1965年5月の文章「憲法第9条をめぐる若干の考察」を読み直して

2005.09.19

1965年5月の文章(1964年11月14日に行った報告に加筆したもの)「憲法第9条をめぐる若干の考察」を読み直しました。最近いろいろな集会で第9条にかかわるお話をする機会が多く、自分の考えの中身を検証したいという気持ちからでした。結論的にいいますと、私の第9条に関する論じ方を根本的に修正しなければならないと反省させられる内容はありませんでした。しかし、いくつかの点で、新しく(あるいは改めて)気づかされる重要な指摘がありました。今後私が第9条についてさらに考えを深め、また、お話しする際に参考にするためにも、それらの点をまとめておきたいと思います。なお、丸山自身は、1982年に書いた(追記)において、この文章には、理想と現実という二元思考法、民族的個性の問題、非制度的レベルでの「民間外交」や「運動」の意味等についても提起していると注意喚起していますし、それはその通りなのですが、丸山自身の掘り下げが深くないものもありますし、第9条問題には直接かかわらないと判断されるものもありますので、ここでは取り上げません。

1.“第9条は核戦争(無差別殺戮を当たり前のこととする現代戦争)に対する深刻な認識に立って、日本にとって戦争放棄こそが正しい選択であることを示している”という指摘

この点について、丸山は1946年3月27日の幣原喜重郎の次の発言を紹介しています。

「斯の如き憲法の規定(浅井注:第9条)は、現在世界各国いずれの憲法にもその例を見ないのでありまして、今尚原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは、夢の理想であると考える人があるかもしれませぬ。併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。若し左様なものが発見せられたる暁におきましては、…短時間に交戦国の大小都市は悉く灰燼に帰し、数百万の住民は一朝皆殺しになることも想像せられます。今日われわれは戦争放棄の宣言を掲ぐる大旆を翳して、国際政局の広漠たる野原を単独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し、結局私共と同じ旗を翳して、遥か後方に踵いて来る時代が現れるでありましょう」

丸山はまた、1962年6月16日にアメリカのラスク国務長官が行った演説を紹介しています。その中でラスクは、今日日米両国が熱中しているミサイル防衛の問題を取り上げ、そのような努力は相手側からする防衛網を突破するミサイルを開発配備する努力を招き、果てしのない悪循環を招くことを指摘しています。それは、「ミサイルと対抗ミサイルの悪循環、および軍備を増強すればするほど安全感が低下するという現代の逆説」(丸山)をアメリカの最高責任者自身が認めているということなのです。ラスク発言から時代は40年以上経ちましたが、この逆説は今日なお新鮮な事実ですし、中国脅威論、北朝鮮脅威論を振りかざしてミサイル防衛に突っ走る米日の愚かさをも如実に示しています。

丸山は、幣原の発言に込められた思想を、「熱核兵器時代における第9条の新しい意味を予見し、むしろ国際社会におけるヴァンガードの使命を日本に託したもの」と評していますが、私もまったく同感であり、私がこれから第9条についてお話しする機会には、是非とも強調しなければならないポイントだと思いました。丸山の原爆体験は、本人も認めるように、思想化に結びつかなかった(これまでの雑感で書き留めてきましたので、関心のある方は読み直してください)のですが、第5福竜丸事件(1954年)以後は核問題にも強い関心を払うようになった丸山は、核の恐怖の時代における第9条の意義を、現憲法の立法者であり、保守政治の重鎮でもあった幣原の発言を紹介することによって明らかにしているのです(余談になりますが、丸山眞男と核兵器というテーマは、さらに研究を深めていく余地があると感じます)。

またラスク発言の逆説にかかわっては、丸山は、次のように私たちに問いかけています。「第9条の精神、すなわち軍備を全廃し、国家の一切の戦力を放棄することに究極の安全保障があるという考え方も、過去の国家の常識に反する一つの逆説であります。…問題は、どちらの逆説をわれわれ日本国民は選択するのかということに帰着するわけであります。」核廃絶か核抑止か、という抽象的な形での問題設定が行われ、観念的、感情的な議論しか行われていない今日の状況を前にするとき、二つの逆説のいずれをとるかという丸山の迫り方は実にリアリティがあると思います。理想主義的現実主義を常に心がけている私にとって、本当に参考となります。

2.“改憲問題は第9条が政治問題化したところから発している”という今日においても妥当するポイントの確認

第9条改憲問題は、当初は「他律的に」(丸山)、つまり、朝鮮戦争前後にアメリカの対日軍事政策の転換を契機に起こったことは周知の事実でありますが、丸山は、「今日、現行憲法制定の歴史的事情(浅井注:「押しつけ憲法」のこと)を改憲論の立場から強調する人々が、ともすれば、まさに改憲問題登場の歴史的事情、その他律的なファクターに目をつぶり、あるいはそこに触れたがらないのは奇妙なこと」と皮肉混じりに指摘しています。この指摘は、今日の第9条改憲論もまた、アメリカの軍事戦略に日本を巻き込むためにアメリカ発で行われていることを改憲派がひたすら隠そうとし、軍事的国際貢献論とともに、相変わらず自主憲法制定の必要にも言及するのが常であることを思いますと、時代を超えた新鮮さを持っています。日本の改憲論議は常にアメリカ発であるということを改めて確認するとともに、平和憲法とくに第9条を守り抜くことこそが優れて独立自主平和国家である日本の選択でなければならないという思いを強くします。それこそが、第9条という「民族的個性」(丸山)でもあるのですから。

3.憲法前文と第9条との思想的連関

丸山は、前文の3カ所に注目して、その第9条との関連性について論じています。ここでは、その内の1カ所について紹介します。
日本国民は「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、(中略)自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とある部分について、丸山は、「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起こらぬよう、それを保障するということと、人民主権の原則とは密接不可分の関係におかれている」ことを指摘したものという認識を示しています(正直言いまして、私は、前文のこの部分についての理解において、今までなんとなく座り心地が悪い思いを持ち続けていたのですが、今回この文章を精読することによって、座り心地の悪さが解消した思いです)。そして、「政策決定によってもっとも影響を受けるものが政策の是非を最終的に判定すべきであるという考え方というものは、まさに戦争防止のために政府の権力を人民がコントロールすることのなかにこそ生かされなければならない。それが前文の趣旨であり、ここに第9条との第一の思想的関連性というものを考えてよいのではないかと思います。しかもその意義は現代戦争においてますます痛切となって来ております」「日本国憲法が、政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこらぬよう、人民主権の原則を確定すると言っているのは、もちろん直接には第二次大戦の経験が背景になっているわけですが、そこにはもっと広く現代戦争の傾向をふまえた思想的意味を読み取ることができると思います」と強調するのです。1.のポイントとあわせ、本当に見事な指摘だと感じました。