第2話
三人目の仲間・市ノ瀬千恵が見つかったことにより、奈津美は嬉々とした生活を送っていた。
例を上げると彼女の日課である朝と晩の祈りも気合が入っていて、ただ両手を合わせているだけなのに気迫を感じる。おまけに妙な呪文まで唱え出した。この調子だと、そのうちメッカの方に向かって礼拝をするようになるかもしれない。いや、ムー大陸のあった方角か。
正直な話、奈津美の話をまるっきり信じていない僕は、三人目の仲間が見つかるなんて思いもしなかった。
でも結果として三人目が現れた。
だからといって彼女の話が信憑性を増したわけではない。
奈津美の話では、五大陸機関の下部組織が運営する養護施設に千恵は捕らえられていて、それを彼女が単身で乗り込んで救出してきたのだそうだ。ちなみに千恵の存在と居場所を知ったのは、祈りの際に得たビジョンから。
しかしそれは嘘だろう。困ったことに物語の捏造は彼女の得意技だ。
家出少女とも思えないので、考えたくはないけど、誘拐と考えたが、テレビのニュースや新聞を見るかぎりでは、千恵と思われる誘拐事件は起きていないので安心している。今のところは。
千恵がどこの施設に居て、どうして奈津美と知り合ったのか気になるが、奈津美はいかがわしい話をするだけだし、自閉症の千恵は答えようともしない。
いらつくが女性に手を上げないのが僕のポリシーだ。結局、二人から聞き出すのは諦めた。千恵の見た目は小学生ぐらいだが、かといって小学校に通っているとも思えない。一日中、マンションの奈津美の部屋にいるのだ。
自閉症の不登校児。
それが千恵だ。
依然として千恵の正体は不明だが、三人で生活していくうちにどうでも良くなってきていた。そんな気分になってしまったのは、僕の精神の歯車が軋みだしていたからに違いない。
「千恵の正体が何であれ、なるようになるし、なるようにしかしかならないだろう」
この時はそんな自暴自棄、もしくは楽天的(または何も考えていない)な気分になっていた。今ではそう考えている。楽天的なのは今も変わらないけど。
だから奈津美がサイコさんであることを心の底から後悔する事件が迫っていたなんて、知る由もなかった。
5月の連休も終わって、世間も一息ついた感じのする日のことだ。
一日中、千恵は部屋の片隅で辞書とにらめっこしている。一つのページを穴が開くほど見つめて、飽きると次のページをめくる。何が楽しくてそんなことをしているのか知りたいが、千恵は僕の言葉には反応しない。
一度、僕と奈津美のセックスの現場を見られたことがあるが、その時も平然としていたくらいだ。(正確には、いつも通りなんの表情も見せなかった)もしかしたらセックスという行為を知らなかっただけかもしれないが、だとしても表情一つ変えないってのはおかしい。
その日、奈津美が仕事に出かけるのを見送ると僕は手持ちぶさたになった。そういう時はパチスロ屋に行って時間を潰すのがお決まりのパターンだが、今日は朝から雨が降ってる。雨は嫌いだ。それだけで出掛けたり、何かする意欲がなくなる。
結局僕は奈津美の本棚から適当な本を取った。タイトルは「山内ぐり子超常現象傑作選〜ハチスン効果でダイエット〜」奈津美の本棚には、今風に言うならトンデモ本が多い。奈津美のことばを借りるなら、こういう本には真実が書いてあるのだそうだ。もちろん僕は信じてないけど。
結局昼過ぎまで僕は本を寝転がったままで読みっぱなしだった。流石に腹が減ってきたので、何か食い物はないかと冷蔵庫を漁ろうと思って体を起こすと、視線の先に千恵の姿があった。
部屋の隅では、僕と同じように千恵も読書に励んでいた。僕は暇があると千恵を観察していたが、それで得られた情報は少ない。
食う。
寝る。
排泄する。
本を読む。
全て、何の、表情もなく。
