年表でたどる
韓国・朝鮮人
BC級戦犯の歴史
TIME CHART(1941-1998)

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1941(昭和16)年
マレー上陸、真珠湾攻撃により
日本は対米戦争に突入

緒戦の思いがけない勝利により
日本軍は予想外に大量の
連合国捕虜をかかえることとなった。

1942(昭和17)年5月
朝鮮総督府が朝鮮全土から捕虜監視員を募集

形式的には「募集」だが
応じなければ食糧の配給を止めるなどと脅されて
やむなく「応募」させられたケースも多い。
また、同じ頃、朝鮮にも
徴兵制を実施することが閣議決定し
戦争にゆくよりはマシだと考えた人々もいた。


1942(昭和17)年6月
朝鮮人青年3223人
陸軍釜山西面臨時軍属教育隊(通称野口部隊)に
配属され訓練を受ける

初年兵教育さながらの
厳しい軍事訓練と精神修養が2カ月続き
ノイローゼになる人も出たという。
捕虜監視のための訓練
(捕虜の人道的処遇を定めた国際条約や
捕虜の母語である英語やオランダ語などの勉強)は
まったく行われなかった。
彼らは「上官の命令は、天皇の命令と思って
絶対服従せよ」「捕虜になるくらいなら死ね」
と叩き込まれた。

1942(昭和17)年8月
朝鮮人軍属
南方(タイ・マレー・ジャワ)の捕虜収容所に配属

日本軍は南方で、泰緬(タイメン)鉄道や
軍用道路・飛行場を建設中だった。
捕虜の強制労働は国際条約で禁止されていたが
日本軍は、連合国(英米豪蘭)の捕虜を
苛酷な建設現場にかりたてた。
食糧・医薬品も不足しており
多くの捕虜が伝染病などで亡くなった。
これらの捕虜の日常の世話をするのが
朝鮮人捕虜監視員の仕事だった。


1945(昭和20)年8月15日
日本敗戦・朝鮮解放

南方各地で連合国による
戦犯の摘発、戦犯裁判が始まった。
軍の最末端で権限もなかった朝鮮人監視員たちは
自分たちが戦犯として逮捕されるなど思いも及ばなかった。
だが、捕虜と日常的に接し顔を覚えられていた彼らは
捕虜たちの恨みを一身にかい
「首実検」によって逮捕され、裁かれる結果となった。


1946(昭和21)〜1947(昭和22)年
各地のBC級戦犯裁判で
朝鮮人捕虜監視員148人に有罪判決
うち23人が死刑判決

裁判は、証人も通訳も不充分な
ずさんなものだった。
彼らが植民地出身者であったことは
裁判ではまったく考慮されなかった。
裁判を行った連合国(英米豪蘭)も
植民地を持っていたためだろうか
植民地支配を受ける側の人々への理解は皆無だった。
判決の結果、朝鮮人捕虜監視員23人は
現地で絞首刑・銃殺刑に処せられた。
125人の有期刑・無期刑戦犯は、
現地で服役した。


1950(昭和25)〜51(昭和26)年
戦犯たちが、南方の刑務所から
占領下日本のスガモ・プリズン(米軍が管理)に
身柄を移される



1952(昭和27)4月28日
サンフランシスコ講和条約により日本が独立

以後、スガモ・プリズンは巣鴨刑務所と名を変え
日本政府の管理下に置かれる。
この日を境に、在日朝鮮人は
日本国籍を一方的に「喪失」させられた。
朝鮮人戦犯らは獄中から釈放請求裁判を起こした。
しかし3カ月後、最高裁はこの請求を棄却。
「刑を受けた時は日本人だったから」というのが
その理由だった。


1955(昭和30)年
朝鮮人戦犯とその遺族・家族が
「韓国出身戦犯者同進会」を結成

鳩山一郎総理大臣(当時)に
生活保護を求める要請書を提出。
1950年代に入ると
多くの朝鮮人戦犯が
仮釈放・満期釈放された。
だが、出所するときに持たされたのは
東京都内分の交通費と軍服だけ。
家族も頼れる知人もない日本で極貧生活を強いられ
生活苦と厭世感から2人の自殺者が出た。
このままでは生きてゆけないと
彼らは「韓国出身戦犯者同進会」を結成し
日本政府に援護を求めた。


1956(昭和31)年
鳩山一郎総理大臣に国家補償を求める要請書を提出

この年、彼らは初めて「生活保護」ではなく
朝鮮人戦犯としてこうむった被害に対する
「国家補償」(刑死者遺族への補償を含む)を要請。
以後、今日に至るまで40年にわたり
内閣がかわるたびに要請書を提出し続けている。


1956(昭和31)年
最後の朝鮮人戦犯が仮釈放される

実に戦後12年をへて
最後の朝鮮人戦犯が釈放された。
ちなみに戦争指導者であったA級戦犯は
1940年代にすでに釈放され
この頃にはすでに政界に復帰していた人も多い。
岸信介も、そのうちの1人。
「同進会」は、岸信介総理大臣(当時)にも
要請書を提出している。


1965(昭和40)年
日韓条約・日韓請求権協定締結

この時以後、日本政府は
「補償問題については一切解決済み」として
「同進会」の要請を門前払いするようになる。
「日本人」として刑を受けながら
「朝鮮人」だから補償はできないという。


1991年11月12日
「韓国・朝鮮人戦犯の国家補償等請求訴訟」東京地裁に提訴

すでに当事者の多くが70〜80代
他界する人も増えてきた。
これ以上待てない、との思いから
彼らは裁判提訴にふみきった。
この提訴直前に
「日本の戦争責任を肩代わりさせられた
韓国・朝鮮人BC級戦犯を支える会」が正式に発足。


1996年9月9日
東京地裁で第一審判決

東京地裁民事第33部(長野益三裁判長)は
原告=韓国・朝鮮人BC級戦犯者の請求を全面棄却。


1996年9月19日
韓国・朝鮮人BC級戦犯者、控訴状提出



1997年2月24日
控訴審口頭弁論開始

控訴人(=原告)および代理人(=弁護団)が弁論を行い
今後、第一審判決に対して反論してゆくポイントを指摘した。


1998年2月2日
文泰福さん死去

同進会会長・補償請求裁判原告団長として
長いあいだ運動や裁判を率いてきた文泰福さんが
結審直前の1998年2月2日に亡くなった。享年74歳。


1998年2月25日
控訴審口頭弁論結審

5回の口頭弁論(うち1回は当事者2名による控訴人尋問)を経て
東京高等裁判所で結審。


1998年5月27日
控訴審口頭弁論判決期日が延期される



1998年7月13日
控訴審判決――原告側請求棄却


1998年10月19日
「上告理由書」「上告受理申立理由書」を最高裁判所に提出



1998年11月13日
補償裁判原告・文済行さん死去



1999年11月13日
「韓国・朝鮮人「元BC級戦犯者」の補償立法をすすめる会」
発足集会(於・飯田橋シニアワーク)



1999年12月20日
最高裁判決言渡――上告棄却・判決確定



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