平和や自由というそれ自体誰も文句のつけようのない「言葉」の下に、それぞれ「下心」を秘めた人々を結集させて表面のつじつまをあわせるのが「共同戦線」を意味した時期は過ぎた。…自由人をもって任ずる無党派的な知識人もその主体性を失わないためには無党派的知識人の立場からの現実政治に対する根本態度の決定とそれに基く戦略戦術を自覚しなければならない段階が来ているということだ。」(集④ 同上pp.317-8)

  -「とくに日本のように、組織や制度がイデオロギーぐるみ輸入されたところ、しかも政治体制の自明性がなく、その自動的な復元力が弱いところでは、政治の問題が思想の問題と関連して登場して来るいわば構造的な必然性があると考えられる。一方ではイデオロギー論が過剰のように見えながら、他方では「思想」の形をとらない思想が強靱に支配し、思想的不感症と政治的無関心とを同時に醱酵させているこの国で、イデオロギー問題を学問的考察から排除することは実際にはその意図する科学的な見方の方向には機能せず、むしろ「いずこも同じ秋の夕暮」という政治的諦観に合流するであろう。したがってわれわれは「価値から自由な」観察と、積極的な価値の選択の態度を、ともに学びとらねばならぬという困難な課題に直面している。」(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.p.31)

-「そもそも現代というのはどういう時代なのかという根本的な問題に行き当らざるを得ないと思います。‥私たちは私たちの毎日毎日の言動を通じまして、職場においてあるいは地域において、四方八方から不断に行われている思想調査のネットワークのなかにいるというのが今日の状況であります。…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。…しかもおよそ政治的争点になっているような問題に対して、選択と決断を回避するという態度は、まさに日本の精神的風土では、伝統的な行動様式であり、それに対する同調度の高い行動であります。(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.303-6)  「認識することと決断することとの矛盾のなかに生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果の責任をとることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動連関が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。」(集⑧ 同上p.309)
 「ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」‥世情いわゆる良識者は対立者にたいしてフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。…問題は、偏向をもつかもたないかでなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。」(集⑧ 同上pp.309-11)
 「政治行動というものの考え方を、‥私たちのごく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほんの一部であっても持続的に座を占める仕事として、ごく平凡な小さな社会的義務の履行の一部として考える習慣-それが‥デモクラシーの本当の基礎です。…私たちの思想的伝統には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治家の政治活動という考え方になります。…つまり本来政治を職業としない、また政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられるということであります。」(集⑧ 同上pp.314-5)

-「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-3)

-「欠如理論というのは、日本ではマイナス・シンボルに使われる。日本にはこれがない、あれがない、とばかり言って、ないないづくしじゃないかと、だいたい悪口として言う。けれども欠如しているからこそ、ますますそれを強調しなければいけない。本来あるものなら、放っておいても生長するから大丈夫です。もし日本を豊かにしようとするならば、欠如している、あるいは不足している面を強調しなければいけない。本来もっている自然的な傾向というのは言わなくてもいい。むしろそれは自家中毒を起こしやすい。…
 要するに福沢の言動というのは、そういう意味で、いつも役割意識というのがつきまとっている。彼が教育者として自己規定したというのも、この役割、この使命感ということに密接に関係しています。つまり、教育というのは、長期的な精神改造なんだ、自分は政治家ではないから、政治にコミットしない、ということの対比において、彼はそういうことを言っている。ロングランの精神改造というものに彼は賭けているわけです。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.305-8)