21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト

7.日本の政治状況に対する考察方法:《政治的リアリズム》
ー「日本の政治問題に対するアプローチの仕方」(A:p.319)ー

「ある自由主義者への手紙」-A-   「政治的判断」(1958年)-B-   「私達は無力だろうか」(1960年)ーC-

*(1)では、50-52年当時の政治状況及びこれに対する丸山の問題意識を手がかりにして、当時の状況が基本的に変わらないままで今日につながっている深刻な状況を確認した。そういう深刻な状況を生み出す日本の政治土壌を形作る要素については2.で考えることにする(前述)。しかしいきなり2.に入ることになると、余りにも重苦しくなってしまうし、そもそも「私たちには明るい将来展望があり得るのか?」という疑問を皆さんがもってしまうことになりかねない。

  私は決して強がりではなく、明るい将来があると考えている。少なくとも可能性はある。そこで2.に入る前に、(2)として、「そういう日本の政治状況を改める手だてが果たしてあるのか」という問題を考える。ここでも丸山を素材にする。丸山自身が、積極的にこの問題意識と正面から向かい合い、今日の私たちの問題状況から見ても大いに参考になる見解を明らかにしているからだ。そのキーワードは「政治的リアリズム」である。私が重視する「理想主義的現実主義」というアプローチと重なり合う部分が多い。ここにも私が丸山を重視する一つのゆえんがある。

{丸山のいう「政治的リアリズム」とは何か?}

〇「空理空論というものはだめだ、それは書生の政治論だというようなことがいわれます。…政治というものは状況のリアルな認識が必要なんだ、という‥かぎりでは正しい。しかし‥政治というものはユートピアではないからといって必ずしもいわゆる理想と現実の二元論を意味するものではない…。なぜかと申しますと、『理想はそうだけれども現実はそうはいかないよ』という、こういういい方というものには、現実というものがもつ、いろいろな可能性を束としてみる見方(1)が欠けているのです。現実というものをいろいろな可能性の束として見ないで、それをでき上がったものとして見ている(2)わけであります。…現実‥の中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、或いはどの可能性を矯めていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関連づけていく考え方、…そこに方向判断が生まれます。…方向性の認識というものと、現実認識というものは不可分なんです(3)。…いろいろな可能性の方向性を認識する。そしてそれを選択する。どの方向を今後伸ばしていくのが正しい、どの方向はより望ましくないからそれが伸びないようにチェックする、ということが政治的な選択なんです。いわゆる日本の政治的現実主義というものは、こういう政治的方向性を欠いた現実主義であって、『実際政治はそんなものじゃないよ』という時には、方向性を欠いた政治的な認識が非常に多いのであります(4)。」(B:pp.318-9)

<注釈>

(1)「いろいろな可能性を束として見る見方」:具体例で説明した方が分かり易いだろう。最近であった毎日記者の質問(「現実主義の立場に立って、有事法制が実現した後の日本の国際社会との係わり方をどう考えるか?」)を例にして考えてみる。

ー有事法制は、現在の状況では決して「現実」ではないこと。

ー有事法制(日米軍事協力強化)の可能性のほかに、日本が選択しうる可能性はほかにもいくらもあること(これが「可能性の束」)。

(2)以上の例で、毎日記者は、国会の勢力状況から見て、有事法制成立はすでに「できあがったもの」として受け入れてしまっている。

(3)丸山のいう「政治の理想、目標」「どういう方向に進むことが日本にとって、そして国際社会にとって最も望ましいか(私のいう理想主義)。そのためにはどういう可能性を選択するのか。最も望ましい可能性が選択できない場合にはsecond bestは?、third bestは?、それがダメとしても逆に言えば、絶対にとってはならない可能性はどれか(私のいう現実主義)」という発想が必要。

