サラエボへの旅

クロアチアやボスニアに行ったのは95年の9月中旬から一ヵ月程。ちょうどフラン スのシラク大統領が南太平洋での核実験を再開し、世界中の非難を浴びる一方で、ボス ニアの「セルビア人勢力」に対するNATOの空爆は国連としても仕方がないという雰 囲気があったときだった。
 旧ユーゴスラビアという枠で言えば、「国境」や前線が入り乱れて、地図作成でどう 表記していいか非常に悩んだころだ。現在まで続く旧ユーゴの「民族問題」と呼ばれる 問題が、軍事力によって表現されていたから。「客観的」な国や国境や民族というもの は、当時も(そして現在もたぶん)存在していなかった。「クロアチア共和国」「ボス ニア・ヘルツェゴビナ共和国」「(新)ユーゴスラビア共和国」と表記する一方で、ク ロアチ共和国の中の東スラボニア地方に「クライナ・セルビア人共和国」と、そしてボ スニア・ヘルツェゴビナ共和国の版図の一角を「ボスニア・セルビア人共和国」「ボス ニア・クロアチア人連邦」と記載しなければならなかった。そしてそれが活字になって 印刷されて来る日まで、果たして「正しい」ままであるかどうかもわからない状況で。
 戦争とはそんなものだとはその時も今も思わない。武力によって国境や境界が変えら れるということは、そこに人の生き死にが必ずともなうのだから。そのことを強く意識 させられた旅でもあった。そしてあらためて「平和な日本」で平和を語ることと、戦時 下で平和を語ることの乖離をも意識させられた。
 次の戦争が準備されているとの噂が日増しになっていたクロアチアの首都ザグレブで 反戦平和運動を続ける活動家は「政府からの直接的な圧力はないが、人々から反クロア チアだと、敵だと思われている」と言った。また「セルビア人勢力」に包囲、封鎖され たボスニアの首都サラエボでは、「一般市民」から「NATOの空爆は悪いというが、 お前はこのサラエボに市民に対する攻撃をどうやって止めるのだ」と非難された。生き 残るための闘いの中にある人々にとっての平和や難民にとっての平和とは何なのか考え ないわけにはいかない旅でもあった。
 旧ユーゴ問題を「民族問題」「民族紛争」と言うことがある。だがクロアチア語もセ ルビア語もないという基本的な事実が広く知られているのだろうか。残念ながら「セル ボ・クロアチア語」を知らないので、私自身の実感がない上での比喩で申し訳ないが、 ある言語学者は「大田区で話す言葉と世田谷区で話す言葉程の違い」だと教えてくれた 。
 また苦肉の策で作り出した概念の「モスレム人」などというのはどうだろう。「モス レム」だけで人間を指しているという訳語の問題ではなく、それが「民族国家」を形成 する主要な因子になるということについて、現実にはさまざまな宗教が信仰され、ある いは無宗教の者も含めて「共存」する社会にあって、一つの宗教のみで括った国家の様 は、必然的に排外主義を生み出すのではないかということ。その意味で「ボスニア・ヘ ルツェゴビナ共和国」が「モスレム人共和国」にならなくてよかったし、また現実にな りようはないほどユダヤ教徒もセルビア正教徒も暮らしていたのだ。

反戦平和
 しかし、現実に戦争は起こってしまっていた。夜行列車で入ったクロアチアの首都ザ グレブの中央駅には前線に向かう新兵だろう、まだ血の色も匂いのしみ込んでいない制 服に身を包んだ完全武装の集団が整列していた。カメラを向けると陽気にポーズをとる 程にはこの街では戦争が見えにくいのかもしれない。ここでは戦争はクロアチア大統領 ツジマンの勝利宣言であり、セルビア非難であり、ボスニアから流れこんだ避難民のこ そ泥であり、ここに本部を置くUNPF(国連平和軍。UNPROF=国連防護軍が改 組されていた。)や、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)だったりで、自分の生 き死にではなかった。一月前程市内にもロケットが飛んできたというが、硝煙や血の匂 い、死臭を想像することは難しかった。事実観光案内所もオープンしていれば、日曜日 には公園でスリルを味わうためにバンジージャンプに行列ができていたのだ。
