インドネシア

『週刊金曜日』に掲載

インドネシア国軍も、東チモールでの虐殺と破壊が国際的な非難を浴びることで少しは懲りたかと思ったが、そうでもないらしい。 私が歩いたのはインドネシア東部の東チモールよりさらに東の海域に広がるマルク諸島であり、またその対局に位置する西の端、スマトラ島北部のアチェ特別州の一部でしかない。しかしここで見たものは現在のインドネシアの特殊な一例とも言えないようようだ。

 「宗教浄化」が進む島々

 なじみの薄いマルク諸島だが日本との関わりは意外と古く15世紀に遡って史料がある。もっとも1623年にバンダ島で当時15000人いた住民の、実に96パーセントを殺し尽くしたオランダ軍の傭兵の日本人「サムライ」たちの虐殺から始まる、ありがたくない歴史ではあるが。
 そのマルク諸島の中心都市、マルク州の州都アンボンにまず入った。昨年1月、バスの運転手と乗客の運賃を巡るトラブルから、キリスト教徒とイスラム教徒が対立し、住民同士が殺戮と破壊を繰り返す「宗教紛争」の発火点である。しかもなお一年が過ぎた今も衝突が続いているという。
 以前はヨーロッパからの観光客であふれたであろう小さな国際空港のロビーは、自動小銃を構えた迷彩服の兵隊であふれていた。スラウェシから運行される小さな飛行機の中では、当然にも宗教の別なく同席してくるからである。  ところが一歩空港の敷地を出たら、両者は全く異なるルート辿って目的地に向かう。まだらに点在する「キリスト教徒の村」「イスラム教徒の村」を互いに避けて移動するためだ。互いに自分たちの船着き場を持ち、スピードボートと呼んでいる渡し船を主要な交通手段としていた。
 とまれ、ここで私が「」を付したのは、もともとそんな純粋に単一の宗教集団で構成された村や町があろうはずはなく、この一年の紛争の中で棲み分けが強制された結果が「キリスト教徒の村」であり「イスラム教徒の村」なのだ。旧ユーゴスラビアからクロアチアが独立する際に「クロアチア人の国」という幻の国家建設のスローガンのために「クロアチア人でない」者たちが殺戮と追放の対象となり、「民族浄化」が行われたことを想起されたい。つまり、ここでは「宗教浄化」とでも呼べそうな事態が起こっていたのだ。

   恐怖が支配する破壊された街

アンボン市内もまたその例外ではなく、市中心部は辺り一帯焼け落ち、また強力な爆弾でも使われたのだろう、崩れ落ちた建物の残骸だけが強烈な日差しにさらされていた。警備する武装した兵隊の他は人通りとてなく、ただ破裂した水道管からチョロチョロと水が流れていた。その周辺は人々が逃げ出したのだろうか、ゴーストタウン化し、ショッピングモールもシャッターが降りたままひっそりとしている。
 この500メートル四方の無人地帯が境界となって狭い海側にイスラム教徒が、それを取り囲むように山側にキリスト教徒が「棲み分け」ていた。その間を往き来しているのはMSF(国境なき医師団)など緊急救援のNGOと数名の外国人ジャーナリストしかいない。「向こうに行ったら殺される」という不信感からお互いに誰も近づこうとさえしない。
 街角でいきなり私に向かって「お前の宗教は何だ」と聞き、「そうか仏教とならイスラム教徒と同じだ」と言う者もいた。しかも彼は「こんな武器しかないけど」とナイフを見せた。
 また一方で「『汝の敵を愛せよ』とは確かにイエスは言ったでしょう。でも相手はイスラム教徒です。同じキリスト教徒なら争っても相手を愛せますが。」と市内が一望出来る山の手の家で話す青年にも会った。そして彼も手製の銃を持っていると言った。お互いが自衛のためと言うのだ。
 しかしモスクでの礼拝から出てきた青年が「宗教が違うからといって、どうして殺し合うようになってしまったかわからないよ。」と漏らした言葉もまた真実だ。そして教会やモスクが焼かれ、知人や友人が殺された今でも、「もちろんイスラム教徒の友人もいます。会ってはいませんが今でも彼を信頼してますよ。」というキリスト教徒の青年の言葉も信じるに足るだろう。しかし歩いて30分たらずのその友人には会いに行けないのだ。皮肉なことに国軍基地内の収容所に逃げた人々だけが「共存」していた。

