「復初の集い」でのお話し(3)

2007.08.18

(2)憲法第9条「改正」問題

〇「憲法第9条をめぐる若干の考察」(1965年)

 この論文は、「改憲問題と防衛問題との歴史的連関」、「日本国憲法における平和主義の意味づけ」、「現代国際政治の発展傾向と第9条」というテーマを取り上げております。今日の9条改憲の問題を考える上で、40数年前に書かれたものとは思われないほどに新鮮かつ説得力ある内容のものであります。ただ、「現代国際政治の発展傾向と第9条」の内容は、丸山先生自身が断っているように、「第9条の原理と直接関連する戦争と平和の存在形態が昨日までのそれと大きく変わって来たと思われる傾向に着目しての「抽象的」観察」であり、今日の視点からも重要な示唆が得られる内容であるのでありますが、私に与えられた時間と「抽象的」という点を考慮して、ここでは敢えて取り上げないことをお断りしておきます。

一 改憲問題と防衛問題との歴史的連関
 「改憲問題は、第9条が政治問題化したところから発している」
=「戦後史の経過のなかでは、まず朝鮮戦争の勃発の前後からきわめて鋭く切迫した形で、防衛問題がむしろ他律的に-というのは、アメリカ極東戦略との関連において、総司令部の要請を重要な起動点として登場し、それに触発されて憲法第9条が政治問題化し、やがてそれが一般的な改憲問題へと発展していった」

 ここで指摘された、アメリカの軍事戦略上の要求が日本における第9条改憲への動きの震源地であるという構図は、今日においても全く変わっておりません。アメリカは中国に共産党政権ができて以後、日本をアジア太平洋地域における軍事的拠点と位置づける政策を確立しました。米ソ冷戦が終わった1990年代は、アメリカをしてその戦略を見直させる絶好の機会だったはずですが、湾岸危機・戦争(1990~1年)、北朝鮮のいわゆる核疑惑(1993~4年)、台湾海峡での軍事緊張(1996年)を利用する形で、アメリカはその世界戦略に日本を巻き込む動きを強め、とくに2001年に登場したブッシュ政権は、日米同盟を米英同盟並みにするため、公然と第9条の改憲を迫るまでになったのです。
 今日日本国内で進行していることは、次の丸山先生の指摘どおりの事態であることにも注意を向けないわけにはいきません。

←「今日、現行憲法制定の歴史的事情を改憲論の立場から強調する人々が、ともすれば、まさに改憲問題登場の歴史的事情、その他律的なファクターに目をつぶり、あるいはそこに触れたがらないのは奇妙なことと思います」

つまり、「押し付け憲法」を論難し、自主憲法の制定を呼号する安倍首相以下の改憲勢力の人々は、その実、アメリカの対日改憲要求、とくに第9条改憲の要求、に積極的に応えようとする人々であるという構図は、戦後一貫して変わっていないのです。この構図こそは、戦前政治の流れを汲む勢力が、「鬼畜米英」から「対米追随」に表面的に衣替えしただけで政治の主導権を握り続けてきた、戦後日本政治の集中的表現でもあるのです。

→「民主的な憲法というものは「不磨の大典」ではないのだから、不断に改正を検討し、また個別的に不都合な条項を改めてゆくということは当然だという一般論-それはその限りで正論ですが-と、現実にわれわれに投げかけられて来た改憲問題とのレヴェルを混同してはならない、後者の政治的核心は、あくまでアメリカの戦略体系の一環としての日本再軍備にあったし、今でもあるということを、あらためて確認しておくことが必要だ」

この丸山先生の指摘も、今日の状況において100%当てはまります。私も、憲法の改正手続きを定める法律、即ち国民投票法を制定することに対して、一般論としては異論があるわけではありません。しかし、今日私たちに押し付けられた国民投票法は、アメリカの対日要求に応えるためには、民主政治の土台を突き崩す強行採決をも厭わない、つまり1960年の日米安保条約強行採決に匹敵する行動を敢えてとる勢力によって行われた暴挙であり、その「既成事実」を私たちが受け入れることは、再び1960年の事態を繰り返すことになる、という点に問題の根本があるということを指摘しておきたいと思います。

二 日本国憲法における平和主義の意味づけ

このタイトルのもとでは、「憲法調査会報告書における「平和主義」の問題性」、「前文と第9条との思想的連関」、「国民的個性ないし民族的伝統の問題」の三つの問題が扱われておりますが、ここでは「前文と第9条との思想的連関」を取り上げてみたいと思います。
丸山先生は、憲法前文と第9条との思想的連関として四つのポイントを明らかにしています。まず第一点目は、これまでの戦争が政府の手によって起こされたという「経験法則」に照らして、そうした政府の暴走を許さないためにも国民主権の原理が確立されなければならない、ということです。このことは、丸山先生が1950年の論文「三たび平和について」で詳しく解明した現代の戦争の無差別性、残虐性を考える時、ますます重要なのです。丸山先生は、次のように述べています。