(4)2.で扱う「既成事実への屈服」の典型。日本人の「現実主義」の最大の特徴は、丸山が鋭く指摘しているように、今ある現実をそのまま受け入れてしまって、そこから出発する姿勢にある。しかしこういう人たちが唯々諾々として従うアメリカは、彼らの考える「方向性」「理想」、あるいは「国益」の実現を目指して働きかける現実主義だ。それが、アメリカの役に立たない改定安保を「再定義」させ、アメリカの戦略的必要に合致させる努力を生み出す。すると日本的現実主義は、そういうアメリカの要求を受け入れることのみが「現実的選択」とし、アメリカの対日要求の基礎となった情勢認識の妥当性を問い直すことをすっかり忘れてしまうのだ。

〇「日本社会の近代化という課題は近代的学理を暗記する(1)ことによってではなく、歴史的な具体的な状況において近代化を実質的に押しすすめて行く力は諸階級、諸勢力、諸社会集団のなかのどこに相対的に最も多く見出されるかという事をリアルに認識し(2)、その力を少しでも弱めるような方向に反対し、強めるような方向に賛成することによってのみ果たされる(3)というのが僕の根本的な考え方なのだ。(→前出の「共産党に対する寛容」「秩序と正義との間の選択を迫られた場合の正義の選択」)」(A:p.332)

<注釈>

(1)「近代的学理云々」:人民主権・民主主義とは何か、多数決原理とは何か、等といった西欧起源の様々な学説やそこで用いられる言葉の定義をただ丸暗記することに追われていた高校までの皆さんの「詰め込み勉強」によって、皆さんは民主主義をどこまで自分のものにすることができたか。しかし実は、そうした頭の硬直しきった日本の近代史、そして上から押しつけられる「近代化」に疑問をもたず従ってきた日本近代史は、そういう恐るべき状況が皆さんだけでなく、国民全部を縛り付けているところに、本当の意味での病根がある。

(2)私が母親大会や草の根の市民集会を重視し、お誘いがあれば(また、頼まれれば)可能な限り出席し、原稿やメッセージを寄せるのは、丸山がいう「近代化を実質的に押しすすめて行く力」、真の将来に向けたエネルギーの源(丸山のいう「諸階級、諸勢力、諸社会集団」)をこれらの活動、運動、組織の中に感じるからだ。既成観念に縛られることの比較的少ないこれらの人々(その中心には女性がいる!)のエネルギーが、社会党崩壊、社民党変質堕落の中で、共産党の躍進の原動力になっている。

共産党に関していえば、すでに(1)で触れたように、本当に政権を窺えるまでになろうとする限り、「一握りの並外れた能力と日本の政治土壌ではまれなほどの清潔さを堅持する指導者+その一握りの指導者にあらゆる思考・行動の指針を仰ぐことに慣れきった(いわば金太郎飴化した)党員大衆」という、組織的には典型的に伝統的な日本型組織からの脱皮が不可欠となるはずだ。「原則性」と「柔軟性」の結合という課題をクリアしたとき、共産党が政権の座に着くことがあっても、私は少しも驚かない。

かって安保闘争の時代に、運動の最大の推進力(エネルギーの源)だった労働運動、学生運動が主役の座を降りて久しいし、権力との癒着を深める連合(労働貴族集団)に支配される労働運動が再び日本の民主化運動の中心に座ることを期待するのはかなり難しいことを率直に認める必要がある。特にアメリカ主導の国際経済「一体化」に対する根本的批判が有効に行われるようにならない限り、資本従属・迎合の労働運動の方向性を根本的に転換させることは、以前にもまして困難だろう。

学生運動についても、伝統的組織形態、運動パターンから脱皮できない限り、一般学生の興味を引くことは不可能であり、従って嘗てのエネルギーを取り戻すこともまず期待できない。痛切に望むことは、(1).強烈なアッピール力を備えた展望を示し、かつ、それを具体化する現実的説得力を持つ政策能力、(2).今日的「学生気質」に十分アッピールするだけの「柔らかな発想」とパフォーマンス能力、(3).誰もが気軽にのぞいてみようかなと思えるだけの「垣根の低さ」を備えることだ。そういう意味で、以下に述べる丸山の「非政治的行動」を重視する発想は極めて興味深い視点を提供するだろう。

