政治意識

2016.4.26.

「祭祀(クルトウス)行事と文学(的)情念の日本における政治的なるものとの関連。
 この二つからのアプローチが日本の政治を解く鍵であり、それは古代天皇制から三派全学連にまで共通する特質である。私のこれまでの日本政治の歴史的研究にしろ、現状分析にしろ、この二つの面からのアプローチにおいてははなはだ不十分であったことを、私は自認せざるをえない。民俗学的な訓練を受けた、少くもかじった文学者ないし、文学的評論家が、私の評論に何か生理的に我慢ならないものをかぎつけるのは、おそらく、私のこれまでの評論におけるこの両者の契機の意識的な無視を直感するからだろう。文学的美意識の方は、ともかくも国学研究以来取扱って来た。しかし祭祀の行動に表現されたイデオロギーについては、せいぜい、おみこしの理論、ウェーバーに依拠した「オルギー」、和辻理論の継承としての祭祀共同体の理論を雑すいにしたにすぎない。むろん私は「現代流行の」柳田民俗学へのもたれかかりを依然として拒否するだろう。しかし少くも民俗学から素材として、中央と地方の祭祀の社会学的構造と精神構造を学び、方法的には、比較的考察-たとえばクーランジュから構造主義にいたるまでの「未開社会」研究-にとりくまなければ、古代についても現代についても私が数年来講義で言及して来た日本思想の「原型」の問題は、これ以上進まないだろう。それは気の遠くなるような課題だ。このことを考えただけでも、東大教官としての「義務」と私の学問的エゴイズムとは、もはや決定的に相容れない。…」(『対話』pp.119-120)
「客観的価値の権力者による独占ということから権威信仰は生れる。…良心的反対者を社会がみとめていないということである。シナの儒教思想にはまだしも価値が権力から分離して存在している。即ち君主は有徳者でなければならないという所謂(いわゆる)徳治主義の考え方で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日本の場合には、君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であった。そこには客観的価値の独立性がなかった。」(集③ 「日本人の政治意識」1948.5.p.324)
 「権威信仰から発生するところの日本社会の病理現象を若干あげてみよう。…
 二、抑圧委譲の原則。…客観的価値の独立している社会では上官が不当な圧迫を加えた場合、下位者はその客観的価値の名に於て、世論にアピールしたり、上位者に抗議したりする。ところが、権威信仰の社会では、それができないので、上役から圧迫をうけるとそれに黙って従ってその鬱憤を下役に向ってはらす。これが抑圧委譲である。…国際関係に於ける政治心理にも抑圧委譲の原則があらわれる。政治的自由のない社会ほど対外的発展に国民が多く共鳴する。抑圧された自我が国家の対外的膨張にはけ口を見出し、自分自身が恰(あたか)も国家と共に発展して行くような錯覚を起す。…」(集③ 同上pp.326-327)
 「個人が権威信仰の雰囲気の中に没入しているところでは、率先して改革に手をつけるものは雰囲気的統一をやぶるものとしてきらわれる。これがあらゆる保守性の地盤となっている。従ってそこでは変化を最初に起すことは困難だ。しかしいったん変化が起りはじめるとそれは急速に波及する。やはり周囲の雰囲気に同化したい心理からそうなる。しかもその変化も下から起ることは困難だが、権威信仰に結びつくと急速に波及する。したがって一つのイズムを固守するという意味の保守主義はあまりない。日本の保守主義とは時々の現実に順応する保守主義で、…この現実の時勢だから順応するという心理が日本の現在のデモクラシーをも規制している。…デモクラシーが内容的な価値に基礎づけられないで、権威的なものによって上から下って来た雰囲気に自分を順応させているだけである。保守性と進歩性がこうした「環境への順応」という心理で統一されている。こういうデモクラシーは危っかしいデモクラシーである。何故なら情勢によるデモクラシーであり上から乃至外から命ぜられたから「仕方がない」デモクラシーだから、情勢がかわり或いは権力者がかわれば、いつひっくり返るかわからない。」(集③ 同上pp.328-329)
「日本思想史において主旋律となっているのは、教義となったイデオロギーなんです。儒・仏からはじまって「自由主義」とか「民主主義」とか「マルクス主義」とか、こうみてくると「儒教」「仏教」を含めて全部これは外来思想なんです。それでは日本的なものはないかというと、ちゃんとした教義をもったイデオロギー体系が日本に入ってくると、元のものと同じかというとそうでなく必ず一定の修正を受ける。その変容の仕方、そこに日本的なものが現われているのではないか。…そこに共通したパターンがあり、それが驚くべく類似しているんです。それが「古層」の問題なんです。だから、「古層」は主旋律ではなくて、主旋律を変容させる契機なんです。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.180-181)
「古層のパターンはあくまで外来思想と一緒に交り合ってシンフォニックなひびきになるのであって、それ自体は独立の「イデオロギー」にはならない。低音の音型を、それだけで主旋律に-というよりもむしろ独自の単旋律にしようとしたところに、平田学から戦争中の皇道精神までのあらゆる日本精神イデオロギーの悲喜劇性があったわけです。…純日本的なものを一つの「教義」という意味でのイデオロギーにすることは、外来思想を借りないではできないんです。では、日本思想史はたんに外来思想のつなぎ合わせで、その間に「日本的なもの」はないのかというと、そうではない。それが低音に執拗に繰り返される音型と私が呼んだものです。これが未来永劫続くというのではありません。しかし、日本の地理的条件とか、‥日本民族の等質性(ホモジェニティ)に支えられて、文化接触のこういうパターンはまだ当分続くのではないでしょうか。」(集⑪ 同上pp.189-190)