〇「憲法の前文に、日本国民は「われらとわれらの子孫のために、…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあります。」:「ここには戦争というものが、経験法則に照らして見ると、直接には政府の行為によって惹起されるものだという思想が表明されております。すなわち政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起らぬよう、それを保障するということと、人民主権の原理とは密接不可分の関係におかれている。」
=「政策決定によってもっとも影響を受けるものが政策の是非を最終的に判断すべきであるという考え方というものは、まさに戦争防止のために政府の権力を人民がコントロールすることのなかにこそ生かされなければならない。それが前文の趣旨であり、ここに第9条との第一の思想的関連性というものを考えてよいのではないかと思います。しかもその意義は現代戦争においてますます痛切となって来ております。」
←「すでに第二次大戦における、都市への無差別的な空襲、艦砲射撃、ロケット攻撃、そうして原爆投下に象徴されておりますように、戦争はいよいよ戦闘員間の戦争に限定されず、かえって一般非戦闘員の損害が飛躍的に増大している。」
⇒「日本国憲法が、政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこらぬよう、人民主権の原理を確定すると言っているのは、もちろん直接的には、第二次大戦の経験が背景になっているわけですが、そこにはもっと広く現代戦争の傾向をふまえた思想的意味を読みとることができると思います。」

 近年の日本政治を見るならば、国民主権の原理に対する自公政治のあからさまな挑戦が、日本を再び「戦争する国」に向かわせる原動力になっていることは、あまりにも明らかなことです。私たちは、主権者としての自覚と責任感を新たにして自公政治の暴走を食い止め、朝鮮半島有事、台湾海峡有事によって引き起こされる現代戦争の惨禍を未然に防止するために、決然と行動することが何よりも求められていると思います。
 丸山先生が指摘する第二のポイントは、私流の表現を敢えて用いることを許していただくならば、前文の国際主義の精神を、第9条の「力によらない」平和観と結びつけて理解することが重要である、ということだと思います。第9条をおとしめようとする論者が好んで用いるのは、第9条を、「あなたまかせの消極的態度-他国依存だけでなくて、自分の行動ぬきの世界情勢まかせも含めて-」(丸山)という意味での「一国平和主義」だとする決めつけです。しかし、「力によらない」平和観の第9条が拠って立つのは、「人間の尊厳」を核とする普遍的な理念、前文にいう「人間相互の関係を支配する崇高な理想」、であります。なぜならば、伝統的な「力による」平和観に立つ権力政治こそが人間の尊厳を否定する「専制と隷従、圧迫と偏狭」の源であり、それを「地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とするきわめて積極的な国際主義の精神こそが、第9条の真髄だからです。第9条を「一国平和主義」と中傷するのは、前文と第9条とのこうした思想的連関をことさらに無視するものに他なりません。
 以上は、私の言葉で第二のポイントを要約する試みでしたが、丸山先生は次のように述べています。

〇「前文との関連において、注意すべき第二点は「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という一節であります。…(その)言葉の思想的意味は、それにすぐつづいて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」といい、最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と結んでいることとの関連で考えれば明らかです。」
⇒「この普遍的理念へのコミットから出て来るものは、あなたまかせの消極的態度-他国依存だけでなくて、自分の行動ぬきの世界情勢まかせも含めて-とは逆に、日本がそういう国際社会を律する普遍的な理念を現実化するために、たとえば平和構想を提示したり、国際紛争の平和的解決のための具体的措置を講ずるといった積極的な行動であり、そういう行動に政府を義務づけているわけです。」
⇒「ここで日本がコミットしている国際主義は国際社会の現状維持ではありません。むしろそうした現状維持の志向に立っているのは、勢力均衡原理です。この前文は植民地主義の廃止、あるいは人種差別の撤廃といった問題を平和的に実現する使命を、日本に課しているということになります。ここでもまた、あなたまかせとちがった、きわめて積極的な任務が出て来るわけです。」

 丸山先生が指摘する第三点目は日本国民の国民的生存権というポイントです。このポイントは、近年における第9条をめぐる議論においてはあまり取り上げられることがないので、まずは、丸山先生の文章を見ていただきたいと思います。

〇「第三点は、すでに前文において日本国民の国民的生存権が確認されているという問題であります。それはさきほどの、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する云々の言葉に続いて、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という表現に表明されております。」
=「つまり国民的生存権は、一つは、恐怖と欠乏からの自由を享受する権利であり、もう一つは、国民として平和的に生存する権利であります。…国際法上の伝統的な国家自衛権がたとえ否定されても、この前文の意味における国民的な生存権は、国際社会における日本国民のいわば基本権として確認されていることを見落してはならない。それとさきほど申したダイナミックな国際社会像をあわせて考えると、日本国憲法が、あたかも日本の運命を国際権力政治の翻弄にゆだねているかのように解釈することが、いかに誤解ないしは歪曲であるかはあきらかだと思います。」