(3)私によく忠告されること:「少し自分の主張をトーンダウンして、もっと幅広い階層、考え方の人々にも受け入れられるように配慮したらどうか?」、「共産党関係の出版物・集会にあまり顔を出しすぎると、あなた自身の活動の余地を狭めることになることを心配する」

しかし、今の日本の政治状況の下で、特に日本の諸政党の大政翼賛化の下で(しかもその傾向を私は前から指摘し続けてきた)、私が共産党から距離を置くことは、丸山のいう「(近代化=日本社会の真の民主化)の)力を少しでも弱めるような方向に反対し、強めるような方向に賛成する」考え方を根本的に否定することに等しい。

自民党政治に変わることを標榜した新政党、新進党の正体は何だったか? 自民党及び新進党に対抗する第3勢力を標榜した民主党(特に管直人)の正体は何だったか? すべては「今では決着が付いた」と言っていい(私の判断基準は、彼らが93年から進行していた改憲ー解釈改憲を含むーを視座に入れた対米軍事協力路線にコミットしながら、国民に対しては一貫してそれを隠し通している欺瞞性にある)。

ただし私は決して共産党一辺倒ではない。新社会党の人たちとは付き合っているし、彼らはまじめな考え方の人々だと評価もしている。しかし、今のままでは彼らには将来展望がない。私は、高知県で試みられているような「社共共闘」路線にコミットしてのみ、彼らの将来展望が生まれてくるし、国民的エネルギーの高揚にも寄与することになると考えている。

{政治的リアリズムを欠く日本に支配的な状況}

〇「まず最初に僕が強調したいことは、およそ我々の社会とか政治とかの問題を論ずる場合に、抽象的なイデオロギーや図式から天下り的に現実を考察して行くということの危険性だ(1)。…民主主義がアメリカ人にとって、いわゆる“way of life”となっている(2)のとはちがって、日本人の日常生活様式と、こういういろいろのイデオロギーとは実はまだほとんど無媒介に併存しているにとどまる(3)。…日本のインテリ‥はいざ当面の情勢を判断する段になるとしばしばこの基本的事実を忘れてしまうか、或は故意に目をふさいで、あたかもアメリカ的民主主義とソ連的共産主義の闘争というような図式で日本の政治的現実を割りきって行こうとする(4)。しかし僕にいわせれば現実の社会関係はつねに具体的な人間と人間との関係であり、その具体的な人間を動かしている行動原理は、その人間の全生活環境…における全行動様式からの経験的考察によって見出されるべきもので、必ずしも彼が意識的に遵奉しているつもりの「主義」から演繹されるわけではない(5)。」(A:pp.319ー20)

〇「僕をしていわせれば、共産主義者の「公式」を排撃する反共論者の現状観察はしばしばその敵手に輪をかけて概念的であり驚くほど自己欺瞞に陥っている(6)。彼らもまた人の耳目をすぐ動かすようなハデな政治的現象に気をとられて、そこに複雑に交錯している配線の構図を見ようとしない(7)。その結果、…根強い伝統的なアカ嫌いが果たして理性的な判断の結果かどうかというような問題はあまり意識にのぼらない(8)。」(A:pp.321-2)

〇「西欧的民主主義の根本的な原則なりカテゴリーなりが、きらびやかな表面の政治的セットの裏の配線の中においてはいかに本来の姿から歪曲されるか(9)。このことのリアルな認識なくしては僕は日本における政治的状況の真の判断は出来ない(10)と思う。(→前出の「自由討議による決定」)」(A:p.322)

<注釈>

(1)次のよく提起されるロジックに、あなた達はどう反応するだろう か?