 「日本の歴史を見ますと、いつもユートピアの替わりに「模範国」があるんです。‥模範国に追いつけ、追いこせです。だから維新のときは中国という長い間の模範国を西欧諸国にきりかえればよかったわけです。…「模範国」がなくなったのが現代の日本です。…
 現在いろいろな形で出ている、これからもおそらく執拗に出てくるのは‥「集団所属主義」あるいは"みんなでやっていこう"というやつです。‥こういうものがたとえばナショナル・クライイスが来る場合、‥ナショナル・クライシスだからみんな一緒にやっていこうという「日本株式会社思想」になるわけです。‥ただ、これは実は実験済みなんです。つまり、‥集団エゴイズムでいきますと、同心円型にならざるをえない。だから「くに」だけに一元化できない。‥「家族エゴイズム」とか、あるいは官庁や会社の割拠といった「集団エゴイズム」のために‥能率的な統合が全然できないんです。…これは政治意識の「原型」とも関係するわけですけれども、つまりリーダーシップ志向というものが、日本の「原型」のなかからは出てこないんです。日本の「原型」指向は「翼賛体制」なんです。これは下から同方向的に翼賛するという政事(まつりごと)なんです。政事というのは「祭り事」といった意味ではなくて捧げ物をすることなんです。…サーヴィスを上級者に献上するのが政治です。治者と被治者が同じ上の方向を向いているんです。被治者といえばみんなが被治者なんです。どうしても翼賛型になって、治者と被治者が反対の方向に向き合わないわけです。…集団的な「上昇奉仕型」の低音は強い。逆にいうとリーダーシップは弱い。‥ですからナショナル・インタレストに立って、全体の経済活動を統合していくことは会社エゴイズムによってはばまれてうまくゆかない。」(集⑪ 同上pp.203-209)
「「戦後民主主義」というとき、みんな「制度化」されたものを考えているでしょう‥。完全に「制度化」された民主主義というのは、実は自己矛盾です。だから「戦後民主主義」の否定とか肯定とかいう言葉自身が、言葉の魔術を含んでいて、つまり「理念」のレヴェルと「制度」のレヴェルと、それから「制度」が現実にどうワークしているか、という現実政治のレヴェルと、もう一つ「運動」のレヴェルがあって、実際はそれを弁別せずに、ごちゃごちゃにして、とくに「運動」よりは「制度」のレヴェルだけ見て戦後民主主義ナンセンス論というのが出てきたと思うんです。その制度にしても理念にリファーしない。議会政治というけれど、それは本当の議会政治になっているのか。どこまで議会政治の制度が、いわんや理念がワークしているのか。それを問うという発想がない。全然おかしいんです。つまり反対している本人にとって見えている現実だけしか頭にない「現実主義」なんです。そこにやはり日本のbasso ostinatoが現われている。つまり、理念によって現実を裁く考え方が弱い。議会政治の理念によって議会政治の現実を裁き、あるいは方向づけてゆく考えが弱い。民主主義の理念によって、民主主義の現実を変えて行く発想が弱い。…理念へのコミットメントが弱い。一つの事実によって他の事実を批判することはできないんです。事実は無限に異なり、細分化されます。理念によってこそ事実を批判できる。」(集⑪ 同上pp.215-216)
「政治意識におけるバッソ[・オスティナート]について一言だけ言うなら、マツリゴト-昔はこういう字[(黒板に書く)政(『日本書紀』)]を書いたんです。ある時代以後は、神道家のイデオロギー-大体伊勢神道、つまり北畠親房ぐらいから-で、日本では、これ[政]も、これ[(黒板に書く)祭]もマツリゴト、つまり祭政一致が日本のイデオロギーだ、日本の国体なんだという考え方が神道家の間にできて、明治以後までずっと続くわけです。
 ところが僕の考えだと、例えば記紀とか八世紀の使い方を調べると、これは間違いだということがわかるわけです。つまりこれ[祭]は宗教的なことでしょ。だいたい、こういう字が出てこないんです。いわゆるマツリゴトに当たる言葉はいろいろな字[祭・政]で言われますが、これ[(黒板に書く)齋]はイミ[忌]ゴトとか、イハヒ[祝] ゴトとか、いろいろな言葉で言われるんです。イツキゴトという呼ばれ方をすることもある。この字[政]は出てこない、出てくるのが大体鎌倉以降でしょうね。この字[齋]を使うのが一ヵ所あります。しかしこれだとマツリゴトとは読めないでしょ、どうしたって。ですから、それ[祭政一致]はある時期以降からのイデオロギーだということがわかる。…
 マツリゴトは決してお祭りのことをいう意味じゃないんですよ。まつるっていうのは、最も完璧な例でいうと、『万葉集』にたくさん出てくる「豊御酒まつる」。お酒を差し上げる[ということで、この場合]トヨミキマツル、まつるというのは、差し上げる、献上することなんです。…つまりまつって差し上げる、神や仏に差し上げることなんです。だから、しいて漢字に訳すなら、献上事(まつりごと)なんですね。…
 政治が、下から提示されているという、非常に世界の文化でも珍しい例なんです。ヨーロッパでも中国でもガヴァーンってのは、上から下へなんです。だからセイ[政]というこの字は上より下へ下るものなりという、ちゃんと定義があるんですよ。『国語』という中国の史書がありますが、それに"政は上より下に下るものなり"という定義がある。これはガヴァーンと同じなんです。‥上ってのは支配階級という意味じゃないんですよ、そういう実体的な意味にとっちゃいけない。上下関係は機能的なものだから、相対的に上とか下とかという意味ですから。政治は、上から下へというのが当たり前でしょ、統治だから。
