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K's Room Odds & Ends

ストーリーズStories

ぜんぶ夏

活動報告写真

あの夏、子供たちの聖地平井山でのカブトムシ争奪戦の記録

 後編


  森が途切れ、突然真新しいアスファルトの道路が弘志達の前に現れた。

 「別荘へ行く道だよ、前はなかったのに」コジマケが呟くように言った。

 アスファルトの道は弘志達の前を横切り、50メートル程緩やかな坂を上った後、右に大きく曲がって先が見えなくなっていた。

 アスファルトの道を横切り、コジマケは再び林の中へと入って行った。アスファルトの上を歩く時、弘志は足の下が熱くなるのを感じた。

「ここはおれんちの菜園だったんだよ、今はもうやってないけど」

 鬱蒼と茂った林の中には、1メートルくらい長さの細い木で組んだ椎茸栽培の根太が、生い茂った雑草に埋もれるように整然と並べられてた。去年来た場所だと弘志は思った。その時は確かにこのアスフアルトの道はなく、薄暗い林の中にコジマケの家の椎茸菜園が突如として現れたのを覚えていた。

 去年来た時に確かに使われていた丸太小屋の扉は硬く閉ざされ、更に頑丈に小屋を覆うようにツタが一面に這い回っていた。

 「どうして今はやってないの?」よっちゃんが聞いた。

 「椎茸が出来なくなったって、お母さんが言ってた。この道路と、別荘のせいだ」コジマケは硬く口を結んだ。

 それを聞いてよっちゃんは何を思ったか、うーと大きな唸り声を上げた。

 

 平井山の奥へと三人は歩を進めた。やがて、サラサラと音を立てて流れる沢が現れ、三人はその沢づたいの道を歩いていた。沢の流れと一緒に涼しい風が頬をかすめた。弘志は深い森、そしてこんな沢の流れが大好きだった。本当は、沢の中の石の下に身を潜めているはずの沢蟹を捕ったり、ヤモリを追いかけたりしたかったのだが、コジマケに先を急ぐよと言われていたので、ぐっと我慢していた。

 コジマケは度々立ち止まってはめぼしい木に「あちゃー、あちゃー」と蹴りを入れ続けた。弘志やよっちゃんもそれを真似てみたが、落ちてくるのは、朝露の水滴や、枝ばかりで、一向に目当てのカブト虫や、クワガタ虫は落ちてこなかった。

 コジマケは山に入ってだいぶ時間も経つというのに全く収穫のない状態に苛立ち、おかしいなあ、おかしいなあと繰り返していた。三人は体が疲れてきたことと、一向に目当ての虫が捕れないことで元気がなくなってきていた。

 沢づたいの道の真ん中に、弘志達の行く手を遮るように一本の大きな木が生え、その木は弘志達の目の高さくらいのところで奇妙な形で二股に割れ上へと伸びていた。コジマケはその木の根元に屈み込むと「弘志君、ここを見て」と、言った。

 弘志はコジマケの隣にしゃがみ込み、コジマケが指差す場所を覗き込んだ。そこには隆起した木の根が土から盛り上がり、小さなアーチを作っていた。

 「ここに、掘った跡がある」青っ洟をすすり上げてコジマケが言った。

 弘志が良く見てみると、確かに新しい土が掻き出されているような跡があった。

 「カクタニだよ、カクタニに遅れを取ったんだ」

 「先にここに来たのかなあ」

 「間違いないよ、この穴の堀り方は絶対カクタニだ」

 いったい穴の掘り方がどうしてカクタニなのか弘志には分からなかったが、自分たちの前を確実に歩いているカクタニの姿を連想して、なんとなく悔しさが沸き上がってきた。

 その時だった。遅れて歩いて来ていたよっちゃんが、弘志達の背後で小さな悲鳴を上げた。その次の瞬間、振り向いた弘志達の前で、よっちゃんの体が大きくバランスを崩し、まるで落とし穴に吸い込まれるように突然地中に消えてしまった。

 弘志は、何がなんだか分からず、「あっ」と叫びながら、よっちゃんの体が消えた場所に走り寄った。

 よっちゃんの姿が消えた場所には、自分達が通った時には気が付かなかったが、背丈の高い草に隠れるように、一段低い沢に向かってまるで滑り台のような泥の斜面があった。よっちゃんはこの斜面に足を取られて、沢へ滑り落ちてしまっていた。

