他者感覚

2016.4.22.

「学問的自由の前提は、マンハイムによれば、「いかなる他の集団、いかなる他の人間をも、その他在において把握しようとする根本的な好奇心」にある。」(対話 p.57)
「若いうちに、感受の弾力性があるうちに、異質的なものと対決せよ。Stirb und werde!〔「死ね、そして成れ」〕日本思想はやはりどこか自分の本来的傾向を再確認するといふところがあるから、あまり日本の古典ばかりやるのは危険だ。採長補短なんて言つてゐる程のんきな事態にあらず、採長補短ではでは主体は動かないままでゐる。主体が客体に対して捨て身になつてぶうかる事が重要だ。西洋的なもののなかに身をさらせ。Sturm und Drange.強靱な日本精神はそこからのみ生まれる。(昭18・6・2)(対話 p.5)
「三民主義が何故に支那思想史上、国民大衆の内面的意識に支持された唯一のイデオロギーとなりえたか。何故今日に於て国民政府も重慶政権も、延安政権も競って自己の正統性を孫文とその三民主義の忠実な継承者たる点に根拠づけようとするのか…。この「鍵」を解くことなくしてそもそも支那問題の解決もありえないとするならば、事は決して単なる「方法論争」ではなくまさに我々日本国民が主体的に取上げるべき問題なのだ。そのためにはもっと三民主義をその内側から、内面的に把握せねばならぬ。…
 しからば孫文主義の内からの理解とは何か。私はそれはなにより孫文自身の問題意識を把握することだと思う。孫文は何を語ったか若(もし)くは何と書いたかではなくして、彼が一生を通じて何を問題とし続けたかということである。彼が現実を如何に観たかということよりむしろ、彼は如何なる問題で以て現実に立ち向ったかという事である。」(集② 「高橋勇治「孫文」」1944未刊 p.271)
「漱石ほど近代日本の持っていた矛盾と懊悩を自らのものとして苦しんだ作家を私は知りません。…そうした作家がいかなる社会に生れいかなる環境に育ち、その社会の問題といかに取組んだかということを、公式的にでなく、作品の内面のなかから探り出す様に絶えず心掛ける事が大事です。」(集③ 「何を読むべきか」1946.7.23.p.39)
「福沢の様にその方法論なり認識論なりを抽象的な形で提示することのきわめてまれな思想家の場合には、その意識的な主張だけでなく、しばしば彼の無意識の世界にまで踏み入って、暗々裡に彼が前提している価値構造を明るみに持ち来さねばならない。」(集③ 「福沢諭吉の哲学」1947.9.7.p.164)
 「此書(「文明論之概略」)は彼の基本的な考え方を最も鮮明に示す著作であり、その意味において、われわれもまず、ここに現われている思惟方法の分析を手がかりとして彼の思想構造の内面に立ち入って行くこととしよう。」(集③ 同上p.166)
「音楽を通じて、「人類の哀れな女々しい魂を鞭うつ頑強な精神」を与えようとしたベートーヴェンがもし現代に生きて自分の曲とショパンの変ホ長調のノクターンとが並んでプロに載っているのを見たらどんな顔をするでしょうか。」(集③ 「盛り合せ音楽会」1948.8.p.338)
「ボルシェヴィキの組織と行動とを出来るだけ内側から理解しようというラスキの態度」(集④ 「ラスキのロシア革命観とその推移」1949.1.p.38)
「歴史の勉強に際しては、私はまず第一に方法論にとらわれずに対象そのものに付けということを主張します。…歴史と現代とをつなぐくさびは言うまでもなく人間です。歴史の中の人間の動きを注目することによって、それだけ、現実の人間を深く立体的に観察する眼が養われるのですが、逆にまた、現実の人間を見る目が肥えているだけ、それだけ錯雑した歴史過程のなかに躍動する人間像を浮びあがらせる力も生まれて来るわけです。」(集④ 「勉学についての二、三の助言」1949.5.p.165)
「思考の方法なり価値判断なりにおいて実にさまざまのニュアンスとヴァラエティに富んだ古今の思想の林に分け入って、夫々(それぞれ)の立場を歴史的背景の中に位置づけながら、生き生きと再生する事のむつかしさ…を思うたびに私はいつもさまざまの性格に扮しなければならない俳優の仕事を連想する。…偉大な思想家ととり組んでその発想の内的な必然性を見きわめ、語られた言葉を通じて語られざるものをも読取ろうとすると、どうしても概念的な構成力を越えた一つの全体的直感とでもいったものが要求され、それだけ芸術的表現力に接近して来る。…思想史を書く場合には…一度はその思想の内側に身を置いてそこからの展望をできるだけ忠実に観察し体得しなければならない。…思想史の叙述で大事なことは、さまざまの思想を内在的に捉えながらしかもそこにおのずから自己の立脚点が浸透していなければならない事で、そうでないとすべてを「理解」しっぱなしの虚無的な相対主義に陥って、本当の歴史的な位置づけが出来なくなってしまう。」(集⑤ 「自分勝手な類推」1951.10.pp.87-88)
「とくに歴史を学んでいるものの一人として私がいつも感じることは、対象の内側からの把握を通じてそれを突き抜けて行くことのむつかしさということである。…一つの世界の外側に住んでいる人間が外側からその世界を超越的に批判することは比較的易しいが、それではその世界の内側に住み、その世界のロジックと価値体系に深く浸潤されている人々を動かして外に連れ出す効果は弱い。さりとてその世界の内側にくまなく立ち入って理解しようとすると、いつの間にかミイラ取りがミイラになりがちである。思想史的に啓蒙主義と歴史主義の対立として現われているこのディレンマは実は狭い意味の学問や芸術だけの事柄ではなく、われわれをとりまく反動的な環境-機構・人間関係・イデオロギーなどをすべて含めて-と対決しようとする場合にいつも日常的に当面する問題なのである。」(集⑥ 「野間君のことなど」1953.11.pp.11-12)
