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K's Room Odds & Ends

Jリーグと鹿島アントラーズ 後編


前記事「Jリーグと鹿島アントラーズ 前編」


 あらゆるスポーツをひっくるめて考えた時、その試合の中での起こる偶発的な出来事が、勝敗を分ける上での重要なファクターの一つであると僕は思っている。早い話が勝敗を分ける局面では、運の良し悪しが大きく影響すると言いたいのである。

 そういった意味で「ラッキー!」が、大きく勝敗に影響することにかけては、このサッカーという競技、ダントツその筆頭となるに違いないと僕は思う。

 こんなことを言うと、深くこの競技を研究されているような方々には、轟々たる非難を受けるに違いないと思うのだが、僕はこのことを断言して止まない。

 拮抗した実力がぶつかり合った試合などで、大きな展開を見せるその局面には、きっかけと呼べる「運」が必ずそこに存在していると僕は考えている。具体的に言ってしまえば、バドミントンならばネットインであったり、バスケットのような団体競技での、例えば主力選手の負傷、野球などでの審判の誤審など、そんな事を数え上げれば切りがない。

 

 団体競技がそのチームの持つ「総合力」のぶつかり合いであるなら、人数が多い競技になればなるほどその「総合力」という重要性は増し、アメリカンフットボールや、ラグビーなどの競技はその際たる物だと僕は思う。アメリカンフットボールはともかく(って、実は余り面白いと思わない)、ラグビーにおいて、極めて俊敏さを要求されるバックスの存在や、スクラムで押し負けないフォワードの存在、そして、究極の司令塔とも呼べるナンバー8の存在などが渾然一体となり一つのチームを形成する。それぞれの選手が、それぞれの持ち場で最高のレベルに到達し、かつそれが洗練されたチームワークとして成り立っていなければ、そのチームは決してそれを上回るチームには勝つことはできない。「総合力」こそが決定的にその勝敗を大きく分け、そこに「ラッキー!」な要素の入り込む余地は、ほんの一握りでしかないなく、そういった意味では、圧倒的な力の攻めぎ合いである、ラグビーこそは団体競技の究極のスポーツであると僕は思うのである。

 話は相変わらず逸れっぱなしだが、一見すると、サッカーも非常にこれに似ているような気がする(ここで戻りました)。

 攻める、守るという展開においては、ラグビーに比べると個人の役割がもう少しオールマイティーさを要求され、強さもスピードも、反応もスキルも、どのポジションの選手もが持ち合わせることを求められる。

 しかし、しかしである。この競技の偶発性という点では、とてもラグビーとは比較にはならない。50点も100点も得点が入る、ラグビーに比べて、サッカーはたった1点さえも入らないのである。

 もちろん個々の選手の実力、チームとしての戦略や、そのバランスなどが重要なファクターであることには、何ら他の団体競技と変わりはない。しかし、どんなに身体能力の豊かな選手がいても、誰よりも俊敏に動ける選手がいても、あるいは、クレーバーな選手や、人一倍メンタリティーの強い選手がいても、実際のところは少しも点が入らず、決定的な勝因とはならないのである。

 もちろん、手が使えないということが、その最たる理由であるとは思うが、この競技のもっとも不自然で、特異な状態といえば、ゴールの前に手が使える「普通の人」が、一人立っているという点に限ると思う。

 

 ここで、誤解しないでいただきたいのは、僕はサッカーという競技を、偶然に勝利が決まるスポーツだ、などと言っているのではないということである。

 点が入らないがゆえに、あらゆる意味での「究極のレベルが要求されるスポーツ」であると、言いたいのである。

 相手ゴールの前にボールをどれだけ集められ、「ラッキー!」な出来事が起きる確率をどこまで上げることができるのか、そして、一点を取られてしまうことが致命傷となるのだから、チームが一丸となって敵の攻撃からゴールを守れるのか、それがサッカーという競技だと僕は考えている。

 極限までの総合力を整えた上で、最後の詰めを「神」に委ねなければならない、他の競技では到底考えられないアンバランスさで成り立っている、まさに神業的なスポーツであると僕は思うのである。

 そして、結局のところはこの競技の、この特異なバランスがメチャ面白いのである。

 手の使えないまどろっこしさ、点の入らないじれったさに観客は身悶えながら、頭の隅では点が入らないことは、結局のところ選手のせいではないことも分かっていながも、「あいつが、こう動けば」とか、「あの選手だったら」とかいった論議を起こし、もっともらしい評論家などとなると、「あの動きで悪くない」とか、「あのアイディアは良かった」などといった理屈を付けるのである。しかし、いつしかそんな理性も吹っ飛び、皆一様に獣のような一人よがりの応援団へと変身する。僕が考えるに知性派の人間ほど、この傾向が強いような気がするのですが・・・