 しかし実はこれも戦争のもうひとつの実相かもしれない。人は肉親の死に際しても空 腹も感じ、睡魔にも襲われるのだから。想像力を欠けば、大砲の音もなく弾も飛ばず、 街角に南米からやってきたインディオの一団がフォルクローレを奏でれば、戦争はない も同然なのだ。
 その無関心は容易に戦争推進派に利用され得る。たとえどんな理由からであれ、一度 起こされた戦争は報復の論理が入りこみ増幅される。そして見事、戦争推進によってツ ジマン大統領は選挙でも圧倒的に勝利した。「ウスタシャ」「チェトニク」という、ナ チス時代の亡霊を、甦らせることによって。人々の心の中に一度生き返った「ファシス ト=敵」は自分をも「ファシスト」にし、レイプにはレイプが、虐殺には虐殺が認めら れた。
 これ闘ったのは「非国民」としての反戦平和グループと女性の犠牲者の救援グループ 、労働者の人権グループ、そして国際的な難民、被災民救援のNGO。さらに国連一般 の問題はここでは脇に置くとしても、UNHCRであり、一部のUNPFも人道支援に 関わっていた。戦争国家の中では敵に利する者は敵だ。だからNGOも反戦平和運動も 忌み嫌われる。だからこそ反戦運動も人道救援グループもNGOも相互に密な連携をと っていたし、国連も人的関係で密接に連携していた。反戦運動の誘いでボスニアからク ロアチアに出てきた難民のキャンプを尋ねたが、帰りはそのグループのアレンジでUN HCRの車でザグレブまで戻った。また日本のNGOの個人的な交友関係で紹介された UNV(国連ボランティア)のスタッフの案内で最近クロアチアが「奪還」したという 地域を見て回ったときも、やはりザグレブに戻る際にはUNPFのシャトルバスに便乗 させてもらった。

サラエボへの旅
 日本はユーゴと査免条約があった。連邦が崩壊しても条約だけは生きていてクロアチ アやボスニアに入るにビザはいらない。敵対国同士のクロアチアからサラエボまで直行 バスがあると聞いてそれのに乗った。確かにバスターミナルで乗り込んだバスのフロン トグラスにはサラエボと表示され、キップ売場でもサラエボ行きと確認し、同乗の乗客 もサラエボへ行くという。定刻通りクロアチ内を快調に飛ばし、夜間に一気に南下した バスは、翌朝海岸から東に折れてボスニアに向かった。そろそろ「国境」という辺りか ら、景色も緊張を強いる独特の雰囲気が漂う。人が見えないのだ。「国境」の手続きに 時間がかかる。私自身は敵性を疑われたわけではないが、戦争相手国に行く人間を快く 思うはずもないのはどこも同じだ。この時期、既にクロアチアは傭兵を使い、ボスニア には義勇兵が入っているのはなかば公然となってもいた。それでも出入国管理事務所の 隣に国連軍が駐屯しているからか、検査は厳しいとはいえ、サラエボ市民を追い返すと うことは出来なかった。ボスニアに入ると周辺は戦火の跡が至る所に残されていた。人 々が逃げ出したか、追い出されたか、放置された無人の村も散見される。秋晴れの澄ん だ空気は、かえって無人地帯の異様さを際立たせていた。50年前、チトー指導下のパ ルチザン部隊の活躍を描いた「ネレトバの戦い」の舞台となったネレトバ川に架かる石 橋で有名なモスタルの町の外れを通過するころは、至る所に焼け落ち、砲撃で崩れた家 屋や工場が見える。