「民主主義とは多数決原理のこと」+「日本では国会が国権の中心」

⇒「国会で決めたことには従うべきだ」

⇒「国民に不満があったら、次の総選挙で反対すればいい」

(2)アメリカ民主主義について

第一、50年代初期の丸山がかなり好意的評価していたことを責めるわけにはいかない。

第二、今日の私達はもっと実事求是の評価をすることが出来るはず。

(宿題)

あなたは、アメリカは民主主義社会だと思いますか

日本の民主主義と比べて、どこが優れていると思いますか

日本の民主主義と比べて、どこが劣っていると思いますか

(3)「日常的生活様式とイデオロギーとが無媒介に併存しているにとどまる」:あなた達自身の日常生活において、「民主主義」という言葉を使ったことがあるだろうか? また、自分自身の言動を「民主主義」に照らして省みたことがあるだろうか?

(4)日本のインテリの問題(無媒介な併存を忘れてしまうこと):実は、「民主主義」が私達の日常生活に根を下ろしていないだけではない。インテリと称される人たち(「民主主義」の何たるかを理解しているはずの人々)の多くは、二重の意味で民主主義からほど遠い。

第一、民主主義そのものを我がものにしていない点。

第二、自分たちを「大衆の上に立つ」と意識する点(選良意識)。

(5)「具体的な人間を動かしている行動原理は、全生活環境における全行動様式からの経験的考察によって見出されるべきもので、意識的に遵奉しているつもりの『主義』から演繹されるわけではない」:皆さん自身の日常の行動を決めるものは、一定の思想に基づいて「こうすべきだ、ああするべきではない」という判断によるものではないだろう。むしろ、そういう傾向のある人に対して、あなた達は「あいつは堅すぎる」とか、「人間的に面白くない」とかの評価を与えるのではないだろうか。

なぜそういうことになるのか? あなた達を含め、社会との関わりを抜きにしては存在できない私達人間の行動は、生まれてから今日に至る経験(タテ軸)と今ある自分を取り巻く環境(ヨコ軸)によって強く影響されることが多く、それを当然だと思うから。

従って、私達がそういう社会に働きかけようとするとき、「(一定の思想、あるべき理想像から判断して)そういう生き方は間違っている」というのでは反発を招くだけ。私自身がよく言うのは、「相手の目線に立ち、相手の頭の配線構造に即して考えても、『ウン、なるほど』と納得できるような持って行き方を心がけようということ(もちろん、確信犯は無視するしかない)。丸山も同じことを難しい表現で言っている。

(6)「反共論者の現状観察は、共産主義者に輪をかけて概念的で、自己欺瞞に陥っている」:丸山の時代の「反共主義者」は、今日では軍事的「国際貢献」論者であり、安保「再定義」路線推進者である。彼らがしきりに宣伝する「ならず者国家」論を例に取って、その「現状観察」について見てみよう。

第一、「ならず者」と決めつけられた国家は、実はそういうレッテルを貼られる前とその後で何ら変わったわけではない。要するに、ソ連に変わる脅威でっち上げの可哀相な犠牲者。ところが、アメリカがそういい出すと、ソ連相手の反共主義者だった「論客」たちは、何ら脈絡なしに途端に「ならず者排撃」主義者に衣替えする。これが「概念的」というゆえん。

第二、「ならず者」の実体は、アメリカ(及び日本)という猛々しい巨象に挑戦しようにもまったくその実力もないハリネズミ。ところが、これらの論客たちは、いつの間にか自分の言葉に酔って、確信犯に変わってしまう。まさに「自己欺瞞」。

(7)「ハデな政治的現象に気を取られて、複雑に交錯する配線の構図を見ようとしない」:北朝鮮の「核疑惑」事件を利用した安保「再定義」、ペルーの人質事件を利用した「特殊部隊」構想等は、そういう仕掛けをした保守政治・官僚は明確に国民を操っているわけ。しかし「論客」たちは、そのことを知りつつも、次第に自らの思考の中においても事態を単純化していく。