 よっちゃんは斜面の途中の赤土の中から飛び出していた木の根にしがみ付き、両足は浅い沢の中へと落ち、沢の底からは濁った水がゆったりと淀みの中へ流れ出ていた。

 「大丈夫かい?」弘志は大きな声でよっちゃんに言った。

 よっちゃんは泥だらけの顔で弘志を見上げ、大丈夫だよと言った。

 よっちゃんは自力で斜面によじ登り、コジマケと弘志は上から手を伸ばして、よっちゃんを引っ張り上げた。その時、助け上げられたよっちゃんは、なぜか不思議なことに小さなクワガタ虫を握っていた。

「そ、それどうしたの?」驚いて弘志が聞くと、「今滑って落ちた時、そこの木の根に何かいるのが見えて、掴んだんだよ」

 よっちゃんはにこにこしながら、手のひらを広げ、クワガタ虫を弘志達に見せた。

 よっちゃんの手の中でその小さなクワガタ虫は、以前からそこが棲み家でもあったかのように、二本の触角だけを小刻みに震わせながらじっと動かずにいた。

 「コクワガタだね」コジマケが横から顔を覗かせてそう言った。「クワガタはやっぱり、ノコギリかミヤマだからな」

 コジマケはなんだかおもしろくない様子だった。

 弘志は、あれだけ動作が遅いと思っていたよっちゃんが、滑り落ちながらクワガタ虫を捕まえるなんて、なんだか凄い手品のようだと1人驚いていた。

 

 「おーい、何匹だー?」

 突然沢の向こう側から大きな声がした。

 びっくりした弘志達が声の方向を向くと、沢の反対側の林の中でカクタニと千田が一緒にこっちを見ていた。

 「何匹だよう?」カクタニがもう一度言った。

 ツンと上に撥ね上げた前髪の下で、意地悪そうな目が笑っていた。カクタニと一緒にいる千田というのは、やはり天神町に住む弘志と同じ年の生徒で、いつもカクタニと一緒に遊んでいた。弘志はこの千田のことも大嫌いだった。ロープ遊びや、メンコなどで教室で遊んでいる時、自分が負けそうになると相手をすぐに抓ったりした。以前には弘志が抓られたその余りの痛さに怒り、掴み合いの喧嘩になったこともあった。

 「そっちは、何匹だ?」コジマケが負けずに大きな声を出した。

 「そんなのは、教えられないな」カクタニの声は、沢の流れる音を飛び越えあたりに妙に響いた。

 自分で先に聞いておきながら、何を言ってるんだろうと、弘志は少し腹が立った。

 「どうせ、一匹も捕れてないよ」カクタニの横で、千田が言った。

 「15匹だよ!」コジマケが一際大きな声で叫んだ。弘志は、“ああ、嘘言っちゃった”と、思った。

 「へえー」カクタニと千田が川の向こうで顔を見合わせた。

 「じゃあ、見せてみろよ」千田の声がした。

 コジマケはとっさに答えられずに、上目遣いに弘志の顔を見た。

 弘志は、何で俺を見るんだようと思ったが、「そっちが先に見せてみろよ」とカクタニに向かって叫んだ。

 「そうだあ、見せてみろ!」と、コジマケも急に強気になって言った。

 「どうせ取れてないんだよ」千田がわざと弘志達に聞こえるように言った。

 「こんなとこでボヤボヤしてられないからな」カクタニは千田にそう言い、まるで弘志達が眼中にないといった様子で前を向き歩き出してしまった。

 

 「ちくしょう」コジマケが唇を噛んで言った。「こうなったら、秘密の木だよ、弘志君、秘密の木だ!」コジマケはそう言って、おもむろに走り出した。

 弘志がびっくりしてコジマケの後ろ姿を見送っていると、半ズボンの股が更に一際大きく裂け、そこから覗いていた白かったパンツは、もう既に汚れてズボンの色とあまり見分けられなくなっていた。

 「秘密の木い!」よっちゃんも興奮した様子で、コジマケの後を追って走り出した。

 その時、沢の向こうで何やら慌ただしい音がした。

 弘志がその方を向くと、林の中でなぜかカクタニと千田も慌てて走り出したのが分かった。

 

 沢を挟んで、五人は夢中で山の斜面を走った。

 「カクタニも、きっと秘密の木に行くんだ!」コジマケが弘志に振り返りながら言った。

 「カクタニもその木を知ってるの?」弘志が息を切らせながら聞いた。

 「間違いないよ、天神町では有名な木だからね」

 こんな大きな山の中で、たった一本の木めがけて、みんなで走っているのが、弘志には何だか不思議だったが、そんなにみんなが知ってるような木なんだったら、“秘密の木”でもなんでもないんではないかと弘志は思った。