 日本では献上物なんだ。政治ってのは下から上へ、天皇に献上するものなんだ。だから、天皇に献上する同じパターンが移行していくと、執権が将軍に献上するものなんです。政治ってのは。したがって、デシジョン・メイカーはいつでもトップじゃなくて、トップに直隷するものに政治のレベルがある。これは大体、世が乱れてくると、デシジョン・メイカーがどんどん下降していくことになるわけです。これが極まったのが室町の下剋上なんです。‥今でも政治学でいうデシジョン・メイキング・プロセスが、日本ぐらいわからないところはないです。官僚制でもそうです。およそ下っ端の役人が実権を握っているというのは、よくあるんですね。逆に会社の社長は、正統性の源泉にすぎないんだ。これが、ヨーロッパ人には一番わからないところです。…
 そういうパターン-これは日本の政治を理解する上には大事なことです。けれど、正統性の源泉が上にあるってことは、忘れちゃいけない。それでないと革命と混同される。日本には革命は起こらないわけです。なぜかというと、革命とは正統性の変革なんです。君主主権から人民主権になるというのが革命なんです。正統性が違ってくるわけです。人民になるわけです。ところが、権力はどんどん、どんどん下降していくのに、正統性の源泉は上にあるというわけです、日本の場合には。」(手帖9 「丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回」1983.11.3.pp.16-18)
「目的意識性がまさにないということが日本的なんです。レーニンの言葉を使えば、自然成長性なんです。したがって、目的意識に基づいて理想国をつくっていく、これに基づいて現実を変革していくというユートピアの思想が日本には非常に乏しい。目的と言っても目標と言ってもいいんですが、目標設定能力がいちばん低いんです。次に、目標選択能力が乏しい。これは、政治音痴が多いということなんです。‥目標が決まると、がぜん張り切るんだ。‥目標を上から設定されると、その目標に向かって全員協力する。目標達成能力、アウトプットはすごく大きいわけです。ということは、逆に言うと目的意識性というのが非常に弱い。自然に「なる」という自然成長性とはまさにそれなんです。目標設定に対する目的性のなさを示している。
 だから、「戦争になりました」なんですよ。「戦争をしました」と言うと、責任の問題になっちゃう。「つくる」というのが、いちばん目的意識性が強い。だから、こっちの端に「つくる」がある。反対側の端に「なる」があるんだ。目的意識性がいちばん少ない。「うむ」というのが、その中間なんです。「うむ」のは生殖ですから、「なる」に比べれば目的意識性があるんですね。「つくる」というのは、つまり、物を作るわけですから、作るものと作られるものとの対立が非常にはっきりしている。「うむ」場合には、生まれたものと産むものとの間に血の連続性があるわけです。連続性という面でいうと、「なる」と「うむ」は共に連続性がある。作ると作られるとの間には連続性がないんです。けれども、「うむ」主体というものははっきりしている。誰が産んだのかはっきりしている点で、「うむ」は「つくる」のほうに近寄るわけです。」(手帖21 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(下)」1985.3.31.pp.22-23)
「ぼくが責任ということを非常に言うのはね-ぼくの発言全部がそうなんだけども、戦略戦術的なんですね。つまり、日本人のものの考え方とか状況とかに対するアンチテーゼを出そうという考えが、いつもあるわけです。そうすると、やっぱり行きすぎるわけですよ。…  日本的考え方では、お国のために、あるいは党のためにやったんだとか言って、動機とか心情で責任が免除されることが、非常に多いんですよ。それがどんなに味方に害を及ぼしていても。だけど、政治ってのは、敵と味方でしょ、闘争でしょ。ぼくもいちおう広い意味では政治学の端くれですから、政治的なものの考え方というのはそうではないんだと。  ‥政治的行動をする以上、政治的なものの考え方とは何かということを知らなきゃいけない。ポリティカル・マチュリティ(政治的成熟)とポリティカル・イマチュリティ(政治的未熟)との違いは、政治的なものの考え方にどこまで貫かれているかということにあるんで。ぼくは自由民権以来の-というより、もっと遡るわけだけど-、日本人の政治的未熟性が気になるわけですよ。‥  政治的未熟というのは、残念ながら、とくに進歩陣営に多いんですね。保守陣営のほうが政治的に成熟してるんです。つまり、政治的行動を取れば取るだけ、成熟はしてくるわけ。進歩陣営のほうは言論だけだからね。政治的行動に熟さないわけです。‥  政治的成熟は、道徳的に高いとか、そう言うのとは無関係です。ただ、道徳とも関係があるのは、政治的未成熟のために非常に多くの人に迷惑がかかる。極端に言うなら、戦略戦術を誤れば、革命とか戦争とかで何百万という人を殺すことになっちゃう。そこでは、政治的未成熟が道徳的な悪ということにもなる。‥そうすると、やっぱりぼくとしては、心情倫理に対して責任倫理を強調したい。  それで、ぼくの「戦争責任論の盲点」(五六年)という文章では、天皇のことを書くのが主だったんだけれど、ついでに共産党のことも書いて、非常に怒られたんだ。‥つまり、あれは、メーデー事件〔編注:五二年五月一日、当時「人民広場」とも呼ばれた皇居前広場でデモ隊と警察隊が衝突し、警官隊が発射したピストルによって二人が射殺された〕のあとに書いたものなんですね。  ‥つまり、あのとき指導者-つまり共産党指導部は、人民広場に行ったらどういう事態になるかについて、どんな予測を持っていたのか、ということです。…  そういう場合にね、権力はけしからん、警察隊が悪いと言うわけだけど、大衆を率いた共産党指導部の政治責任は、いったいそれで済むのかと。メーデー事件だけのことじゃなくて、とくにインテリの共産党の人たちの中には、心情倫理が強すぎるんじゃないかと思ったんですよ。プロレタリアートを解放するためにとか、平和のためにとかいうことで、自分は誠心誠意やったと、結果はぜんぶ敵が悪いんだと。  しかし、敵の出方というものを予測するのは指導部の責任じゃないのかと、ぼくは思うんです。…そこで、ぼくは、こんなことじゃあ、共産党は「死んでもラッパを放しませんでした」じゃないかって、書いた。‥  そしたら、進歩派と左翼が、怒ったわけです。まあ、怒るのは当たり前。たしかに、これはぼくの悪いところです。ちょっと、からかう。「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」っていうのは、心情倫理の典型なんですね。  指導部の戦略戦術に、誤りがあったか、なかったか。誤りによって、どれだけ大衆が被害を被ったか。情勢がどれだけ敵に有利になったか。下山事件その他、これはあらゆることに言えることなんですね。  これをぜんぶ敵に転嫁する。そういう発想法に対して、ぼくはなんとか違うものを出して行こうとすることで、言い過ぎた面があるわけです。」(自由 1985.6.2.pp.118-123)
「日本の政治のバッソ・オスティナートの一つをなすもので、「政事(まつりごと)」っていうのは"奉献事"-上に差しあげる、献上するものということなんです。つまり、政治というものが、そうやって差しあげる、献上するものということなんです。つまり、政治というものが、そうやって差しあげる主体の側、下から定義されてる。これはね、ぼくの知る限り、世界でも非常に珍しい。下から上にサーヴィスを提供するのが、ここでは政治なんです。‥ドミネーション(支配)とかサブジュゲーション(従属)-そういった観念自体がね、中国的であるし、また西洋的であって、日本的な発想じゃないということなんですよ。いい悪いは別として。‥
 日本の政治という概念は、けっして「お祭ごと」という意味じゃないんです。政事が「祭事」であるというのは、伊勢神道のイデオローグがつくった、一種の言葉の綾にすぎない。‥政事が「祭事」であるという定義は、北畠親房以前には遡らないんです。
 ちなみに、あの日本主義者である本居宣長も、『古事記伝』で見事に言ってます。
 -もちろん国家にとって神祇の祭祀というのは非常に大事なことである。だから、政事の「まつりごと」は「祭事」から来たと思うのはもっともだけれども、言葉の解釈として、それは違う-と。
 それで、宣長はね、「政事」という言葉の由来を、「奉仕事」-ツカエマツリゴトだと言ってるわけです。これ、半分は正しいんですけどね。もっと遡ると、ぼくが調べた限りでは「献上事」なんです。何か物を献上する。つまり、租税を納めることをマツリゴトっていうんです。納める側が主体になって言ってるのが、おもしろいの。お上の側から言ってるんじゃなくてね。
 これが綿々と続いている。トレルチにしたがって「セクト型」と「教会型」にタイプを分けると、「セクト型」、つまり自発的協力が、こうした日本の本来の型なんです。言い替えれば、翼賛型です。「教会型」は、支配と服従、言い替えれば機構型なんです。日本のプロトタイプは、そういう型にはなじまない。
 翼賛型っていうのは、ぼくは"同方向的上昇性" と言ってるんですけど、みんなが下から上へと、同じ方向を向いてるんです。下から上に献上する。いろんなものを献上するうち、「奉仕」つまりサーヴィスを献上するのだとすれば、ちょっと同義反復みたいだけど宣長のような解釈になるわけです。ただし、『万葉集』に出てくる「豊御酒まつる」っていうのは、お酒をさしあげます、ってことであって、マツルという言葉にけっして「奉仕」という意味はない。お酒を奉仕する、という意味ではなくてね、やはり、お酒を「献上する」という意味なわけです。
 下から上へ行く。政事が、下から定義されてる。ということは、みんなが被治者であるだけではなくて、みんなが治者であるとも言えるでしょう。治者と被治者が対立するように向きあっていないんです。みんな、上を向いてる。天皇も、国民のほうへ下を向いてるんじゃなくて、皇祖神のほうへ上を向いてるわけです。」(自由 同上pp.191-193)
 「下が上に物を献上する、そういう日本的な政治概念っていうのはね、むしろどうしてそれができたのか、と。古文献をずっと調べていくと、そう思わざるをえない。
 自発的協力っていうのが、これのもとにあるでしょ。それだけ、権力を行使しなくていいわけです。いわんや、暴力を行使しなくていい。だから、よく言えば、それは独裁制の成立を非常に困難にする。集団指導制なわけですから。けっして、モノ・アルキア、つまり単独者支配ではないんです。しかし悪く言うと、無責任体制になる。ぜんぶが翼賛するんだから、誰が誰をgovernして、ということはないわけね。すると、一億総懺悔ってことに容易になる。
 この同方向性というのは、非常に重要な文化的特色なんです。上と下が対峙しない。つまり、西欧や中国みたいな支配と服従という関係が、はっきりしないんですよ。儒学が日本に入ってきても、やっぱり、たちまちそういう変容過程をたどることになって。」(自由 同上p.198)