「健康者と病人が互いに自分の言動の相手に与える影響や効果を読みちがえたために、思いがけぬ相手の反応の仕方に驚くといったことは、しばしばわれわれの経験するところであ‥る。健康者はまさに健康者であることによって病人のものの考え方や感じ方を把握する上に何か決定的な盲点を示すことが少くなく、この点では患者に最も近くいて内在的に患者を理解しているはずの医者も例外ではない。他方患者、とくに長期療養者は、知らず知らず療養生活の尺度で健康者の世界のことを測る結果になりがちである。
 …日ごろから両者の心理的交通をさかんにする努力が必要なわけだが、その際この二つの世界の溝が同情とかヒューマニズムなどでかんたんに埋められるかのようなオプティミズム(楽天主義)は警戒したほうがいい。さもないとせっかくの患者の切実なアピール(呼びかけ)や運動も、患者の世界に流通する考え方を健康者の世界に押売りする結果になって所期の効果を収めえなくなる。」(『別集』② 「健康者対病人」1955.4. pp.73-74)
「病理を説くにしても治療法を述べるにしても、…それが生かされるためには、著者の思考法自体が患者に即していること-つまり抽象的原則の個別的適用ではなしに、病気のあらゆる段階に応じて一個の人間としての患者が当面する問題や自然に湧く疑問ないし懐疑から出発することが重要です。…私が今度の松田さんの新著で何より感心したのは、病人の側からの発想を昇華させてこれを最新の医学の示す治療法の溝に流し込んで行く手際の鮮かさでした。」(集⑥ 「松田道雄「療養の設計」」1955.8.p.136)
「(トクヴィルの)どこまでもものにつきながら同時に自由にものを離して見る彼の異常な能力」(集⑥ 「断想」1956.1.p.149)
「僕は今度の問題(社会保障切り下げ)などを通じて、ひとの「身になって」みるということが現実にはいかに困難かをあらためて覚った。…各人の経験は結局彼自身だけのもので、他人によって代弁されたり、簡単に同感されたりできる性質のものでないからこそ、あらゆる人にはユニークな経験を自ら語る権利と、その経験に基づく要求を自ら主張する資格が平等に承認されねばならぬというデモクラシーの要請が本当に意味をもつわけだ。それに反して他人の経験への安易な同一化は一方では官僚的なパターナリズム(親心!)の、他方では不寛容の精神的土壌にほかならない。」(集⑥ 同上pp.152-153)
「私はラスキの特色はむしろこの目標(現代の革命)を‥つねに現代政治の動及び反動の生々しい力学のなかから、内在的に追求していこうとした態度にあるのだと思う。」(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.p.7)
「良識ということは何であるか。私は良識という事は、物事を距離をおいて見るということだと思います。物事を距離をおいて見るということは、傍観するということと違います。傍観というのは、自分だけを取りのぞいておいて眺めている。つまり物事に対してコミットしない無責任な態度、自分自身を無責任な地位におくのが傍観です。自分はもっぱら批判する側にたって、決して対象の中にはいらない。こういう良識派をもって任ずる人は、実は自己自身を隔離しておらない。自分自身をも距離をおいて見てないという点では、むしろ良識を裏切っている。
 …距離をおいて見るというのは、自分自身をも隔離する精神です。そうして自分自身を隔離するということは、現代のようなすべての物事の中に政治がはいってくる時代におきましては、自分の言論や行動というものが、不可避的に政治の一定の方向に対してコミットする意味をもつことを、自分で自覚するということであります。…党派性をもっているということを自覚しながら、党派的認識のかたよりを吟味していく-これが現代における良識というものの唯一のあり方だと思う。…
 ゲーテは、「自分はフェアであるということは約束できる。しかしどっちにもかた寄らないということは約束できない」と言っている。自分と違った立場に対して公正であるということと、いわゆる不偏不党ということとは違います。一つの立場をもつということと、他人の立場に対してフェアであるということとは、決して矛盾しない。ところが日本ではどっちつかずということとフェアであるということとが、しばしば混同されるのです。」(集⑦ 「思想と政治」1957.8.pp.146-148)
「ちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異なるものと措定してこれに対面するという心構えの軽薄さ、その意味でのもの分かりのよさから生まれる安易な接合の「伝統」がかえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。」(集⑦ 「日本の思想」1957.11.pp.199-202)
「異質的な社会圏との接触が頻繁となり、いわゆる「視野が開ける」にしたがって、自分がこれまで直接に帰属していた集団への全面的な人格的合一化から解放され、一方で同一集団内部の「他者」にたいする「己れ」の個性が自覚されると同時に、他方でより広く「抽象的」な社会への自己の帰属感を増大させる、ということも、‥私達の日常的な経験からも見当がつくところの一般的な傾向性である。…
 しかし、…日本と夷狄という国際関係における攘夷論の変貌ということと、個々の人間関係において異質的な生活様式やモラルをもった「他者」に面して、格別「身を構え」ないで、それをそれとして理解するようになるということと、は同じ次元の問題ではない。
 個人関係の次元において上にのべたような「他者」への寛容と「われ」の自主性という相関的な自覚が大量的に生ずるためには、他の条件は別として、少なくとも社会的底辺において異質的なものとの交渉がある程度まで行なわれなければならないであろう。そうした意味のコミュニケーションは今日の日本でさえ必ずしも発達していないのであるから、まして当時においてをやである。…伝統的な大陸文化圏への依存からの脱却が、西欧世界に向かっての認識の解放と「われ」の自覚という両方向を呼び起こす過程は、圧倒的に個人よりはナショナルな次元で行なわれ、その場合の「われ」は日本国と同一化した「われ」であった。」(集⑧ 「開国」1959.1.pp.66-68)