 そんな事はともかく、弘志もこうなったらカクタニや千田に先を越されるのは絶対嫌だと思い、夢中で山の斜面を上った。

 

 コジマケが「あっ!」と、大きな声を出して立ち止まった。

 コジマケに追いつき、ぶつかりそうになって立ち止まった弘志の前に突然視界が開けた。

 弘志は息を整えながら、一瞬広い平原にでも出たのかなと考えた。

 弘志前に現れたのはアスファルトの道だった。

 沢に入る前に横切って来た道が、大きく蛇行して再び弘志達の前に現れたのだった。

 ギラギラと太陽が路面を照りつけ、反射する光の眩しさに、弘志達は目を細めた。つんとするアスファルトの臭いが鼻を突き、あちらこちらから溢れ出す油蝉の鳴き声がまるで洪水のようだと弘志は思った。

 「こんな道、なかったのに」コジマケが唖然として言った。

 

 道路の反対側に、一台の真っ赤なピックアップトラックが停まっていた。

 その車の横には、弘志達よりずっと大きい二人の若い男達がいて、道路に大きく迫り出した木の下で何やら盛んに棒を振りまわしていた。

 「秘密の木が・・・」

 男たちのピックアップトラックの荷台には、ビニールシートが張られていた。男たちはトラックを葉を満々と貯えた大きな木の真下に止めていて、長い棒で木の枝を探ったり、幹を蹴って揺らしたりしていた。男たちの力で葉が大きく震える度に、トラックの荷台に張ったシートの上には何かボタボタと落ちる音がした。

 弘志はその中に何匹もの、カブト虫や、クワガタ虫がいるのを見た。

 少し離れた所では、カクタニと千田が、やはり呆然とした表情で、そんな様子を見つめていた。

 遅れてきたよっちゃんが追いついて来た。ぜいぜいと息を切らせ、両手を膝に突き、正面を見る余裕もなく「どうしたの?」と弘志の隣で言った。

 「秘密の木が」コジマケが言った。

 「秘密の木が、あいつらに取られた」コジマケは、自分達よりも遥かに大きな大人達を指差した。

 男達はひとしきり木を震わせ、シートの上に落ちた“収穫”を大きな箱の中にしまうと、シートを畳みだした。そして、声高に何か言い合いながら車に乗り込み、エンジンを掛け、瞬く間にアスファルトの道を走り出して行った。

 その時、よっちゃんが突然その車の後を追って走り出した。そして、道端に落ちていた小石を拾うと、バカヤローと叫んで、走り去っていく車に向かってつんのめりながら石を投げた。

 その声はぞっとするほどの怒りを含んでいて、弘志は一瞬身震いした。

 しかし、次の瞬間、コジマケと弘志もそれに続いた。三人はなだれ込むように車の後を追い、石を拾っては投げた。バカヤロー、バカヤローと叫ぶ子供達の声が辺りに響いた。カクタニと、千田も弘志達の後を追って走ってきた。

 「コジマケのきのこを返せ、バカ」よっちゃんが叫んだ。

 「返せー」弘志も一緒になって叫んだ。

 五人の子供達は口々に大きな声を上げながら車の後を追った。いつのまにかみんな叫びながら泣いていた。

 と、突然車が止まった。止まったピックアップトラックの赤いボディーに、誰かの投げた石が当たり、ドンという鈍い音を立てた。

 次の瞬間、左右の扉が開き、ののしり声を上げながら、二人の男たちが車から下りてきた。

 「うわあ!」5人は口々に驚きの声を上げ、きびすを返して道を引き返し始めた。

 5人は車を追いかけていた時よりも、更に全力でアスファルトの道を走った。

 「まて、こら!」

 大きな男たちが、後を追ってくる。

 「こっちだあ」一番先頭を走っていたコジマケが、林の中を指差した。

 全員が一目散にコジマケが潜り込んだ林の中へと駆け込んだ。

 鬱蒼と茂った林の中は、全く日の光が届かず弘志は一瞬視界がぼやけた。普段ならば蛇が出るといって入らないような、道もない薮の斜面を弘志は必死に走った。スピードに乗ってつる草を飛び越え、足に絡みつく青草を掻き分け、立ち並ぶ幹をかわした。目の前の空間だけを見つめて、無我夢中だった。

 やがて弘志は薄暗い林の中に立ち止まった。後からあの男たちが追ってくる様子はなかった。呼吸の度に肺が締め付けられるようで、弘志は脇腹を押さえて木の根元にぐったりと体を横たえた。湿った土が広がる鬱蒼とした森の中、見た事もないような草が辺り一面にたくさん生えていた。