「官僚制でも、日本の場合は、ウェーバーが言ってるような非人格的な機能の分業だけで人間が結びつく合理的官僚制というのは、あんまりない。そういう面ももちろんありますけども、むしろ親分子分の人間関係が不可分に入り交じったような官僚制であって、この両方が癒着するんですね。今でも、実際には係長くらいがすごく権限を持ってたりする。で、下の権限を、上に奉納するって形になるわけです。トップはお神輿なんです。リーダー自身が強い権限を持つというのは、非常に少ない。むしろ、下から上に奉納したものを容れるという、これが日本的リーダーで。  例えば、江戸幕府を見ますとね、将軍というのはほとんど実権がないんですよ。権威の象徴であるにすぎない。それでいて、奇妙なことに、京都に対しては幕府が実権の所在なんです。それが、ここで言ってきたレジティマシーの問題なんです。  レジティマシーの源泉は「征夷大将軍」の位ですから、京都の朝廷からもらってるわけ。だけど、パワーホールダーは幕府でしょ。一方、幕府の内部構造を見ると、トップの将軍は権威にすぎない。実際のパワーホールダーは、老中なんです。つまり、将軍に奉仕する者がパワーホールダーなんです。  鎌倉時代の北条氏まで遡ると、もっとはっきりする。「執権」-この"権を執る"という言葉からして、そうじゃないですか。執権というのは、源氏の将軍の部下です。ところが将軍のほうはノミナル(名目的)でしょ。ただし、まったくそれが無意味かというと、そうじゃなくて、レジティマシーの根源はやっぱり将軍にある。けっして北条氏じゃない。ただ、パワーホールダーは執権。そして、江戸時代で言えば、老中なんです。  で、しかも、江戸時代の老中は、月番制です。そして合議制です。一人の老中が勝手なことはできない。大老は臨時職ですから、ふだんは老中がいちばん上です。‥ たとえば、目付というのがあるんです。目付はね、老中の支配じゃなくて、老中の下に若年寄っていうのがいて、それの支配に属するんです。そして、老中を弾劾する権利を持っている。江戸時代の場合は、そのへんのところが非常におもしろいな。どれが上で、どれが下だか、よく分かんない。 よく役職とかで、「えらい人」とか「おえらいさん」とか言いますけども、あれは外国語に訳せないですね。‥ああいうのは、価値が一元化した明治以後の産物だと、ぼくは思うんだ。だって、江戸時代だと、いま言った通り、誰が「えらい」か分かりゃしないんだ。…」(自由同上pp.200-202)
 「今後どうなるかは分かりません。というのは、日本は大陸から非常に離れて、ある意味で飛び地ですよね。そういういろんな条件に作用されて、同質性も確保されてた。ところが、いまや水田耕作じゃなくなったし、それからコミュニケーションがこれだけ盛んになってくるとね、どうなるか分かりません。だけど、こうした条件が作用して、これまでは権力的支配をミニマムにすることができたと、ぼくは思うんです。
だから、権力の行使はだめだ、とかって言うのは、ちょっとダブルミーニングでね、危ないなという気がするんです。人民主権というのは、君主主権をひっくり返したものですから。人民主権が板につかないのは、逆に、君主主権がなかったからだ。価値判断抜きに、政治意識における古層っていうのは、やっぱり非常に貫徹してる。つまり、明治における立憲制の移植過程、その後の代議制にまで貫徹してるというのが、ぼくの考え方なんですよ。だから、そこでは「協賛」から「翼賛」まで、ワンステップだと。
(鶴見「そうすると、日本における無責任の体系っていうのは、かなりフェータリスティック(宿命的)になって。」)まあね。今までのところはね。だけど、その条件をなしてきた、地理的、風土的、歴史的環境っていうのは、ぼくは壊れつつあると思いますね。…ただ、日本はそういう隔絶された歴史的伝統が長いから-例えば、家に黒人がやって来て「二階の部屋を貸してくれないか」と、そういうふうになるまで、なかなか、社会の同質性というのは、完全には破りきれないでしょう。
やっぱり、日本では電車に乗っても新幹線に乗っても、まわりは圧倒的に日本人ですよね。‥こんな国は世界にまずないでしょ。きわめてホモジニアス。だから、「日本が同質的であるというのは神話である」っていう言い方は、そっちのほうがどうかしてると、ぼくは思う。
だから助かってる面もあります。安心する面もあります。「同じ日本人だから、血を流すのはよそう」とかね。そんなこと言ったら、外国人とは血を流していいのかって、訊きたくなるくらいだけど。どこかで飛行機が落っこちたら、まず「日本人の乗客は何人」っていう報道になるのも、あたまに来るしね。まず、そこに関心が行くんだな。人間、なに人だって、死んだら大変だし、同じじゃないですか。驚くべきウチ・ヨソ主義ですよ。インズとアウツ。
インズの同質性-「異議なし」「ナンセンス」の社会ですし、パーラメンタリズム(議会政治)の"パルレ"っていうのは、話すことですからね、討議なんです。これはなかなか日本で目につかないです。「満場一致制」が、やっぱり理想とされるから。
だけど、その「満場一致制」っていうのが、現実には無限分裂の因子にもなるんです。‥満場一致制を取ってるもんだから、結局、そのなかで分裂するしかないんですよ。多数・少数制っていうのは行われないんだから。」(自由 同上pp.205-207)
「正統性の所在と政策決定の所在とが、截然と区別されているというのが、まず第一に日本の「政事」の執拗低音をなしております。…この二つのレヴェルの截然たる分離が中国との非常に大きな違いです。中国だけでなく、アジア・アフリカからヨーロッパにわたる「絶対君主制」との非常に大きな違いでもあります。律令制は非常に大規模に中華帝国をモデルにしながら、‥天皇の下に太政官(だいじょうかん)という最高政策決定機関を設置しました(近江令以後)。…中国の唐制の場合には、皇帝が万機を統率し、その下に尚書省と門下省と中書省という三省が直隷します。…要するに三省が皇帝に直隷していて、各省を統べる太政官に当る職制が中国にはないわけです。…大和朝廷の下に中央集権化を実行した日本の場合、まさに「太政」にあたる官を、天皇(皇室)と各省との間に介在させたところに正統性の源泉としての君主と、実質上の最高決定機関とを制度的にも分離するという一つの考え方が現われているわけです。大規模に唐制を模倣しただけに、この両者の相違の意味は大きいと思われます。」(集⑫ 「政事の構造 -政治意識の執拗低音-」1985.12.pp.217-219)