(8)「アカ嫌いが理性的な判断の結果かどうかを見ようとしない」:「アカ」意識(そして今日的形態としての「ならず者」論)は、執拗に行われる権力による宣伝の「成果」以外の何者でもない。反共論者(「ならず者」論者)は、とにかく結果だけを見ようとするので、宣伝に自ら乗っているにすぎない哀れなピエロだということに気がつかない(例:藤岡信勝)。

(9)「西欧的民主主義の原理・カテゴリーが表面の政治的セットの裏の配線の中ではいかに本来の姿からは歪曲されるか」:(上記(1)に対する学生の回答を参考にして考える)

(10)「(以上についての)リアルな認識なくしては、日本の政治的状況の判断は出来ない」:(再び上記(1)に対する学生の回答を参考にして考える)

{大衆の非政治的行動の政治性}

〇「(以上のような)多かれ少なかれ自己欺瞞をもった政治的「自覚」分子のほかに、非政治的な私的環境(例えば家庭)なり職場その他の生活領域のなかに閉じこもって、主要な関心が自分と家庭の生活のための配慮とか、…来週の映画、スポーツの行事とか…に向けられていて、政治的状況に対しては、…重大な政治的事件に対して一見積極的な関心や興味を持つ場合でも、結局それを競馬やスリラーに対すると同じ次元で受けとめているような圧倒的多数の、政治的意味での「非自覚」的な人々がいるわけだ。(この人たちは)なるほど「意識が低い」かもしれないが、それだけ前の「自覚」分子‥に比して主観的イデオロギーというほどのものかどうかは別としてーと客観的な行動様式とのギャップは少ない。しかもまさにこの「非政治的」大衆が現実的政治的状況の形成にネグリジブルな要素ではなくして、むしろ直接には非政治的な領域で営まれる彼らの無数の日常的な行動が複雑な屈折を経て表面の政治的舞台に反映し、逆にそうした政治的舞台で示された一つ一つの決定がこれまた複雑な屈折を経ながら、日常生活領域へと下降して行く。この二つの方向の無数の交錯から現実の政治的ダイナミックスが生まれてくるのだ(1)。まさにここに現実分析の異常な困難さがある。政治の方向を目につきやすいハデな「政治」現象ー国会の討論とか街頭のアジ演説やデモとか学生運動とか署名運動とかーだけから判断したり‥すると、現実からとんでもないしっぺ返しを食うことになる。概念的なイデオロギー図式の危険性はまさにここにある(2)。」(A:pp.320-1)

「極端にいえば、われわれのあらゆる行動というものが政治行動ということになります。一見まったく非政治的な行動も、つまり本人が政治をやろうと思っているわけでもなく、また権力状況に影響を与えようという意図など少しもなくやったような私的な行動も、現代の微妙なコミュニケーションの配線構造を伝って、結果的に政治的に影響を及ぼす。そのかぎりでは政治行動です(3)。つまり、政治から逃避する人間が多ければ多いほど、それは政治にカウントされない要素ではなくて、その国の政治にとって巨大な影響を及ぼしてくる。つまり、専制政治を容易にする。一般人民が政治から隔たれば隔たるほど専制主義的な権力というものは、容易になるということです(4)。」(B:p.316)

<注釈>

(1)「(日常的な非政治的行動の上向きの方向と表面の政治舞台からの方向という)二つの方向の無数の交錯から現実の政治的ダイナミックスが生まれる」:政治は上からの一方的方向性ということはあり得ない。下からの方向性がどういう内容を持っているかということは、表面の政治舞台での動きに重大な影響を及ぼすこと。

(2)「現実からのしっぺ返し」:目立つ行動だけが政治の流れ・方向性を決めるわけではないということ。最近の例では、「三点セット」に対する参議院選挙の結果。HIV/AIDsをめぐる若者たちの非政治的行動。

「概念的なイデオロギー図式の危険性」:社民党の哀れなまでの末路は、彼らの「概念的なイデオロギー図式」的な情勢認識に起因するところが大きい。次のロジックのどこにごまかしがあるか分かりますか?