 ふと回りを見渡してみた。

 人の気配がなかった。

 弘志は急に不安になり「コジマケー」と叫んでみた。振り絞って出した声は辺りに吸い込まれてしまい、少しも響いていないようだった。心臓の鼓動がやけに大きくなってきた。

 「よっちゃーん」

 ありったけの力で叫んだ声は、瞬く間に消え入ってしまい、返事は返ってこなかった。

 

 

 弘志は両手に付いた泥を払いながら、重い体でゆっくりと立ち上がった。

 そして、取り合えず今来た方角と、反対の方向へ歩き出した。歩き出すとまた涙が出そうになって来た。ひょっとしてよっちゃんは逃げ足が遅いから、あの男たちに捕まってしまったんじゃないだろうか。自分はこのまま迷子になってしまい、家に帰れないんじゃないだろうか。考え付く限りの不安が止めど無く沸き上がってきて、先の見えない鬱蒼とした森の中で弘志は自分が突然一人ぼっちになったのだと否応なく思い知らされた。

 その時だった。

 「おーい」遠くから声が聞こえた

 コジマケの声だ。

 「おーい」弘志も大きな声で叫び、声のする方へ全力で走り出した。

 

 まるで隕石が森の中にでも落ちた跡のように、大きな窪みが弘志の目の前に現れた。弘志は突然溢れ出した光に目を細めた。

 そこだけ木と土がすっぽりと掻き出され、削られたばかりの土の壁には、いくつもの地層が覗いていた。その巨大な窪みの底には、うず高くゴミが積まれていて、その中にコンクリートの固まりや、パイプなどがあるのが弘志には見えた。

 「弘志君、すごいよお、こっちに下りておいでよ。」

 そのゴミを貯め込んだ巨大な窪みの底からコジマケが弘志を呼んでいた。

 コジマケの横にはなぜかカクタニと千田もいて、ゴミの山を何やら漁っているように見えた。

 「何をしてるの」弘志が窪みの底のコジマケに聞いた。

 「すごいんだよ、早くおいでよ」コジマケは興奮した声で言った。

 そんなコジマケの声に促されて、弘志は窪みの中に足を踏み入れ、泥の斜面を滑り降りた。乾燥した土が、靴の中に容赦なく入って来た。

 窪みの底はぬかっていた。弘志は底に両足が着いた瞬間、泥濘に足を取られ、大きな尻餅を着いてしまった。 

 両手を泥濘に着いてしまった弘志は、辺りに漂う悪臭に思わず顔を顰めた。

 その時、弘志の背丈よりも高く積みあがったゴミの山の中に、何かうごめくものを見つけた。

 一瞬蛇ではないかと、驚いて目を凝らした。しかし、次の瞬間弘志が見とめた物の正体は、信じられないほどの数のカブト虫がうごめいている姿だった。

 「うわあ!」弘志は驚きの余りに声を上げた。

 そのカブト虫の数は10や20ではなかった。ゴミの山に群がるおびただしい量のカブト虫。

 そこは元々別荘の建築の残骸が運び込まれた場所だった。そして、そこに人々の出すゴミが積み重ねられた。残飯は虫達の恰好の餌となっていた。

 カクタニと千田は、降りてきた弘志の事などかまう様子もなく、まるで何かに憑かれたようにカブト虫を無造作に捕まえては、自分の虫かごの中へ入れていた。

 弘志も興奮した。カブト虫がこんなに!

 まるで夢の中の出来事のようだと弘志は思った。自分はなんてラッキーなんだろう。

 虫入れの蓋を開け、弘志は数百もの数でうごめくカブト虫の大群の中に手を伸ばした。目の前で動く一匹のカブト虫の短い角を掴み、残飯から引き離す。いくつもの棘を持つカブト虫の足は、掴んだ物を強い力で引き寄せ、最後の抵抗を試みる。両足をばたつかせた一際大きなカブト虫を、弘志は虫入れの中に入れた。