 

 Jリーグという組織の成り立ちはともかく、僕の中での幼い頃の「いやーな」イメージを払拭し、サッカーとう競技をこれほどメジャーなものへと押し上げ、国内最高峰のプレーを目の前で見せてくれるという点では、最初の思い込みはどこへやら(!)、僕はこの組織にはメチャメチャ感謝している。

 サッカーという競技を見るという点では、ワールドカップであろうが、日本の高校サッカーであろうが、Jリーグであろうが、結局のところ僕にとっては何も変らないのだから。

 2000年のJリーグのシーズン、ナビスコ杯、そして、2001年元旦に決勝戦の行われた天皇杯。「鹿島アントラーズ」は、この三つのタイトルを全て手中にし、史上初の三冠に輝いた。僕の偶発性のスポーツ云々の理屈で言えば、いったい何が起きてしまったのだろうかというほど、今年の「鹿島」は強かった。

 ディフェンスラインの固さ、中盤の仕事っぷり、そして、フォワードのモチベーション。まさに、新聞紙上で評価されたようなことでしかないのだが、実際見ていてもその通りなのである。

 最終ラインと呼ばれるディフェンスは、秋田、ファビアーノを中心に、まるでピンボールの隙間のないバーのように、飛び込んでくる球を気持ち良いくらい、弾き返し続けた。中盤の底、日本代表でもある中田浩二は、その最終ラインをカバーし、前衛の負担が少しでも軽くなるよう、激しい運動量でチームに貢献した。そして、ダブル司令塔の、ビスマルクと、小笠原。まさに、静と、動のこのコンビがまた絶妙だった。特にビスマルクのしたたかさには舌を巻く。“この試合を取る”と固く決心したときのビスマルクの気合いは本当に凄い。

 そして、フォワードの柳沢。

 彼に関しては個人的な好き嫌いが入るのを承知で語らせて欲しいのだが、本当に彼は凄いのだ。試合前のグランドでの練習などを見ていても、芝を蹴るスピードは、他の選手を一目で圧倒する。チーム全体のバランスという意識が強すぎて、自信のゴールが少ないことで彼の評判がなかなか確固たるものにならないという部分はあるのだが、あれほどオールマイティーなフォワードはちょっと国内では見れない。前線でボール受けるときのスピード、そして、運動量。“くさび”となり、ボールが入ったときのキープ力の強さ。それが証拠に、柳沢にボールが入った瞬間、躊躇なく鹿島のディフェンスは両翼を駆け上がり、ビスマルクはたっぷりの体制で柳沢からボールを受け、相手が絞りきれない選択肢の中から、絶妙のパスを敵陣深く切れ込んだオフェンス陣へと送り込む。まさに芸術的な戦術が、柳沢を中心に機能しているのだ。

 もし、「鹿島」の強さがこのまま持続していくようならば、2002年のワールドカップは、「鹿島アントラーズ」を一チームそのまま日本代表として送り込んだ方が、よっぽど強いと僕は思うのだが・・・

 何の競技であれ、スポーツ観戦するのにはやはり「現場」がいい。

 僕の友人で、スポーツオタクであるW氏が、アメリカにプロスポーツ観戦旅行に出かけて帰ってきたことがあった。メジャーリーグのプレーオフや、アメフト、マイケルジョーダン全盛期のNBAなどを軒並み観戦し帰ってきた彼が、「やっぱり、スポーツ観戦は、テレビが一番」などと、冗談で言っていたことがあったが、実際のところ「現場」の臨場感に勝るものはないと僕は思っている。

 試合前の練習風景、伝わってくる選手の息づかい、サポーター達の応援合戦、開放された場所での日差しの心地よさや、芝の匂い。こんな物が渾然一体となって、体に伝わってくるのである。

 開幕当初のJリーグは、その試合がJリーグであるというだけで、チケットが取れないなどという、日本国民オール“ジャイアンツファン”状態みたいな状態に陥っていたらしい。

 その頃のことは良く分からないが、今はよほどの試合でもない限りは、問題なくチケットも手に入る。皆さんも機会があれば、ぜひサッカースタジアムへ足を運んでみてはいかがでしょうか?その方が、ドームの中でプロ野球を観戦しているよりは、よっぽど気持ちいいと僕は思うのですが。

(00.01.11)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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