僕の方が根負けしてくる。千恵とにらめっこをして勝てる人間はいないだろう、きっと。そして千恵がにらめっこの相手に選ぶのは文章量が多い本だ。本棚にあった分厚い辞書の類は読破して、最近はさらに分厚いタウンページがにらめっこの相手になっていたが、それすらも残りのページは少ない。
そんな千恵の姿を見ていると気が遠くなってくる。
「なあ千恵。それを読みきったら次は何を読むんだ?」
呼んでも反応がないので、最近は自分から千恵に話しかけることが全くなかったのだが、その日は何気なく聞いてみた。
「まだ、きめてない」
機嫌でも良かったのか。珍しく千恵が僕の声に応じた。
しかしその顔には表情というものが無い。千恵は感情の起伏を全く示さないので、機嫌が良かった、というのは僕の推測だ。そんなふうに考えたくなるほど、僕と千恵の間に会話が成立するのは珍しいことだ。
これはまたとないチャンスだと思い、僕は色々と知りたかったことを聞くことにした。
「おまえさ、ここに来る前はどこにいたんだ?」
「おうち」
「どんな、おうちだった?」
「しろくて、おおきくて、きれいなおうち」
「おうちはどこにあるんだ?」
「わかんない」
「おうちの周りには何があった?」
「たくさんのき」
「お父さんとお母さんは?」
「わかんない」
「おうちには、千恵以外にどんな人がいた?」
「いわいせんせい、けーいちくん、えりちゃん、さだひこくん、まさただくん、ゆーきくん、さとしくん、ゆりこちゃん、あとは、えーと、えーと、えーと、………しらないひとも、たくさん、いた」
大きくて綺麗な白い家。たくさんの木ってのは森のことか。両親は分からないが、先生と友達がいる。やはりどこかの児童養護施設にでもいたのか。もしくはサナトリウム。
「なんでこんなもの読んでるんだい?」
僕はタウンページを指差した。
「ほんをみて、おはなししたら、いわいせんせい、びっくりして、それでたくさんほんをよみなさいって、いった」
本を読んで話をしたら先生が驚いて、たくさん本を読めだ?
どういうことなのか、さっぱり分からない。
「いわいせんせい、よんでおぼえなさいって、いった」
覚えろ?
千恵は知能障害だと奈津美は言った。物語をでっち上げるのは奈津美の十八番だが、実際に千恵と接していれば少女が知恵遅れであるという印象は否定できない。
見た目が小学生。だいたい十歳ぐらいか。だったら普通はそれぐらいの知能があるはずだが、千恵は小学校の低学年で習う、いわゆる「九九の掛け算」もできないと奈津美は言っていた。
「千恵、3×3はいくつだ?」
「わかんない」
この通りだ。
これでは千恵が辞書やタウンページを読んでその内容を覚えたとは信じられないが、試しに聞いてみた。
「じゃあ千恵。大平俊彦って人の電話番号は?」
適当にタウンページを開き、整然と並ぶ名前の中から無造作に一つを選んだ。もちろんそのページは千恵には見せない。
しかし千恵はきょとんとした眼差しを僕に向けるだけだ。
「大平俊彦だよ。お・お・ひ・ら・と・し・ひ・こ」
千恵の視線に変化は無い。僕は何か考え違いをしているのかと思った。やっぱり千恵に辞書やタウンページの内容を覚えることなんて無理なのか。
「あぁ、そうか」
僕は、やっぱり考え違いをしていたことに気づく。千恵が漢字を読めないのなら、僕が漢字を読んでも分からないだろう。「大平俊彦」は「おおひらとしひこ」と読んで発音することを理解していなければ、言うだけ無駄だ。
だったら。
「千恵、この人の電話番号は?」
僕は「大平俊彦」と書いた紙を千恵に見せた。
「×△×―○×◎×―△△×」
千恵の声を聞きつつ、僕は電話番号を指でなぞる。×△×―○×◎×―△△×。あっていた。一字一句違いなく確かにあっていた。漢字は読めなくても記号として記憶できるのか、千恵は。僕は驚き、いや偶然だと言い聞かせて次の名前を選んだ。
「古井拓実は?」
「□×○―◎◎××―□×□×」
これもあっていた。
「加納早紀は?」
どうなってんだ?