 山岳地帯に入ると道路自体も被害を受けていた。1月程前アメリカの代表団を乗せた 国連の装甲兵員輸送車が崖下に落ちたのも(最初は落とされたと報じられたが)無理か らぬと合点がいく。砂ぼこりを巻き上げながら国連の輸送車が走る以外には、一般車は もちろんトラックも走らない。戦争でメイン道路が使えないからだろう、未舗装でガー ドレールもない山道。走れと言われても尻込みしたくなるような道路であることも事実 だが。
 そろそろサラエボに到着の予定時刻という頃、寒村にバスは停まった。すると説明も なく全員降りろという。自分がどこにいるのかせさわからない。ましてどうやってサラ エボにいけるかなど知ろうはずもない。一緒に降ろされた同乗の客も同様のようだ。何 人か運転手に確認してやっと、別のバスが来るからそれに乗り換えろということらしい と判明した。ぞろぞろと列を作り重たい荷を引きながら歩く乗客の姿は難民のようだっ た。ここでは秩序とか合理とかいうものも崩壊しているように感じる心細さを皆味わわ された。
 来るはずのバスは来ず、山村の日暮は早い。しびれを切らした何人かが車を雇う話を 付けてきた。英語の話せるサラエボからの乗客だ。まだ一人なら乗れると誘ってくれた 。すでに寒さが忍び寄る夕暮。このまま夜を迎えることになってはと便乗した。オンボ ロの自家用車に人も荷もぎゅうぎゅうに詰め込んだ白タクは村から山道に向けて走りだ した。
 未舗装というだけでなく、戦争中に仮設したのではないかと思われる林道を、焼け切 れるのではないかと思われる程のエンジンを回すしてもの旧ソ連製ラダのスピードは上 がらない。のろのろとつづら折りを登って行く頃には辺りは真っ暗だった。ヘッドライ トに黒ぐろとした森の木々が映し出されるだけだ。やっと目が闇に慣れてきたころ、実 は所々に道路を確保するために配置されたボスニア軍の兵隊たちがいるのが見られた。 峠まで登りつめるとライトに検問所が浮かび上がった。周りには戦車や装甲車が配され ている。そして下の方に案外近くいくつか明かりが見える。サラエボだ。
 だが直ぐそこに見えるサラエボも実際は長い曲がりくねった道を下りていくしかない 。下りきったところで、しかしこの車もサラエボには行かないという。真っ暗な村の一 軒で停まった車は、次の車と交替するというのだ。同乗の乗客も状況が正確にわかって いるわけではないようだ。また同額のドイツ紙幣を払わなければならないというのでも めた。だが結局は運転手の言いなりになるしかないのだ。車が代わった理由は走りだし て直ぐに了解された。ここから先はヘッドライトも消して、弾避けの土盛の囲まれた道 を行く危険を冒さなければならなかったのだ。
 月明かりだけを頼りだが、逆に満点ぼ星と明るく輝く月は、ライトを消しているとは いえ車を闇に浮かび上がらせる。暗視スコープがなくとも十分に標的になる明るさだ。 いつ撃たれるかと心配しながら進むと裸電球が下がったところについた。兵隊が何人か 立っている。他の乗客たちは荷物を降ろし始める。どうするんだろうと思っている内に 、自分一人がとり残された。なんだかわからない内に彼らが消えてしまった。言葉もわ からないままに近くの兵隊にサラエボ、サラエボと繰り返すしかない。軍服の青年はあ っちに行けと指差す。よく見ると確かに明かりが漏れている所がある。覗くと奥に炭坑 のトロッコが見える。合点がいった。クロアチアで出会った少年からサラエボに住む友 人にと土産を預かったとき、少年は「トンネルを通って行くんだろう」と言い、、自分 が住んでいた街にもかかわらず、まだそのトンネルを見たこともないし使ったこともな いがと言ったのを思い出したからだ。「有名な」と修飾した意味も。