「手続きというものは、考え方や行動のちがっている人々がいろいろな人間関係を結ぶとき、はじめて必要となってくる。手続きとルールの尊重はやはり他者の感覚がないところには生まれないのです。‥個人がめいめい独立自主的であるからこそ、その共同行動には共通のルールが必要になって来るんです。」(集⑯ 「私達は無力だろうか」1960.4.22.pp.18-20)
「自分を他人に全部投入したり、自分のつくりあげたイメージで、他人を理解したりするのは、自分と他人との区別がはっきりしないことからおきるのである。」(集⑧ 「友を求める人たちへ」1960.7.p.320)
「知性の機能とは、つまるところ他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解することをおいてはありえない‥。」(集⑨ 「現代における人間と政治」1961.9.p.44)
「過去の思想から今日われわれが学ぶということはどういうことなのか。歴史的状況をまったく無視せずに、しかもその思想を今日の時点において生かすということはどういうことなのか。‥
 百年もまえに生きた思想家を今日の時点で学ぶためには、まず第一に、現在われわれが到達している知識、あるいは現在使っていることば、さらにそれが前提としている価値基準、そういったものをいったんかっこの中に入れて、できるだけ、その当時の状況に、つまりその当時のことばの使い方に、その当時の価値基準に、われわれ自身を置いてみる、という想像上の操作が必要です。…歴史的想像力を駆使した操作というのは、今日から見てわかっている結末を、どうなるかわからないという未知の混沌に還元し、歴史的には既定となったコースをさまざまな可能性をはらんでいた地点にひきもどして、その中にわれわれ自身を置いてみる、ということです。簡単にいえば、これが過去の追体験ということであります。
 しかし追体験だけでは、過去を過去から理解する、いわゆる過去の内在的理解が可能になる、あるいはいっそう深くなるというだけです。次には、その思想家の生きていた歴史的な状況というものを、特殊的な一回的な、つまりある時ある所で一度かぎり起こったできごととして考えないで、これを一つの、あるいはいくつかの「典型的な状況」にまで抽象化していく操作が必要になります。あらゆる歴史的できごとというものはそのままではくりかえされません。が、これを典型的な状況としてみれば、今日でも、あるいは今後もわれわれが当面する可能性をもったものとしてとらえることができます。
 …こういう操作で、歴史的過去は、直接に現在化されるのではなくて、どこまでも過去を媒介として現在化されます。思想家が当時のことばと、当時の価値基準で語ったことを、彼が当面していた問題は何であったか、という観点からあらためて捉えなおし、それを、当時の歴史的状況との関連において、今日の、あるいは明日の時代に読みかえることによって、われわれは、その思想家の当面した問題をわれわれの問題として主体的に受けとめることができるのです。」(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.206-208)
「認識する主体という立場からみれば、日本とか東洋とかいうもの自体もやはり認識の客体になるわけです。ところが、他者を認識するときには当然であるこの理屈が、自分を認識する場合にはなかなかとおりにくい。しかもわれわれは日常的にわれわれの属している集団と自分を心理的に同一化しています。…
 ところが、さきほどいったような課題を遂行するためには、まず認識主体というものをそういう既成の同一化から引き離さなければいけない。すなわち、漢学に養われ、聖人の道で養われてきためがねを通じてできていた世界像を吟味しなおすためには、まず東洋と同一化していた自分というものをいったん東洋から引き離して、文字どおり認識主体としての自分自身にたちかえらなければならない。…こうして従来心理的な近接感に依存していた世界像のめがねを再吟味するという課題が、初めて内在的に出てくるわけです。…つまりまず同一化に基づく「うち」と「よそ」の気持ちから自分自身を剥離しなければいけない。剥離しなければ客観的に見ることができない。そういうつきはなした認識は、自分の国を大事にするとか愛するとかいう自然の感情の有無と混同してはならない、ということになります。」(集⑨ 同上pp.218-220)
「好(ハオ)さんは、普通、土着派、ナショナリストといわれていますが、インタナショナル-インタナショナルを超えてむしろ世界市民的なものを根底に持っているような気がします。…民族的内発性ということをあれだけいう人が、世界中どこでも同じ人間が住んでいるという感覚、隣の人は日本人である前に人類の一員なんだという感覚を体質的に身につけている。」(集⑨ 「好さんについての談話」1966.6.p.338)
「日本の場合には自分の好みとか、自分の思ってること、自分の気に入ってることを主張するということなら、とうとうと何時間もまくし立てるけれども、じゃあ反対の立場を述べてごらんなさいといったら、愚劣であるとか、ナンセンスだということしか述べられない。つまり内在的に相手の論理の中に立ち入ってそれを完全にそしゃくして、その上で自分の論理を展開していくということがあまり行なわれない。これは精神の強さではなくて弱さの表現です。否定を媒介にした肯定でなくて、いわしの頭の信心に近い。こういう精神的雰囲気があるところに、具体的な処方箋を与えるということはかえってよくないというのが、まさにわたくしの現代日本への処方箋なんです。」(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.121-122)