 「政事の正統性をもっている最高統治者の背後にいつも、「後見(うしろみ)」がいて、リモコンをしています。」(集⑫ 同上p.232)
「人民は中央の大君に、ヨリ直接的には地方に派遣された地方官に対して「つかへまつる」関係に立ちます。大臣・卿たちが天皇に「つかへまつる」のといわば同じパターンで、一般人民が地方ないしは中央の官僚に「つかへまつる」わけです。ですから、ここでは治者と被治者とが→←という対立・支配の関係で向き合うのではなくて、ともに「上」に向って同方向的に奉仕する関係に立ちます。支配関係がない筈(はず)はない、といわれるかも知れませんが、これはコトバの関係を通じて現われるイデオロギーのレヴェルでの問題です。‥「臣民」という成語は中国の文献にはほとんど出てこないそうです。「臣」と「民」というコトバは二つとももちろんありますが、しかし、臣と民との間はハッキリ区別されます。大日本帝国人民というときには「臣民」が一つの言葉として観念されていますが、臣というのは中華帝国では君主に直属した官僚を意味します。つまり臣は民から区別され「君臣」として君の方に結びつきます。‥ところが、日本で「君臣の義」というときにはその意味が拡大されて、一般人民も包含し、君臣と君民との両方の関係を包含します。…日本の場合、政事的統治が、上から下への支配よりは、下から上への「奉仕の献上」という側面が強調されていることを象徴しており、そこに政事の「執拗低音」がひびいております。」(集⑫ 同上pp.225-227)
「ここで後にまで残るおもしろいもう一つの執拗低音があります。それは摂関制の場合にも院政の場合にも、実際の決定者が摂政・関白ないしは院自身であるかというと、現実はそうでなく、ちょうど令制における令外官にあたるような非公式化、あるいは「みうち」化現象がおこります。非公式化あるいは「身内」化というのは、院の場合には院の近臣、つまり側近が「院司」となって、官位が低くても院の、ひいては政事の、広汎な実権をにぎる傾向が生まれます。…摂関も院も、帝(みかど)にたいする「後見(うしろみ)」の位置にあるのですが、その「後見」にまた「後見」がいる。しかもこの場合には、公的地位とも言いがたい私的な家政機関なのです。
 家司の勤務先を政所(まんどころ)と称しました。「政所」という名称は武家政治にも継承されますが、「政事」の構造を実によく象徴しております。それは一方では政権の下降傾向を、他方では政権の身内(みうち)化、私化傾向を表現しているわけです。」(集⑫ 同上pp.232-233)
「あえて単純化すれば、正統性のレヴェルと決定のレヴェルとの分離という基本的パターンから、一方では実権の下降化傾向、他方では実権の身内(みうち)化傾向が派生的なパターンとして生まれ、それが、律令制の変質過程にも幕府政治の変質過程にも、くりかえし幾重にも再生産される、といういわば自然的な傾向性があり、それが日本政治の執拗低音をなしている、という私の仮説になるわけです。」(集⑫ 同上p.236)
 「その際に大事なことは、権力が下降しても正統性のローカス(所在)は動かないということです。もちろん正統性自身のレヴェルは、視点によって幾重にも設定できます。日本全体として見れば、いかに実権が空虚化しても最高の正統性は皇室にありました。
 今度は武家政治(幕府政治)をそれ自体一つの統治構造とみれば、正統性のローカスは将軍であることは終始変りません。正統性の所在が動かないままに、実権が一方で下降し、他方で「身内」化していくということです。日本史には「革命」がない、とよくいわれますが、「革命」を政治的正統性の変革とみるならば、たしかにそう言えます。逆説的に言えば、革命の不在の代役をつとめているのが、実質的決定者の不断の下降化傾向であります。もちろん権力の下降がのぞましいと考えられていたわけではないので、くりかえしそれを防止する努力が行われますが、にもかかわらず、この自然的傾向性が強いのです。」(集⑫ 同上pp.236-237)
 「政事が上級者への献上事(まつりごと)を意味する、ということは、政事がいわば下から上への方向で定義されている、ということでもあります。これは西洋や中国の場合と、ちょうど反対と言えます。ガヴァンメントとか、ルーラー(支配者)とかいうコトバは当然のことながら、上から下への方向性をもった表現です。…ところが、日本では「政事」は、まつる=献上する事柄として臣のレヴェルにあり、臣や卿が行う献上事を君が「きこしめす」=受けとる、という関係にあります。そこで一見逆説的ですけれども、政事が「下から」定義されていることと、決定が臣下へ、またその臣下へと下降してゆく傾向とは無関係とは思われないのです。これは病理現象としては決定の無責任体制となり、よくいえば典型的な「独裁」体制の成立を困難にする要因でもあります。」(集⑫ 同上p.238)
「お袋は〔熱心な信徒とは〕見えないですけれど、非常に信心深い。宗教的敬虔さを持っていた。だから兄貴も僕も、中学までは食事の前に毎朝仏壇に手をあわせて拝んでいました。高等学校では寮に入ったこともあって、俺は仏教を信じていないのになぜ拝むんだと考えて、結局拝むのをやめちゃったんです。…『歎異抄』も何も読んでいなくて、ただ祖母が言ったことや、お袋が断片的に言ったことを通じて、影響と言ったらオーバーだけれど、学問とか知識とかそういうものとはかかわりなく、受けていました。道徳と宗教というのは、違うんだな。宗教はこの世の道徳を超越しているんだな、と知らないうちに覚えましたね。