 包囲下のサラエボの生命線。国連の輸送機が飛ばないときに唯一食料や医薬品などの 物資と、武器弾薬を運び入れたトンネルだのだ。人が歩ける高さもない坑道が、サラエ ボ国際空港の滑走路の下を潜って「向こう側」に延びている。しかし残念ながら、先の 兵隊の上官らしき兵隊はあっちへ行けと手真似で追い返す。あっちがどっちか知らない が、指された方へ塹壕を進むとトーチカの地下の司令部があった。ことばはわからなく とも事情を察したらしいが、外人は入れないという。やはり戦争中なのだ。数十万市民 の死活にかかわる「秘密」トンネルを部外者に見せるはずもない。その士官らしき兵隊 は、近くにいた子供(こんな所に子供がいるのも、そのときは不思議だったのだが)を つかまえて、道案内に付けてくれたがつまるところ体よくところ追い返されたのだった 。
 親切な子供のおかげでその夜は、どこかもわからぬ村の居酒屋に泊めてもらうことが ことが出来た。翌日目を覚ますと昨日の緊張が嘘のようなのどかな朝を迎えた。薄く霧 にもやう山里の田舎に自分が泊まったことがわかったからだ。だが、見た目ののどかさ とは裏腹に、たった数キロさきのサラエボ市内に入ることが出来ない戦争の現実がここ にもあった。昨夜、この「民宿」に運んだ「タクシー」の運転手は明るくても「向こう 側」には行けないという。しかたなしに国連の車をヒッチハイクしてサラエボにようや くたどり着くことが出来たのも、私が外人であり国連の記者を持っていたからにすぎな い。

包囲下の生活
 84年の冬季オリンピックを開いたくらいには大きな都市も、包囲され封鎖されれ機 能はマヒする。サラエボに滞在した2週間、最後の数日を除いて、電気もガスも水もな かった。二〇階建てくらいの現代的な高層アパートの暮らしていた人々が、その都市生 活を支えるインフラを失うとどういうことになるか。旧ユーゴの戦争問題とは別なこと も体験することが出来た。
 薪ストーブで暖をとりお茶やコーヒーを沸かすために、高層マンションの全ての窓か らブリキの煙突が突き出している。眼科と咽喉科の医者の世話にならなければならない ほどのススに毎朝悩まされた。
 バスタブに張った水は顔を洗いその後、その水でトイレを流すのに使うくらいしかで きない。それでも当然使えば減るのだから、戦争中に公園に掘った井戸の水を手押しポ ンプで汲み上げて、それを動かないエレベーターを恨めしそうに眺めながら階段を運び 上げるしかなかった。しかも、その汲み上げた水も浅井戸ため飲用には使えない。だか ら民泊させていただいたブラーネさんも朝一杯のコーヒーを入れる以外は、飲料水を極 力節約していた。長い夜は、奥さんを失った悲しみを紛らわすように、地元の「コニャ ック」を毎晩すするだけだ。風呂も入れない。一度だけ公園の手押しポンプの井戸水で 洗濯したついでに体を拭いたが、あとはひたすら我慢するしかなかった。
 飲料水を運ぶ乳母車や台車を引く姿もすっかりサラエボの風物詩となってしまったの はテレビでも何度も放映されたとおり。街の中心部では旧市街側から、市中心部を流れ るミリヤツカ川を渡って対岸に渡らなければ深井戸がない。スナイパー(狙撃兵)とい う言葉を、これほど有名にした戦争もなかっただろうサラエボ包囲戦で、隠れる所のな い橋を渡るのは文字通りの命懸けだったに違いない。
 私が滞在したのはNATOによる「セルビア勢力」への空爆の後だったこともあり、 橋を渡るのに危険を感じたことはなかったが、それでもそこから1キロを離れていない 河畔の大通りの一部は今だに歩いては通れなかった。時速100キロを超す猛スピード で突っ切るか、国連の装甲車に便乗するしかなかったのだ。それを知らずにそのエリア に入ろうとした私を見つけたボスニア軍の兵隊は「死にたいか」と真顔で言った。