「南原(繁)先生の場合には、こうした「貧乏」への感覚は同時に文字通り「隣人」の経済生活への不断の思いやりとなって現われていた。それだけでない。私がその後さまざまの局面で思い知らされたのは、さきの先生の言葉にもある「人それぞれの行き方があるが……」という留保が、先生においてはたんなる修辞ではなくて、むしろ先生の本質的な信条にかかわっていた、ということである。従って先生の「やせがまん」は、たとえば先生よりはるかに恵まれた研究条件にある、(もしくは条件を選んだ)人々にたいするルサンチマンの感情とはおよそ無縁であった。こうした生活問題に限らず、己れを律する厳しさと、他人の他者としての「行き方」にたいする寛容と、この二者が先生の場合のように一個の人格のなかに融合している例に、私は今日まであまり遭遇したことはない。」(集⑩ 「断想」1975.5. p.165)
「好さんという人について、ぼくの好きな点の一つは、自分の生き方を人に押しつけないところなんです。…好さんにはね、自分とちがった生き方を認める寛容さがあるんです。…その人なりの立場から一つの決断をした場合には、自分ならばそう行動しないと思っても、その人の行き方を尊重するという、原理としての「寛容」をもっていました。それは残念ながら日本の知識人には非常に珍しいんです。他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目です。これは日本のような、「みんな日本人」の社会では育ちにくい感覚です。日本人はね、人の顔がみなちがうように、考え方もちがうのが当り前だ、とは思わない。言ってみれば、満場一致の「異議なし社会」なんです。ですからその反面は異議に対する「ナンセンス」という全面拒否になる。もっとも日本にも「まあまあ寛容」はあります。集団の和を維持するために、「まあまあ大勢に影響はないから言わせておけ」という寛容です。そういう「寛容」と「片隅異端」とは奇妙に平和共存する。だけれども、それは、世の中の人はみんなちがった存在なんだという、それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容ではないんです。好さんの場合、おそらく持って生まれた資質と、それから中国という日本とまるでちがった媒体にきたえられたこととがあるんでしょうが、彼のゆたかな他者感覚は島国的日本人と対照的ですね。これは個人のつき合いだけでなく、実は彼の思想論にも現われています。‥
 ぼくはもともと人見知りする性質ですし、はじめハーバードへ行くことになった時にも、英語の会話が全然駄目なので出かけるのがオックウになる、と言ったら、好さんは言下に「どこにでも同じ人間が住んでいると思えばいいんだよ」と言いました。「どこにでも同じ人間が住んでいる」という感覚ね。これが本当のコスモポリタニズムなんだ。「人類ってのは隣りの熊さん八っつぁんのことをいうのだ」と言ったのは内村鑑三ですけど、これもみごとなコスモポリタニズムです。熊さん八っつぁんは同村の人だけれども、それを同時に、またナチュラルに人類の一員としてみる目です。「人類」なんていうと何か遠い「抽象的」観念と考える方がよほどおかしいんです。ふつう好さんのことをナショナリストと言うでしょう、ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。二十年以上のつきあいを通して、好さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます。どこにも同じ人間がいる、というのは‥個性のかけがえのなさ、ということとちっとも矛盾しないんです。むしろ、集団の満場一致の考え方が、島国的な「うち」対「よそ」の区別に基いている。自分がいま立っているここがとりもなおさず世界なんだ、世界というのは日本の「そと」にあるものじゃないんだ、というのが本当の世界主義です。ところが世界とか、国際的とかいうイメージがいつも、どこか日本の「そと」にある。これがエセ普遍主義で、それに対して「うち」の集団という所属ナショナリズムがある。この悪循環を打破しなけりゃどうにもならない。だから、一身独立して一国独立す、というかぎりでは、好さんもぼくも全く同じ考えだと確信しています。ぼくとは仕事の領域がちがうし、考え方もちがうから、そこは一口にいえませんけれど、一番くいちがうように見えるナショナリズムの問題でさえ、二人は実は同じメダルを両側から攻めていたのだと思うんです。むしろ、あれだけ反ヨーロッパというか、アジア主義を高唱する好さんが、ヨーロッパの個人主義とリベラリズムの最良の要素をどうしてあのように、ただ頭で分っているというだけでなく身に着けていたのか、ぼくにはそれがなぞといえばなぞです。ラジカルな思想家に左右を問わず一番欠落している、あのリベラルな-「民主的」という意味でない-他者感覚を、です。」(集⑩ 「好さんとのつきあい」1978.10.pp.358-360)
「昔の時代を「理解する」ことの意味ということを、考えてみたいのです。カール・マンハイムが‥「学問的自由の前提は、いかなる他の集団をも、またいかなる他の人間をも、その「他在」において把握しようとする根本的な好奇心」‥と言っていることです。他者を他者として理解するということ、これが学問的認識のアルファです。‥こういう知的好奇心がなくなると、つまり、自分の現在の関心事以外はすべて「関係ねえや」ということになってしまいますと、これは非常に危いんです。とくに歴史を勉強するうえには、他者を他在において理解するというのは、必須の前提なんです。たとえば江戸時代を理解するときのイロハは、江戸時代を江戸時代から理解することです。つまり現代の感覚を直接その時代に投影しては絶対に江戸時代というものはわからない。‥江戸時代と現代とはまるで違うから、そもそも理解できるか、という話になる。けれども、差し当りできるだけ他者を他者から理解する、他者の内側から理解する、ということが歴史のイロハだということを申しておきます。