    扇動者の影

 では何故人々は「宗教戦争」に駆り出されたのか。知人のデンマーク人ジャーナリストは、自らを「神の軍」だとか、「美少年たち」だとか呼ぶキリスト教徒の少年グループを取材して「まるでギャングだ」と吐き捨てた。悪い冗談としか思えないが、手製の銃や爆弾で武装しているというのだ。
 私もまた「ジハード=聖戦」を名乗るイスラム教徒の一団を、北マルク州のティドレ島で取材した。その中には年端もいかない子供たちも参加し、使い方さえおぼつかないだろう銃を持っていた。
 しかし彼らの主観を別にすれば、やはり彼らも「宗教紛争」に動員された「駒」でしかないのだ。
それは「ジハード」が得意げに見せてくれた鉄パイプを溶接しただけの手製の銃が、実は弾丸は軍や警察の協力でもなければ手に入らないライフル銃の実弾を使用している一事を見てもわかることだ。
 それだけではない。アンボン島の西隣、ブル島の「100名程が暮らしていたキリスト教徒の村、ワイベ」から避難民収容所に逃げてきた村人は証言する。「1000名位のイスラム教徒に襲われました。でも連射音がしたので、彼らの中にマシンガンを持った軍の兵隊がいたのでしょう」と。
 またアンボン滞在中に、北東のセラム島のマソヒで教会とモスクが焼かれた。2日後スピードボートを乗り継いで訪ねてみると、焼け落ちた教会は国軍駐屯地の目と鼻の先だった。しかし取材に協力してくれた地元の警察をも威圧するかのように、警備の責任があるはずの国軍の大隊司令官は私を高圧的な態度で「取り調べ」、取材を許さなかった。食料支援をしているNGOの地元スタッフは「誰も兵隊を信じてなんかいないよ。」と言っていた。

   解決の展望

 東チモールに長く駐在し、軍隊の恐ろしさを知っているという地元紙の編集長は「私は軍を恐れないから、軍の起こす事件を毎日書いているけど、週に4日も軍が起こす事件だけ書くことになってる。これは正常じゃないよ。」と嘆く。「治安のため」に増派されたはずの大部隊がいるにも関わらず、未だに「不審な事件」が絶えないのだ。そしてその結果、「イスラム教徒はよりイスラムに、キリスト教徒はよりキリスト教に傾いている」と指摘する。つまり異なる宗教を排除する事で信仰心の深からんことを確認する「宗教紛争」が進行しているのだと。
 北マルク州のハルマヘラ島を追われたイスラム教徒は、玉突きのように、キリスト教徒を追い出して「イスラム教徒の町」となってしまったテルナテ市で避難民生活を送っている。そのテルナテの大学を定年退官した元教授は「これは政治的な問題です。宗教的な理由は、それに付随した問題に過ぎません。」と言い切る。そして「地域政治だけでなく、ジャカルタ中央の政治の影響も受けているのです。」と示唆的に付け加えた。
 国軍は、非難の矛先をかわすかのように、現場の下級兵士の何人かの「召還」を発表した。だが地元人権団体は軍事法廷すら開かれない現状に警戒感をゆるてはいない。人々が真相を知ることによってしか、和解はないだろうと考える彼らは、政府に対して公開の調査と裁判を要求している。
 4月23日、前出テルナテでは数千人のイスラム教徒「聖戦」の一団に爆弾が投げ込まれ、死傷者が出た。武器を取っての「宗教的な解決」ではなく、まさに政治的な解決が求められるゆえんだ。

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