 なぜか包囲下といえども酒とタバコは金さえあれば手に入った。いろいろ世話をして くれたツェッツァさんによれば、毎日何人も非戦闘員が殺される戦争で、精神的にまい っている市民は食料以上にタバコを必要としたという。ヘビースモーカーの彼女の話だ から割り引いて聞く必要があるかもしれないが、それでも一番状況が厳しかったときで もタバコ工場は稼働し、パッケージの紙が入らなくてもバラで売っていたという。需要 があったことは確かだろう。私はいる間は、ちゃんと20本入りにパックされていたが 。
 食料事情を見たいと思い訪ねた市場は、前述のNATOの空爆の引き金となった、民 間人に多数の犠牲者を出した「セルビア勢力による」と言われる砲撃の標的となった場 所だった。何枚か写真を撮っていると、写真をどうするんだと言われた。スパイと疑わ れたのである。それほどに緊張し、また「敵」に対する憎悪をむきだしにしていたので ある。
 「NATOの空爆はいけないって?それじゃ、誰が罪もない市民に対する砲撃や狙い 撃ちを止めてくれるんだ」と市民は言う。ここでは「敵」ははっきりしている。彼らも 頭では敵はセルビア人一般ではないこともわかっている。しかし一度戦争になり、犠牲 者を身近に何人も出している人々は「敵」を必要とする。そうした精神状態に「敵はセ ルビア人」とするアジテーションがすんなり受け入れられてもおかしくはなかった。
 先に記したとおり、セルビア人、クロアチア人と言っても言語的な「差異」があるわ けではない。まして「モスレム人」という「民族規範」の人々が「モスレム語」を持っ ているはずはない。ようするに「敵」を必要とた「民族主義」が自らを「セルビア人」 と呼び、戦争を煽った結果が、晴れて「敵」からもセルビア人と認められたに過ぎない のだろう。だから私の大家のブラーネさんは「セルビア人」だがサラエボ市内に暮らし 、ブラーネさんを紹介してくれたツェッツァさんは「モスレム人」だが、二人は当時ボ スニア分割に反対する社会民主党の同志だから、そこで「民族」が問われることはなか った。止まれ。ブラーネさんは連れ合いを「セルビア人勢力」に殺された。一方「セル ビア人勢力」に憎悪を持つ人々の中では、また自分も「セルビア人」ととして見られて いるのである。そして「セルビア人勢力」の背後に控えるセルビア共和国の本国の首都 ベオグラードに父親が住んでいる。
 この街で「サバイバル」という言葉を何度聞いた。「美しかった」と、懐かしさと平 和への憧憬をこめて形容される公園は、全ての立ち木は燃料用として伐り倒すされた。 もちろん伐った人々自身が、その翌日には立ち木がなくなったことで隠れる所を失って スナイパーの餌食になるという悲劇に見舞われたのだが。東京郊外のファミリー農園の ように小さく区画された畑の中に、所々残る石作りのベンチの跡から、そこがかつて公 園だったことをうかがわせる。
 ローマ帝国が、いかにしてローマ遺蹟になったかを空想させる事態が20世紀末の今 、現在進行形で繰り広げられていた。だがその一方で、ファッションに何の興味もない 私ですら知っているベネトンが土嚢積まれた奥に最新の衣装を飾っている現実もあった 。パンと水しかないどころか、その日に口に入れるものすらなかった日もあるというと きにである。ブランド物を身につけることが出来る一部のもの達は、命を賭しての水汲 みも、スナイパーを恐れながらの畑作りもしなくていいのだろう。「サバイバル」は等 しく強制されたのではないことも記しておきたい。そのことによって圧倒的多数派が強 いられた「サバイバル」の事実を否定するものではないのだから。

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