写真集
Photo Exhibit
(1941-1998)

写真をクリックすると、年表の関連項目にジャンプします。



写真は1943年7月、釜山の臨時軍属教育隊で撮影されたもの。
写真に映る朝鮮人軍属はみな、あどけなさの残る少年たちだ。
彼らはこの部隊で毎日「対向ビンタ」
(向かい合って相手の頬を殴る訓練)や銃剣術、
軍人勅諭や軍属読法の暗唱、等々にあけくれた。
「自我を殺し、上官に絶対服従する」訓練
――すなわち「マインド・コントロール」の訓練だった。


2カ月の訓練を終え、捕虜監視員になりたての
朝鮮人軍属たち。つかの間の外出許可がおりた際に
撮られた写真であることが、腕章からわかる。
前列右下が、戦後補償裁判の原告のひとり、故・文済行さん。
戦犯として逮捕されたとき、所持品はすべて押収されたが
故国の家族に送っていた数枚の写真だけが
現在も手許に残っている。


朝鮮人軍属が監視させられていた連合国の捕虜たちは
日本軍によって、苛酷な強制労働にかりだされた。
このスケッチは、ある捕虜が
コレラで死んだ仲間の姿を描いたもの。
日本軍の捕虜の死亡率は高く
ナチスドイツの捕虜と比べ7倍以上の死亡率を出した。
また、今日もなお心身の後遺症に苦しむ
多くの元捕虜たちがいる。
彼らは「日本はナチスより残酷だった」と語る。


戦争が終わり、故国朝鮮は独立。
朝鮮人軍属たちは帰国への思いに心を弾ませた。
彼らは日本軍を去り、帰国船を待ちながら
仲間で共同生活をしていた。
そこでは、戦時中には禁じられていた
故国の「大極旗」がひるがえり
「ウリマル」(=朝鮮人の母語)の会話がとび交った。
この場所に連合国兵士が「戦犯」摘発に訪れるのは
しかしその後間もなくの出来事だった。


趙文相(チョウムンサン)、日本名・平原守矩。
1947年2月、チャンギー刑務所にて絞首刑。享年26歳。
日本人上官の命令を捕虜に伝える通訳だったため
捕虜の憎悪を人一倍集めた。
獄中で彼は、処刑の数分前まで心の揺れを長文の遺書に綴った。
「…友よ、弟よ、己の智恵で己の思想を持たれよ。
いま自分は、自分の死を前にして
自分のもののほとんどないのにあきれている…」
この言葉は、敬虔なクリスチャンでありながら
日本軍の兵士として生きてしまったことへの
悔悟の念であろうか。


シンガポール・チャンギー刑務所。
戦犯容疑者、および刑が確定した
日本人・朝鮮人・台湾人らが収容された
刑務所のひとつである。死刑判決を受けた者は
Pホールと呼ばれる死刑囚房で
処刑執行までの日々を過ごした。
ここに特設された絞首台で処刑された人は
124人にのぼっている。また収容者に対しては、
暴行、拷問、食糧制限、重労働など
捕虜収容所における日本軍の振る舞いへの
報復ともみられる苛酷な処遇がなされ
起訴・判決の前に獄死する者も出たという。


ボロボロになったこのタオルは
戦後補償裁判の原告・金完根さんが
獄中で使用していたもの。
「L508」というのは、彼の囚人番号である。
今日まで大切に保管されてきたこの品は法廷に提出され
往時を伝える貴重な証拠資料となった。


オートラム刑務所から日本へ移送される直前の戦犯たち。
この写真には、補償請求裁判の原告となった
朝鮮人戦犯者のほかに、日本人将校としてはじめて
戦後補償裁判の原告側証人となった阿部宏氏の
姿も見られる。


巣鴨刑務所から仮釈放された
朝鮮人戦犯(後ろに映っているのが刑務所)。
服と靴は借り物。一見立派そうなカバンは段ボール製だ。
身体ひとつで見知らぬ日本の地に放り出され
その日から、生活苦・飢えとの新たな闘いが始まった。


生活苦から仲間が自殺するに至り
朝鮮人元戦犯たちは生活援護と補償を求めて
首相官邸につめかけた。
日本政府は「善処する」と回答したが
結局は果たされない空手形に終わった。
1965年に日韓請求権協定が締結されると
以降日本政府は「日韓協定で解決済み」と
彼らを門前払いするようになった。


朝鮮人戦犯たちは、半世紀近くの間
日本政府にみずからの境遇を説き
戦争責任を肩代わりさせられた不条理を訴え続けてきた。
それらがことごとく黙殺され、途がすべて閉ざされたとき
彼らは裁判提訴という方法を選ぶしかなかった。
裁判に勝てる保証はないが、自分たちが訴えてきたことが
このまま歴史の闇に埋もれてゆくことが耐え難かった。
裁判を起こせば、彼らの主張も日本政府の主張も
公式の書面に残っていく。
老いや病によって、毎年何人かの仲間を
失わざるをえない彼らにとって
最後の賭けでもあった。


1997年9月、足かけ7年の歳月をへて
東京地裁で判決が言い渡された。結果は、
「原告の訴えを全面的に棄却・却下するものだった。
裁判所は、韓国・朝鮮人BC級戦犯の被害について
「日本国民」として「受忍」すべきである、と述べた。
植民地の青年たちが、
自らの意思に反して「日本人」にさせられ
「戦犯」にさせられたことについて、
判決文では全く触れられなかった。
控訴をめぐり、原告たちの心は揺れた。
健康上の理由からも経済的理由からも
ギリギリの判断を迫られた彼らは
期限直前に控訴を決めた。


同進会会長・補償請求裁判原告団長として
長いあいだ運動や裁判を率いてきた文泰福さんが
結審直前の1998年2月2日に亡くなった。享年74歳。
祭壇右端には、半世紀以上の間共に歩んできた
原告・李鶴来さん夫妻の姿が見える。
亡き友の遺影に向かい、何を語りかけているのだろうか。


HOMEに戻る