 同時にそれは、歴史の理解の問題だけではありません。この世界は全部他者の寄り集りです。日本は、長い間、同一民族、同一人種、同一言語、同一領土ということになっていて-これはどこまで歴史的「事実」かという問題よりは、そう考えられていた、という意識、そういう意識が事実あったという問題なのですが-、これは文明国のなかで非常に珍しい。だからそれだけ他者感覚が希薄になりやすい。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.172-173)
 「日本が同質的なのは、それだけ安心して住めるので有難いわけです。けれどもまさにその点が思考様式においては盲点を生んでいる。日本だからこそ他者感覚が非常に大事だというのです(後記-これは維新のはじめにすでに福沢が強調している事です。「都(すべ)て人間の交際と名づくるものは、皆大人と大人との仲間なり、他人と他人との附合なり。此仲間附合に実に親子の流儀を用ひんとするも亦難きに非ずや」(学問のすゝめ、第十一篇)。他者感覚がないところには人権の感覚も育ちにくい。だから他者を他者から理解するという事が、実践的にも大切なことです。…意見に反対だけれども、「理解する」-この理解能力が、他者感覚の問題です。これがないと全部自分中心の遠近法的な世界になる。子供の世界像というのはそうです。「お隣のナニちゃん」「お向かいのナニちゃん」です。平たくいえば、科学の約束となっている客観的認識というのは、そういう「お隣のナニちゃん」「お向かいのナニちゃん」を脱して、「地図的認識」になることです。つまり、ここはどこですか、慶應大学です、慶應は三田にあり、三田は東京のなかのここにある、という地図的認識です。慶應のお向いはナントカというのではないのです。自分を中心とした、あるいは自分がアイデンティファイした自分の家とか自分の「くに」とかを中心とした世界像から、こういう意味の「客観的」認識へ歩むのは大変なことなんです。地図的認識は「不自然」で、ほっておけば、自分中心の世界像の方がナチュラルですから、いつまでたっても他者認識にならない。だから日本のような同質的島国では、他者を他者として他者の内側から認識する眼を養うということがとくに大事だと思うんです。
 マンハイムのいう他者に対するNeugierde-「好奇心」curiosityですが、「好奇」というのは私はあまりよい訳(やく)ではないと思う。"I am curious"というのは、要するに「きわめたい」ということであって、奇妙なものだから興味があるという意味ではないんです。他者を他者として「何だろう」という気持ち-これが学問の始まりです。役に立つとか実践に意味があるというのは、結果としてでてくるのであって、はじめから実用を目的とすると、むしろ他者認識にならない。歴史を学ぶ、という話に戻れば、昔の時代を理解すること、そのこと自身に歴史の勉強の意味があるんです。でなければ、「昔と今とは時代が違う」ということで、「関係ないや」で終わってしまう。しかもこれらは歴史の勉強だけではなくて今の問題でもある。今の他民族を理解する、あるいは第三世界を理解する、全部同じ問題になります。日本人はとかく自分の像を相手に投影してしまうか、でなければ「関係ないや」かどちらかです。日本の明治以来の外国認識のあらゆる間違いはそこに根ざしている。中国に対する認識が根本的に誤っていたというのも、他者感覚がないからです。同じ漢字でしょ。「同文同種」なんて言っていた。実際は文法がまるでちがうし、同じ漢字の意味がちがうのに、なまじ字が同じだし、文化を殆ど中国からもらっているので、自分を相手に投影する。それがかえって誤解のもとになる。徂徠が「和臭」を去らなければ、漢文はわからぬといったのはそれなんです。中国よりももっと遠いヨーロッパ文化の理解となると、なおさら困難なのに、その困難の認識がない。…隣の中国さえわからなくて、どうしてヨーロッパがわかりますか。内在的にヨーロッパ文明を理解するということは、大変なことなんです。日本は‥中国文明を長い間摂取して以来つまみ食いの得意な国なんです。これは長所でもあり、同時に短所なんです。…だから、結局他者感覚がないと自分が採ってきたものを逆に輸出して、それをヨーロッパと同視してしまう。ヨーロッパのどこに、日本ほど自然を平気で破壊する国がありますか。どこに、最新流行の機械を追っかけている国がありますか。だから他者を他者から理解するというのは、たんに遠い歴史的時代の認識だけではなく、今の問題なんです。日本人として現代の問題だし、お互い一人一人の問題なんです。」(集⑪ 同上pp.175-177)
「私はそこ(浅井注:1903年に出たアストン(イギリスの外交官)の『日本文学史』)で、"他者感覚"ということをいったんです。…ここには自分たちの文化や伝統とまったく違った何ものかがあるというので必死になってこれを追求している。それをぼくは他者感覚(センス・オブ・アザネス)というんですが、何とかして他者を知りたいという気持ちがあって、それが驚くべき成果を逆に生んだわけです。…
 ぼくは"空港化"というのだけれども、世界中の国際空港というのはだいたい同じで、没個性なんです。…だから、ぼくは世界文化の空港化といっているんだけれどもね。しかも、英語がなまじっか世界語になったでしょ。そうすると、英語国民にとってはアストンの時代とは比較にならないほど便利なわけね。したがって、日本へ来てホテルに泊まったって不自由しない。…そうなれば、何だ、われわれと同じことじゃないかということで、他者感覚がなくなる。…すると自分のイメージを知らないうちに他者に投影してしまう。
 経済だってずいぶん違うと思うけれども、いちばん世界中共通している経済というものから、いちばん違っている文学とか芸術まで、他者を知ろうという気が少なくなってくる。政治になると、経済よりは違うでしょう。つまり、同じ制度を輸入しても、それを動かしている精神が違えば機能の仕方は違うわけですからね。ところが「なあに、世界中同じじゃないか」というふうにみえてしまう。その危険性のほうがはるかに大きいんです。今では他者感覚がなくなった危険性のほうが大きいんで‥。」(別集③ 「『加藤周一集』をめぐって」1980年 pp.306-307)