 弘志は、そのカブト虫の大群の中に、たくさんの奇形を見た。妙に体の色の赤いもの、角が曲がっているもの、甲殻が発達せず赤い体がむき出しになっているもの。

 このカブト虫達はここの場所で生まれた虫だ。弘志はその時そう直感した。

 ちょうど横を向いた時、カクタニが甲殻の形のおかしい、朗かに奇形な一匹を掴んでいた。カクタニはそのカブト虫を一瞥すると、ゴミの山の中に投げ捨てた。

 弘志はこのゴミの臭いに、急に気分が悪くなってきた。そして、突然、自分はいてはいけない場所に立っているような感覚に襲われた。

 「やめようよ」弘志はコジマケに言った。

 コジマケも弘志の声など聞こえない様子で、夢中になってカブト虫を掴んでは、虫入れの中に放り込んでいた。

 「もう、やめよう!」弘志は自分でもびっくりするくらい大きな声で叫んだ。

 コジマケは余りの弘志の勢いに驚いて手を止め、ぽかんと口を開けた。

 「もう、いいよ、帰ろうよ」弘志はそう言い放ち、今降りてきた窪みの斜面を再び上り始めた。

 コジマケはわけの分からない様子で、しばらくゴミの山と弘志の後ろ姿を見比べていた。そして、最後に一匹だけカブト虫に手を伸ばした後、「待ってよ」と言いながら弘志の後を追い斜面を登り始めた。

 

 弘志は森の中をずんずん歩いた。その後を追ってきたコジマケが、やがて弘志に並んだ。

 「よっちゃんは、どこだろう」弘志が言った。

 「わかんないよ、夢中で走って逃げたからね」コジマケが虫かごを大事そうに抱えながら言った。かごの中ではたくさんのカブト虫がかさかさと乾いた音を立てていた。

 「よっちゃーん」弘志が鬱蒼とした森の中へ大きな声を出した。コジマケも同じように叫んだ。二人は走って逃げてきた道を引き返しながら、口々によっちゃんの名を呼び続けた。

 

 「腹へったね」コジマケが言った。

 「うん」そう答えた弘志も、目眩がするほど腹ぺこだった。

 弘志とコジマケは、よっちゃんを探して、結局秘密の木のあるアスファルトの道まで戻って来てしまった。

 その時、日差しが一瞬薄らいだ。弘志とコジマケが空を仰ぐと、さっきまでの深い青だった空に薄い雲の膜が掛かっていた。

 「よっちゃん、きっと山を下りたんだよ」コジマケが言った。

 二人は、最初に登ってきた来た道を引き返すことにした。

 よっちゃんもきっとこの道を辿って歩いているはずだと二人で結論づけた。

 

 

 コジマケの家のキノコ園によっちゃんはいた。

 丸太小屋の戸口で膝を抱え、俯いて座りこんでいた。

 「よっちゃん」山を下って来た弘志が、そう叫んで駆け寄った。

 「弘志君!」

 満面の笑みで弘志を見上げたよっちゃんの目は、真っ赤に充血していた。

 

 空に突如として黒い雲が流れ、遠くで雷鳴が響いた。

 辺りが嫌になるほど蒸し暑くなった後、あっという間に突然激しい雨が降り始めた。

 弘志達は丸太小屋の軒下で雨をしのぐ事にした。

「通り雨だよ」コジマケが言った。「山の雨の時は、じっとしてろって、とうちゃんが言ってた」

 コジマケは自分のリュックを開けると、朝母親に持たされたおにぎりの包みを取り出した。

 布の包みの下のアルミフォイルの中には6つのおにぎりが並んでいた。

「みんなで、ふたつずつだ」コジマケは言った。

 

 三人は丸太小屋の軒を伝い大粒で落ちる雨の雫を見上げながらおにぎりを頬張った。

 いつもならば弘志は、母親の握るおにぎり以外にはなぜか嫌悪感を感じてしまい、口にする事が出来ずにいた。しかし、目が回るほど空腹だったこともあり、何の躊躇もなくコジマケのお母さんのおにぎりに夢中で噛り付いていた。

「すごいねえ、たくさん捕ったんだねえ」

 コジマケの開けた虫かごの中身を見て、よっちゃんは目を丸くした。

「今日はまあまあかなあ」コジマケは得意げだった。

「さすが天神町だね」よっちゃんは口の回りにたくさんの米粒を付けたままで言った。

 弘志は森を叩く轟々という雨音の中で、急にうきうきとした気分が沸き上がってきた。このままずっとこうしてみんなで遊んでいたかった。

 よっちゃんが自分の虫かごの中から、雨蛙を取り出した。

 弘志とコジマケはそんなよっちゃんの仕種を見つめた。よっちゃんは一度その蛙を大事そうに両手で包んだ後、降りしきる雨の中へと放した。

 地面に下ろされた雨蛙は何が起きているのか分からずに、しばらくはキョトンとその場所に立ち止まっていた。そして、やがて小さなジャンプを繰り返すと、びっしょりと濡れた森の中へと潜り込み、やがて見えなくなった。



(完)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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