 『歎異抄』を読んだのは助手になってからです。やっぱり非常に感動しましたけれど、そういう素地があったから読んで感動したのであって、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というのは、今でもそう思うけれど、世界的な思想ですよ。一三世紀にあれだけのことをいった思想家がいたというのは、たいしたものです。鎌倉仏教というのはたいしたもんですね。まったく中国では出なかった。中国の仏教は全部倫理主義だから、倫理を超えた立場というのは出てこないんですね。ですから鎌倉仏教ではじめて、中国仏教の模倣でない独創的な宗教ができたのです。道元とか、親鸞とか、日蓮とか。‥鎌倉初期というのは、日本思想史上で驚くべく独創的な宗教思想が出た時代でしょう。やっぱり律令体制の崩壊ですね。貴族がみんな終末観を持ったんです。律令体制崩壊で末世。
 〔仏教は〕それまでは体制とくっついていたんだけれども、その時はじめて大衆、ヴェーバー的に言うと大衆宗教性が出てきたんです。だからやっぱり親鸞が言っているように、学問をしなければ名僧智識になれないというのじゃ、大衆はいつまでたってもダメなんですよ、学問とは関係ないと。イエスと同じ立場をはじめて打ち出したわけです。一種のアンチ・インテレクチュアリズム。信仰のみ‥という、ややプロテスタントに似た立場を〔取った〕。一種の逆説です。
なまじっか善人は、自分がいいことをしていると思っているから、自分の精神の中にある罪の意識というのはそれだけ薄いと。ところが漁師なんかは、毎日毎日殺生している。殺生しなければ自分が食えない。だから自分の罪というのを、そのへんの倫理を知っている人間より、かえって意識している。だから阿弥陀仏にすがると。すがって救済される立場には、そういう漁師のほうが、その辺の名僧智識よりも近いという。これが「悪人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」です。法然の浄土宗の「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」を、ひっくり返しちゃったんです。驚くべき逆説です。これは山上の垂訓なんかにもある逆説と非常に似ています。本当に自分の頭で考えたものだから、大衆の中にパッと浄土真宗は広がる。
残念ながら四代目ぐらいで本願寺になっちゃうんだけれど、「弟子一人ももたず候ふ」と、「同朋同行」と言うんです。自分は師とは言えない。あなた方と同じ罪人なんだという。だから、およそ本願寺なんかを考えないんだ。ああいう組織を〔作るところが〕、日本の〔宗教の〕まずいところなんだ。シビル〔civil 市民的〕な精神がたちまち崩壊してしまうところが。僕はそういう意味では非常に浄土真宗には親近感を覚えました。もう一つはキリスト教に。それはあとで知ったのだけれど、ヴェーバーが日本には一つのセクトがある。非常にプロテスタンティズムに似た一つのセクトがあると〔『ヒンドゥー教と仏教』で〕言っているわけです。それが浄土真宗であることは、ほぼ明白なんです。プロテスタンティズムの禁欲原理主義は世界で唯一のものであると言いながら、日本の一つのセクトを除いては、と言っている。」(手帳52 「丸山眞男先生を囲む会」1988.6.19.pp.42-44)
「講義では中世鎌倉仏教のことは、「日本の宗教改革」という題でかなり詳しくやるんです。つまり奈良・平安仏教がカトリシズムに当たるわけです。それの宗教改革をやった三人を追っかける。親鸞と道元と日蓮。日本仏教を日本政治思想史の中でどうやって位置付けるかを、僕は非常に苦労したわけです。つまんないんだな、政治思想としては。みんな鎮護国家でね。蓮如もそうです。親鸞はあまり言っていない。ノンポリなんだ。思想史なら、これは魂の問題とか、書ける筈なんですよ。〔ところが〕政治思想でしょう。古代からずっとやってくる時に非常に困って。そこで僕は仏教を日本政治思想の中にどう位置付けるかを、この世に対する自我の態度決定のいろいろなタイプを明示してやったわけです。仏教を信ずるか否かにかかわらず、この世の問題に対する態度決定が、このタイプの中にあると。信仰それ自身よりも、あるいは親鸞や道元が何を言っているということよりも。
具体的には王法と仏法との対立、王法と仏法の関係の仕方。王法というのは、この世的なもの。それをいろいろな類型‥王法を断つ、断王法とか、王法に向かう〔向王法〕とか、王法に内在する〔内王法〕とか、に分けたわけです。
親鸞なんかは王法を断つ方なのです。‥〔王法が〕仏法の中に入ってきたら、抵抗の姿勢が出てくるわけです。それは親鸞の言葉にあるのです。守護・地頭が仏法のことに干渉してきたら抵抗すると。守護・地頭の制度をどうするかは何も言わない。ですからルッテルの宗教論にちょっと似ている。現実の政治体制に対しては何も言わない。ただ内面的な事柄に干渉してきたら、それには従わないということをはっきり言っているんです。‥
それから王法に向かうというのは日蓮です。親鸞よりもっと積極的に王法に立ち向かっていく。ある場合には敵としちゃう。王法に内在するというのは最澄なんかのタイプ。これは体制内在的です。そういうふうにいろいろなタイプに分けて、つまり日本人の世の中に対する態度決定の場合に、仏教のいろいろな類型というものが基本的に作用しているのではないかという仮説をたてたわけです。仏教思想というのをそのように政治思想史の中に位置付けたわけです。‥個人の態度決定というレベルで見ると、深層意識の中では仏教というのは非常に大きな作用をしているのではないかと。