「△○△◎―×△―△□□■」
なんで、当てられるんだ?
向こうからは見えないし、僕の後ろに鏡があるわけでもない。
話を聞く側としては、もどかしくて分かりづらいだろうが、とにかく僕の衝撃と動揺は半端なものではない。今まで白痴だと思ってた千恵が、恐るべき記憶力の片鱗を見せつけているのだ。
「8×9はいくつだ?」
「わかんない」
この調子だ。
一桁の掛け算もできないのに、こいつの脳の配線はどうなってるんだ?
その後も千恵は次々と住所と電話番号を的中させた。個人名でもだ。20件目を越えたあたりで、逆に僕の方が疲れてきた。疲れは感じたが、何故かやめようとは思わなかった。そうして、僕はようやくサヴァン症という病気、いや能力があるのを思い出した。
いつだったか、テレビのバラエティー番組でサヴァン症の子供たちが出演していたのを見たことがある。ある子は動物園で一度見ただけで精巧かつ躍動感ある馬の彫像を作り、別の子は西暦0年から四千年までのカレンダーが頭の中にあり、また別の子は数十桁の計算をほんの数秒でやってのけた。
因数分解すら忘れてしまった僕とは大違いだ。
その番組に出ていた子供たちは、ほとんどが知能指数が五十にも満たない重度の知能障害や自閉症だった。にも関わらず、こうして計算、記憶、芸術の分野に突出した能力を示すのは、病気というよりはむしろ才能なのだろう。
何故その子たちがこうした能力を持っているのかは、彼らの脳の神経が…という話を学者風のコメンテーターがしていたが、理数系が苦手な僕にはさっぱり分からない話だったため、覚えていない。
ともあれ、千恵もまたサヴァン症なのだ。
本当にいるもんだな、こういう人間。この時の僕は率直に感心した。
「すごいんだな、おまえ」
僕がそう言うと、千恵は少し笑ったような顔をした。たぶん気のせいだろうけど。
千恵との「遊び」に夢中になっていて喉が乾いてきた僕は、何か飲み物をと思って立ち上がり、振り向いて初めて部屋の入り口に奈津美が立っていたことに気がついた。
「な、なんだ、帰ってたのかよ」
「うん」
驚きを隠しきれずに僕は言った。
誰だって突然後ろに人がいたら驚くだろう。そして改めて千恵との「遊び」に熱中しすぎたと思った。外は暗くなってきていたし、それにもう奈津美も仕事が終わって帰ってくる時間だった。
「すぐご飯にするね」
そう言って奈津美は台所に立った。
夕飯はカレーだった。
四回の表にしてすでに8対0という一方的な展開のプロ野球を見ながら、やけに甘口のカレーを口に運ぶ。ふと千恵を見る。千恵は口の周りを盛大に汚しながらカレーを食べている。それを横から奈津美がティッシュで綺麗に拭き取る。僕の視線に気がついて、奈津美が微笑んだ。僕はらっきょうをつまんで、自分の口に放り込む。
千恵がタウンページの次に興味を示したのが、円周率が百万桁まで記されているポスターだった。それは本屋でたまたま目にとまった科学雑誌の付録で、どこまで千恵が記憶できるのか試してみようと思って買ったものだ。
でなければ小難しい科学雑誌なんて僕は買わない。
興味本位だったが、もしも百万桁全てを覚えたらテレビ局に売りこむか、という下心があったことは否定しない。
タウンページも読破して、他に読みたいものが無くて飢えていたのだろうか。円周率のポスターを渡すと食らいつくように読み出した。そんな気がした。千恵は怖いくらい表情が無いから、本当のところ千恵の顔を見ても何も分からないから全部想像だ。
一週間ぐらいしてから、僕は千恵に聞いてみた。
「千恵、どのくらいまで覚えた?」
千恵の指がポスターの上に置かれる。
その場所は小数点以下、十万とんで三六桁。
「本当か?」
千恵は頷くと口を開いた。
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