私たちが、「力によらない」平和観に立脚して国際権力政治に真っ向から立ち向かっていくことは、21世紀の人類が目指す、人間の尊厳を核とする人権・民主の国際社会実現に向けた努力の先頭に立つということです。また、そういう努力をする日本であればこそ、国際社会の信頼が寄せられ、私たちが「国民として平和的に生存する権利」も全うされることになるのです。
この点について北朝鮮脅威論や中国脅威論を唱える人々が好んで言い立てるのは、「相手が攻めてきたらどうする?」「相手の攻撃に備えるのは当然ではないか?」という議論です。この種の議論に直面すると、「力によらない」平和観の第9条に自信を持てない気持ちになる人が多くなっている現実は確かにあります。他方で、「そのような場合にも、敢えて非暴力に徹する」と悲壮な決意を表明する人もいます。
今日のお話しでは省略させていただいている「現代国際政治の発展傾向と第9条」のところで、丸山先生は「「丸裸で侵略を防げるか」というような議論をする…論者には、一体あなたのいう国家の軍備が本当に自主的な軍備なのか、またそれほど丸裸が頼りなければ、あなたは一般人民の自己武装(民兵)を許す用意があるのか、直接侵略とならんで「間接侵略」を恐怖すること自体が人民への信頼の欠如を物語っていないのか、等々の反問を禁じえないのであります。」と述べています。つまり、丸山先生は必ずしも徹底した非暴力の立場をとっているわけではない、と私は理解しています。また私自身も徹底非暴力主義の立場ではありません。第9条は、国家としての武装を堅く禁じているけれども、国民的なレジスタンスの権利まで否定するものだとは理解できません。日本が人間の尊厳を徹底して尊重する人権・民主の国家となるとき、その日本に対して侵略するものが現れるならば、私は、人間の尊厳を奪われないために日本を守る闘いに立ち上がる自分でなければならない、と思います。
しかし、そういう究極的な哲学的な選択に関わる次元の問題と、「相手が攻めてきたらどうする?」「相手の攻撃に備えるのは当然ではないか?」という粗野な「現実」政治の次元の議論とを混同するのは、決定的に誤っていると私は思います。「現実」政治に関わる問題については、正確な現実認識を踏まえた政治的リアリズムが決定的に重要であります。
今日は詳しくお話しする余裕はありませんが、「北朝鮮が日本を攻めてくる」とか、「中国が日本に攻撃を仕掛ける」とかの議論は、あらゆる戦争シナリオを考えなければ気が済まないアメリカも考えてもいません。軍事費において、アメリカ100(プラス日本9)に対して北朝鮮はわずか1でしかない圧倒的現実の前では、アメリカが北朝鮮による攻撃で始まる戦争シナリオをもたないのはあまりにも当然なことです。また、経済建設にいそしむ中国が自らの経済を犠牲にする戦争を仕掛ける気持ちがないことを、アメリカはよく知っています。
アメリカが考えている戦争シナリオは、アメリカが「ならず者国家」である北朝鮮を軍事的に抹殺しようとし、あるいは、台湾海峡有事の際に中国に仕掛けることによって始まる戦争だけです。その戦争は、日本がアメリカに協力することによってのみ可能となります。日本という攻撃発進基地がなければ、また、日本の手厚い後方支援がなければ、アメリカは戦争をはじめたくてもはじめられません。しかし、日本がアメリカに協力すると、北朝鮮、中国がそんな日本を反撃の対象にすることになるのです。繰り返しますが、日本がアメリカの戦争計画に協力しなければ、北朝鮮、中国が日本を攻撃する理由はあり得ません。ですから、「相手が攻めてきたらどうする?」「相手の攻撃に備えるのは当然ではないか?」という議論に対するもっとも有効な答えは、日本がアメリカとの軍事同盟を清算し、アメリカの侵略戦争に協力しないことを明確にすることなのです。
しかし、アメリカの軍事戦略を前提にして物事を進めようとしている保守政治の人々にしてみれば、そのようなことは口が裂けても言えません。だから、アメリカが仕掛けることによって始まる戦争という出発点を隠して、いかにも北朝鮮、中国が侵略者であるかのような議論の立て方をしているのです。
「現実」政治の次元のお話しはこの程度で切り上げさせていただきます。
丸山先生が第9条と前文との思想的連関として最後に指摘するのは、1950年の「三たび平和について」で解明した、核戦争・現代戦争の時代における「思想史的な背景」ということです。丸山先生は、幣原喜重郎の発言を以下のとおり紹介しています。

〇「前文と第9条との思想的連関を全面的に考察するには、さらにそこに含まれた理念の思想史的な背景にまで遡らねばならないでしょう。…この点で、日本国憲法の成立に直接関連した、制定当時の思想的背景を一言だけ申し上げたい。」
=(1946年3月27日の幣原喜重郎の発言)「斯の如き憲法の規定は、現在世界各国何れの憲法にもその例を見ないのでありまして、今尚原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは、夢の理想である考えるかもしれませぬ。併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。…今日われわれは戦争放棄の宣言を掲ぐる大旆(だいはい)を翳(かざ)して、国際政局の広漠たる野原を単独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し、結局私共と同じ旗を翳して、遙か後方に踵(つ)いて来る時代が現れるでありましょう」:「ここに現れている思想は、…核熱兵器時代における第9条の新しい意味を予見し、むしろ国際社会におけるヴァンガードの使命を日本に託したものであります。」