ソ連の崩壊(アメリカの勝利)

⇒社会主義の否定(資本主義の勝利)

⇒中立主義の基盤の崩壊

⇒対米協力路線(安保肯定⇒安保「再定義」への踏み込み)

(3)「私的な行動も、現代のコミュニケーションの配線構造を伝って政治に影響を及ぼす限りでは政治行動だ」:再びHIV/AIDsのケース。諫早湾で起こりつつある環境保護の主張。

(4)「政治から逃避する人間が多ければ多いほど、その国の政治に巨大な影響を及ぼし、専制政治を容易にする」:今日の日本の政治状況が示すもの。

{私たちが政治的リアリズムを身につけることはなぜ必要なのか?}

〇「ヨーロッパやアメリカはいざ知らず日本の歴史は階級闘争の歴史よりもむしろはるかに多く、被抑圧者がブツブツいいながらも結局諦めて泣き寝入りして来た歴史である。…本当の下からの革命はいまだ嘗て経験したことがない。…日本の諸社会関係の民主化をひきとめ伝統的な配線構造を固定化している力がどんなに強靱なものか(1)…」(A:pp.327-9)

「デモクラシーの円滑な運転のためには、大衆の政治的な訓練の高さというものが前提になっている。…しかしながら反面、デモクラシー自身が大衆を訓練していく、ということであります。‥デモクラシー自身が人民の自己訓練の学校だ(2)ということです。…大衆の自己訓練能力‥を認めるか認めないか、これが究極において民主化の価値を認めるか認めないかの分かれ目です。つまり現実の大衆を美化するのではなくて、大衆の権利行使、その中でのゆきすぎ、錯誤、混乱、を十分認める。しかしまさにそういう錯誤を通じて大衆が学び成長するプロセスを信じる。‥これがつまり、他の政治形態にはないデモクラシーがもつ大きな特色であります。…民主主義自身が運動でありプロセスであるということ(3)…。」(B:pp.340-1)

<注釈>

(1)「日本の諸社会関係の民主化をひきとめ、伝統的な配線構造を固定化している力がどんなに強靱なものか」:2.で考える問題群

(2)「デモクラシー自身が人民の自己訓練の学校だ」:「デモクラシー=思想+制度+運動」。

(3)「民主主義自身が運動でありプロセスである」:上述参照

{どうしたら政治的リアリズムを我がものにすることが出来るか?}

〇「人間というものは一人一人全部違うものだという前提から出発すれば、本来違ったものをどこで、どの点で一致させて共同の行動を起こさせるかということで政治的技術が必要となる。…本来一致するものだという前提から出発すると、はじめから気のあったもの同志集まってしまい、異質の人に働きかける力を伴わない。つまり、仲良しクラブになってしまう。そこから派閥も生まれる。…政治行動というのは本来、例えば神を信ずるものも信じないものも、安保に反対なら一致して反対するというように、具体的な問題で一致する限りその人と一緒に行動するということなのです(1)。…何でもかんでもこの人とやっていこうとするのは完全に派閥です。つまり簡単にいえば、部落共同体ということです(2)。」(C:pp.18-9)

〇「政治に積極的に参加する考え方の訓練としては、身近な問題について考え、それを抽象化してゆく。つまり自分の生活経験を抽象化する訓練があります。…無数の現象の中から、何がある動向を決定する上に大きな作用を及ぼす要因かを自分で判断して行かなければならない。無数のものの中から重要な要因だけをピック・アップする。そこに抽象能力が生まれてくるのです(3)。」(C:pp.21-2)

「次に周囲に働きかけて、仲間づくりをやってゆくこと、自分の住む町とか学校で一つの運動を進める経験を積むことです。…つまり‥市民の立場に立った連帯の思考が、今一番必要なのです(4)。」(C:p.21)