 「そういう意味では、翻訳文化というのも非常に害毒を流しているんです。竹内好ではないけれども、‥非常に便利な訓読法を発明したおかげで、漢文理解にいつまでも和臭がつきまとってしまって、中国文化なり中国語を中国から理解するという目が日本人からなくなってしまった。それと同じことが近代ヨーロッパについていえるんですね。何でも翻訳で読めるから、わかったような気になっているが、伝統の距離を克服するのは容易なことではないんですね。その困難さの自覚があればいいんです。」(別集③ 同上p.308)
 「今の日本は開国的鎖国なんですね。実際は開国したけれども、他者を他者から理解するという面が、もともと日本人には非常に希薄ですね。自分からみて放射状的なヨーロッパ像であり、中国像であるわけですが、それでしょっちゅう間違っている。どうも他者を他者から理解する面が希薄なのではないでしょうか。
 一つは、日本のなかに異民族がほとんどいませんからね。みんな日本人だから、腹がわかっちゃうとかいうことになる。だから、他者を理解するということは、非常に苦手なのではないでしょうか。自分を投影するか、逆に拒絶反応を示すかです。他者を他者から理解するというか、一度外の目から日本文学なり何なりをみる。しかも彼(浅井注:加藤周一)はけっして外からの目をそのままうのみにしていない。そういうことを彼は向こうの人との接触で知っているわけですね。…
 まあそれは別として、他者を他者から理解する目というものをうんと養わないと、精神的開国にならないですね。まだまだそれがなさすぎます。それに仲間同士だけでしゃべっているからいっそうよくない。」(別集③ 同上p.309)
「言語の障害とは何でしょうか。…コトバというものはどんなに流通してもそれを育んで来たカルチュアを背中に貝殻のように背負っているものだという宿命の自覚が乏しいのではないかが気になります。したがってペラペラと西欧語を駆使できる人の場合ほどそういう盲点を露呈する傾向があります。…ここにひそむ問題には相互性があります。日本の研究をしている若い外国人学者にますますペラペラと日本語をしゃべれる人が増えて来ました。…私はそういう日本学者に往々見られる「他者感覚」の欠如もしくは減退から生れるある安易さをおそれます。その安易さはまさに私達日本人のなかに戦後とくに、たとえカタコトでも英語をしゃべり、また‥抽象語や学術用語をはじめから本来の日本語の意味によってではなくて、まさに翻訳語として、言葉の背後の外国語を予想しながら、日常自然に駆使している、という事情によってますます助長されるのです。
 …(G.アストンやE.サトウやB.チェンバレンにしても)太古から独自のカルチュアをもった日本を理解するに際して、己れとまったく異質的な何ものかに自分は対面しているのだ、という覚悟をもち、その他者を他者として理解しようと必死になって努力したにちがいありません。それが彼等の古典翻訳や著作にあのような不滅の輝きを与える成果となったのでしょう。そうして基本的に同じことが福沢や兆民の、いや西園寺公望や伊藤博文さえもの西洋理解についてもいえるように思われます。
 他者感覚-the sense of "otherness"は、異国趣味とは全く似て非なるものです。エキゾティズムはいってみればパンダにたいする好奇心と同じです。エキゾティックな興味はどんなに観察が微細に汎っても、観察の結果が自分自身にはねかえって来ることはありません。それにたいし、the sense of othernessをもって対象にのぞめば、その成果はたんに対象についての情報の増大にとどまらずに、観察主体にはねかえり、自分たちが自明のこととして使用していたコトバや概念装置がいかに自分たちのカルチュアによって制約されていたかを自覚させる筈(はず)です。異質的な文化間の対等な相互理解への途がこうして開かれます。
 世界的なコミュニケーションの発達と、とくに英語が世界語になったことによって他者感覚はどうしても稀薄化しがちです。他者感覚を喪失した、どこでも要するに大同小異なんだという一種の「普遍主義」を私はInternational Airport Theoryと呼ぶことにしています。国際空港ほどどこに行っても基本的に同じ構造をもち同じ格好をしているものはありません。世界の諸文化は-政治文化もふくめて-果して国際空港のようになるでしょうか。また個人と同じく文化も個性(特殊性でなく!)を失って等質的になることがそれほど望ましいでしょうか。荻生徂徠は江戸時代にあって、われわれが昔から読みなれている論語は日本語と全く異質的な外国語で書かれているのだ、という宣言によって同時代人に一大衝撃を与えました。けれどもそれによって中国古典の内在的理解は飛躍的に発展したのです。ツーツーカーカー的な普遍主義はかえって深い国際的相互理解を妨げるという逆説を私達は今日もう一度考えて見る必要があると思うのですがいかがでしょう。」(集⑫ 「歓迎パーティで言わなかった挨拶」1982.5.pp.10-12)
「ぼくが鶴見〔俊輔〕君を好きなのは、この人は、タイプとしてはクレッチマーが言う「分裂病型」なんですよ。分裂病型というのは不寛容でね。だけど、鶴見君の場合は、自分と違ったものへの対し方が身に付いている。‥やや、ドグマチックで、ファナチックで、そこのおもしろさがオリジナルであるという、そういうタイプはだいたい不寛容なんだ。ところが彼は、自分と違った立場に対して実に寛容なんだ、昔から。これは寛容の思想とかそういうものじゃなくて、身に付いている感覚なんだそれは、アメリカの最良のものを得たのか、それとも、なにかもっと生理的なものなのか、そこはよく分からないけれどね。」(自由 1984.10.pp.12-13)