浄土真宗の言葉に往相(おうそう)と還相(げんそう)というのがあります。往相というのは阿弥陀のほうに行く相、還相というのは一度阿弥陀を信仰してその後現世に立ち還って来ることです。仏教には、還相という面がだいたい弱いんです。キリスト教みたいにまた還って来るという、この倫理は仏教には非常に乏しいのです。これはやっぱり仏教の弱点ですね。だから阿片と言われる要素があるわけです。この世のことを忘れて、現世拒否だから、積極的に〔現世を〕肯定しているわけではないけれど。具体的に現世においてどういう態度をとるかについては、キリスト教のほうがもっと抵抗します。この世倫理があるから。福音の倫理というのは非常にはっきりしている。仏教倫理はだいたい〔この世倫理については〕儒教なんかから借りているんです。つまり慈悲だけじゃよくわからない。仏教にはこの世の倫理というのが非常に少ないんです。つまり往相のほうが強いんです。この世は所詮仮の世だ、諸行無常だから。仮の世だから。本当の救済というのは別のところにある。涅槃という別のところに。仏教が現世否定的というヴェーバーの規定は僕は基本的に正しいと思うな。その中では親鸞なんかは比較的に還相の面を持っているんです。
王法を一遍絶たないと、直接的肯定になっちゃうんですよ。これがまたやたらとあるんだな、日本仏教の中に。それは‥「即」という便利なものがあるからね。何とか「即」ということで、なんでも肯定しちゃう。これは日本仏教から京都哲学まで綿々としてあるんですよ。家永君の言う「否定の論理」がないといけない。やっぱりこの世は否定して肯定するという、否定を経た肯定。否定を媒介とした肯定。肯定というのは是認することではなくて、この世で生きているのだから、この世の問題に対してどう立ち向かうかという問題に、我々は当面せざるを得ない。これがみんな仮の世だというんじゃ、こりゃもう、どうにもならないんだな。どうも仏教というのはそういうところがあるわけですよ。逆に言うと、否定を経ない現実を、まるごと肯定になっちゃうんです、実際の態度としては。…
江戸時代の百姓一揆のまずい点は、超越的なものを持たないから、結局郷村に限られちゃうんですね。隣村とは水争いだし、むしろ喧嘩しているんです。村の団結は強いですけれど、村を超えた横の信仰共同体がないのです。一向一揆は、パッと広がって突破しちゃうんですね、地域的限界を。信仰共同体がないとそういうダイナミズムはなんですよ。江戸時代にはそれが奪われちゃうでしょう。幕末になると東北地方の大一揆など、村を超えたものはありますけれど、それはもう体制の崩壊の兆候であって、これは違うんだ。だから横〔の信仰共同体〕がなければ連帯意識は伸びないわけで、内の意識を突破するということは超越的なものに対する帰依という信仰共同体の強さになる。いまのイスラムもそうです。中には内ゲバもあるけれど、それは信仰の違いであって、ちょっと違う。地縁とか血縁が非常に強いから、それを突破する力というのは内在的な形では出てこないですよ、この世的なものからは。」(手帖52 同上pp.47-48)
「僕は日本の敗戦の時に戦時体制を無責任体制と認識したわけです。そしてそれは戦時には限らないとおしまいに書いた筈です。つまり無責任体制のプラスの面は独裁の成立が困難なんだと。いつもプルーラル‥な勢力が多元的に並んでいるんだということだと。無責任体制は戦時中のことだけではなく、深く日本文化の中に根ざしているというのが僕の意見なんです。だから、日本ファシズム論を書いた頃は日本ファシズムの特徴として書いたのです。‥
 無責任体制と言うと、もっぱら悪い意味になっちゃう。それから権力と権威の分業と言うと、いい意味になる。しかし権力と権威の分業ということは「超国家主義の論理と心理」にすでに書いてある。…
 学問の中には、面白いな、これをどうやって説明したらいいかな、と思うからやる要素と、自分の問題意識からして、問題の複雑な側面を自分の問題意識を貫徹するためにある側面を抽象して意識的に切っていく側面と、二つあるんです。‥戦争直後は後者の側面が強かった。戦後の日本をどう再建していくかというための問題意識が非常に強かったから、過去のある面を抽象と知りながら、意識的に切っていくという面が強かった。
 実際に政治思想史の講義を古代から始めると、やっぱり講義だから全部説明しなければいけないわけです。それにはどういう仮説を立てたら説明できるかというと、あそこ〔「日本思想史における諸問題」〕で述べたような仮説を立てざるを得なかったということです。正統性の源泉と権力の源泉とは違うという伝統です。院政以来非常に長いんです。全部これは中国にはないですからね。摂関制は中国では臨時です。日本では常設になっちゃう。幕府という他にない政治形態ができるでしょう。幕府の中でまた執権と将軍とが分かれるでしょう。今だって会長というのは、必ずしも実力がなくて、お神輿にすぎない、僕の分類に従えば。そうすると権威と権力の分業がやっぱりあると。トップにいるやつは権威だけあって権力はないでしょう。必ずしも天皇だけではないですよ。日本の組織形態の一つの特徴でしょう。
 それをどういう説明をしていくかというと、日本の文化論になっちゃうんです。もちろんそれだけが唯一の説明だとは言えないけれど。歴史について言えることは、こういうふうに現れればプラス、こういうふうに現れればマイナスになる、という以外にないんですね。そうでないと直接に価値判断を投入することになっちゃう。…プラスの面とマイナスの面がこういうふうにくっついているのが歴史なんですね。それをこの場合はいい、この場合は悪いと言っちゃうと、価値判断としてはいいんだけれど、にもかかわらずプラスとマイナスがくっついているという面が説明できなくなっちゃうんだ。」(手帖52 同上pp.60-61)