「もう一つは、特に自分が行動する場合に、舞台の上で行動していながら、同時に自分の分身が観客席にいて、自分の行動を冷静に見つめているというような必要があるのです。…これが距離をおいた目、というものです(5)。」(C:p.22)

「このように政治的なものの考え方とか、判断力を養い、かつそれを正しく行使する。…基本的には大きな政治にしても自分の生活している周辺の小さな問題にしても同じなのです。…そういった政治的な訓練を皆がつけ、気軽にしかも冷静にする習慣を積めばよいのです(6)。」(p.22)

「一般の人の政治行動というものは他に自分自身の職業や仕事を持ち、自分の定まった生活の場をもちながら、その合間合間に政治に参加すること、それが一般市民の政治行動なのです。市民の立場において、種々の問題について気軽に集まり話し合い、その目的実現のために四方へ働きかける。目的が実現されれば、すぐにその会は解散される。そしてまた何か問題が起これば再び集まるという具合でいいのです(7)。実はこれが非常に大切なのだ。政治的状況を動かしていく力、それはこのような一般市民の力の結集として現れるのです。まず自分たちの力に対する信頼、これを失わずに、その力を結集していくことですね(87。」(C:pp.24-5)

<注釈>

(1)「具体的な問題で一致する限りで一緒に行動することが政治行動」:このことは、職業政治家ではない私たちについて当てはまる重要なポイント。また、近代的自我を持つことを自覚し、そんな自分を大切にする意識を持つ人間にとっても大切なポイント。

(2)「何でもかんでもこの人と一緒というのは派閥、部落共同体」:近代的自我を自覚しない人は、「その他大勢」意識しかない。そういう人は大勢順応の行動しかできず、必然的に群れることになる。これは昔ながらの「共同体」意識。

ただし、少数者を排除する意識は必ずしも前近代精神に限らない。その典型がクリントン政権の追求する「市場民主国家共同体」なるものとそこから排除する「ごろつき国家」論

(3)「政治に積極的に参加する訓練ーその1-:身近な問題(自分の生活経験)を抽象化する訓練」:これはいくら説明しても分からない問題。やはり「百聞は一見(体験)にしかず」。まず参加してみて、その中から得られる体験を単なる体験にとどめず、今後の参考にできるようにすること。皆さんも、クラブ(サークル)活動の中で、あるいはゼミ参加の中で、他者の行動・発表から自分の参考になることを学ぶことはないだろうか。あるいは、自分自身の行動・発表がある反応・反響を招いたとき、その中身を消化し、(悪い場合は)2度と繰り返さないようにする、(いい場合は)これからも踏まえておくべき要素として記憶・記録にとどめるようにしないだろうか。「身近な問題を抽象化する」という一見難しい表現は、実はこのような日常的に私たちがやっていることなのです。

(4)「政治に積極的に参加する訓練ーその2- :自分の周囲に働きかけ、一つの運動を進める経験を積むこと」:とにかく「変だな」「何かおかしい」と思ったら、周りの友達に話しかけてみよう。1人でも、2人でも「そうだね」という人がいたら、「じゃあ、どうしたらいいのかな?」と話しあってみたら? あるいはもう少し目を広げれば、学校の外には必ずそういう問題について取り組んでいる人たちがいる。その人たちに気軽に聞いてみよう。

(5)「舞台で演じつつ、同時に観客席でその自分を見つめる距離を置いた目を持つこと」:これまた大切なこと。私はすぐ熱くなるが、(皆さんは信じないかもしれないが)そんな自分を相対化する目を持っている。「年のせい」ということではないと思う。皆さんも常に自分自身で意識して訓練することによって、そういう目を養うことができる。

(6)「気軽にしかも冷静にする習慣を積めばよい」:悲壮になったり、身構えたりするする必要はないのです。

(7)「問題ごとに集まり、実現したらその会は解散する」:(1)参照

(8)「自分たちの力に対する信頼」:これも自分自身でまず動いてみなければ、確信が持てないでしょう。でも、川田龍平君の顔は輝いていると思いませんか?