「定義を下すとは同時に自己限定をすることです。私はこういう意味でコトバを使っているので、べつの意味で用いれば、またちがった帰結が出てくることを認めますよ、という留保です。そうした限定と留保なしに、銘々まるごとの「情念」をぶつけあっている不毛な論争が、何と五月蠅(さばえ)なしていることでしょう。それが結構まかり通れるのは、一見逆説的ですが、日本社会が基本のところでツーツーカーカーの同質社会で、他者感覚がそれだけ稀薄だからです。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.24)
「結論が合っていると、相手にたいして期待過剰になりやすい。「あいつの考え方も好みも自分と同じだ」と。ところが、ある事柄で行動を共にしても、その根拠となるとちがっていて、そこで段々とくいちがいが分ってくる。そうすると、こんどは一転して「あいつはダメだ」となるわけですね。期待過剰が今度はオール否定に転ずる。他者感覚の乏しい社会ほどそういう現象がおこりやすい。…自分の先入見で相手を見て、その行動から相手の動機や立場を推しはかってゆく。」(集⑬ 同上pp.75-76)
「政治、いやもっと広くいえば社会というものは、他人と他人との付き合いだというのが福沢の根本的な前提です。儒学の根本的な間違いは、家庭の中、家庭の中で行なわれる関係を、他人と他人との関係にそのまま及ぼそうとすることにあるというのです。…明治後半期になると、「家族国家論」のイデオロギーが登場しますし、大正時代になると企業一家といった考え方も出てきます。この点でも近代日本の考え方は、福沢とは反対の方向に逆行していると言えます。皮肉なことに維新直後の方が他者感覚があり、社会関係について、骨肉の愛情が適用される範囲の限界、という認識があった。逆にいうと、それだけ虚偽意識から免れていたということになります。」(集⑬ 同上pp.303-304)
「福沢が思想家としてすぐれていると思う点の一つは、その想像力の豊かさです。ゲゼルシャフトの社会は、今までの社会の常識からみたら驚くべき無道徳・無秩序の社会に見えるという感覚-福沢と正反対の立場の徳教主義者から見た世界像をちゃんと共有することができ、なおその上で、「法の支配」の社会に変化してゆく不可避性を見てとり、そこにもそれなりの「条理」があって、けっして無秩序な世界ではない、ということを説得しようとしているわけです。
 どうして福沢に、このような他者感覚が出てきたのか、どこから身につけたのかは、私には正直にいってもう一つ分からない点です。同時代の他の啓蒙思想家、たとえば明六社の同人たちと比べてみても、どうもその点がちがうのです。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.pp.57-58)
「石母田(正)君は、イデオロギー的な立場というのは非常にはっきりしているけれども、同時に学問的に優れたものは反対の立場といえども、認めるべきものは認めるという点もまた一貫していた…。学問的業績は学問的業績として、どんな立場であれ、いいものはいい、悪いものは悪いという。逆に同じイデオロギーの人のつくった学問的著作でも悪いものは悪いという。そこのけじめが石母田君は非常にはっきりしていたということは、マルクス主義者であるだけに、私にとっては非常に感銘が深かった。つまり平たい言葉で言えば、「尊敬すべき敵」という観念ですね。尊敬すべき敵という考え方を、別に教わったのでなく、彼は感覚的に持っていたと思います。」(集⑮ 「吉祥寺での付き合い」1988.10. p.7)
「私共があらためて印象づけられたのは、南原(繁)先生がこと思想や学問については明確な批判精神を持しながら、話題がひとたび人間の性格とか生き方とかに相渉るや、これまた峻厳に「禁欲」に徹せられ、「その人にはその人の行き方がある」という先生の恒言が示すような、他者への寛容の態度であった。現存する人物や、多年の同僚にたいしていかに意見が鋭く対立した場合でも、先生の批評はけっしてその人物への人格的誹謗に及ぶことがなかった。」(集⑮ 「「聞き書 南原繁回顧録」まえがき」1989.9.pp.73-74)
「普遍的というのは、何も空中に浮いているわけじゃないんですよ。みんな世間話をしているでしょ。それが普遍なんです。自分と直接利害のない話をしているわけです。アムネスティにとらわれずに、議論というか、ディスカッションというかな。自分の属している集団や職業に関係のない話を他の人とする習慣をつける以外ない。ただ考え方で大事なのは、言葉にとらわれてはいけないということです。言い換え能力を身につけるということ。その言葉でしか言い表せないと思ってしまうと、言葉の天下りになっちゃう。そもそも人権とは、と〔上から〕言うと、お説教だな、ということでおしまいになっちゃうんです。議論をする。例えば、あなたは会社の社員としてそう言うんですか。いえ、そうじゃないですと。すると、あなたは何々家の家族としてそう言っているんですかと。いや、そうじゃない。じゃ何でそう言っているんですか、と訊けば、ただ、私は自分の意見を言っているということになる。「ただ」というのは、人間じゃないですか。どうして人間を、あなたは抽象的と言うんですか、というふうになる。ちょっと議論すれば、すぐに矛盾が出てくるんです、特殊主義で人間が尽くせないということは。…
 違った考え方と絶えず接すると、それに対してどうやって説得するかということを考えざるを得ない。嫌がらないで接触を盛んにすることですね。そうだ、そうだ、というのがいちばん良くない。思考の惰性が蓄積されちゃうんです。極端になると、こんなにいいことがどうしてわからないんだろうってことになる。そうなると、危険信号です。違った考え方が理解できなくなる。‥他者を理解することに慣れなきゃいけない。」(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.20.pp.29-30)
 「英米の文明とキリスト教は、くっついているんです。それに対して宣教師、英米教会から独立したのが、内村です。‥内村の無教会主義というのは英米教会からの独立、つまり英米の文明とキリスト教とを峻別しようという主義なんです。珍しいんです、ウチ・ヨソ主義からの離脱。「人類ってのは隣りの熊さん、八つぁんのことをいうのだ」という有名な言葉があるんです。あの考え、つまり国家とか、そういうものを通過しないと、インターナショナルには行けないという考え方に対して、インターナショナルというのは、個人と個人、隣の人に対してインターナショナルである。熊さんをインターナショナルな人間として見るという目、そういう目を持っているという意味です。遠近観念だと出てこないです、インターナショナルな世界というと、遠いものとして見る。それは遠近観念です。
一五、六世紀のキリシタン版〔キリスト教の出版物〕で、今のことをいちばん具体的に表したのは『日葡(にっぽ)辞書』ですね。‥日常語を全部収録しているんです。お蔭で当時の日本人がどういう日本語を使っていたかがわかるんです。ポルトガル人が日本人との協力でつくった。なぜああいうものをつくったか。いかに他者感覚を当時の宣教師が持っていたか。日本人は自分たちとは違う存在なんだと。どうやって理解するのか。日常語を理解しないと絶対わからない。押しつけと正反対なの。まず庶民が語っている言葉を理解する。大変ですよ。〔ルイス・〕フロイスをはじめ、当時の宣教師は日本語がペラペラ。自分とまったく違った人間をどうやって説得するか。ポルトガルで通用している論理をそのまま言っても通用しない。日本人にこの根本的な真理をわからせるにはどうしたらいいか。日本人を他者として理解することが出発点。そういう他者感覚があるから、『日葡辞書』のようなものができるんです。」(手帖54 同上p.36)
「人生は、そこで大勢の人が芝居をしているかぎり、大事なことは、自分だけでなくて、みんながある役割を演じている以上、自分だけでなく、他者の役割を理解するという問題が起こってくるということです。理解するというのは、賛成するとか反対するとかいうこととは、ぜんぜん別のことです。他者の役割を理解しなければ、世の中そのものが成り立たない。  他者の役割を理解するための理解力の一つの基準として何があるか。‥他者の役割の理解というのは、役割交換をしてみれば、いちばんよくわかる。自分の役割でない役割を自分が演じてみることです。そうすると、役割の理解とは、他者の理解ということになります。しようと思えば役割交換ができる。そういう訓練が他者への理解力を増していくことになる。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.p.303)
「今年いちばん世間を騒がしたのはオウム真理教ですね。‥私の感じは、他人事と思えないんです。‥一言にして言えば、私の青年時代を思いますと、日本中オウム真理教だったんじゃないかと。そうとしか思えない。そうすると、非常によく思い当たる。つまり、一歩外へ出れば、日本の外に出れば全然通じない理屈が、日本の中でだけ堂々と通用して、それ以外の議論は全然耳にもしないし、問題にしない。もし、それを問題にする人があったら、捕まったり、非国民と言われたり、それは散々なものです。その孤立感、つまり、島国の中にいて、九九パーセントが信じていることを信じていないと言うことが、どんなに辛いことか‥。九九パーセントの日本人が、全くわれわれから見るとおかしなことを言い、信じ、かつそれを疑わない。これは、われわれの方がどこかおかしいんじゃないかという、それぐらい、多数からの孤立感というのは、怖いものです。国家権力から追いかけられたり-私も多少は経験がありますけれど-そういうのも怖いんですけれど、それよりはるかに怖いのは世間からの孤立ですね。…
 理屈を言いますならば、他者感覚のなさということです。他者がいないんです。同じ仲間とばかり話をしますから。日本は鎖国だとかなんとか言いますけれど、一言にして言えば他者感覚のなさということ。他者との対話が非常に欠乏しているということです。そこに大きな問題があるんじゃないかということです。その怖さですね。…
 普通にディスカッションをして、日本のいわゆるインテリの人、いろいろな違った分野の人と話をして、なにか違う、つまり、何と言いますか、情報量の多さとか、そういうものと関係がない判断力が、いわゆる日本なり世界なりの問題に対する判断力において著しく欠けている。どうしてそうなるのか。それは結局、職場なら職場の、同じ人とばかりつきあう、そういう傾向が特に日本では強い。そうすると、どういうことになるかというと、他者感覚がなくなるわけです。…
 私の言う他者感覚というのは、反対するという意味じゃないんです。反対するという意味じゃなくて、またどっちが正しいということよりも、違った考えの人と話をする、考えというのも言いすぎだと思うんです。私はむしろlight、照明と言った方がいいと思います。つまり違った人と話せば、照明の当て方が違ってくる。‥これは、意見のどっちが正しいとか、間違っているとかというのとは違った、つまり、違ったアングルから物事を見る。違った角度から、違った照明を当てる。そうすると、その対象もまた違って見えてくるわけです。それは、決して、いわゆる価値の多元化ということと同じではないんですね。なぜならば、違った角度から、違った照明を当てることによって、ある像が映りますが、それは客観的真理に関係しているんです。単なる相対主義じゃないんです。‥多くの多様な意見があった方がいいというのは、ただ数が多いとか、ただ違った意見というのではなくて、照明、当てる照明の数が多くなるということです。
 残念ながら、個人の知性がこれだけ高いにもかかわらず、少なくも私の知っている外国人、西欧人だけじゃなくて、アジアの人々と比べても、なにか日本はおかしいところがある。」(手帖24 「「丸山ゼミ有志の会」懇談会 スピーチ」1995.12.3.pp.42-45)